『三、大 利 益 論』
【永遠の幸福】
 もし、大聖人のご遺文より成仏のご文証を引いたならば数かぎりない。
いま、反対に、成仏しないということをお悲しみになってお書きになったご文証を引いてみよう。
 成仏用心抄(じょうぶつようじんしょう)(御書一〇五六ページ)にいわく、
「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀(しだん)ともに無間地獄(むげんじごく)は疑いなかるべし」
 このように、妙法蓮華経の信仰は、成仏するか、しないかが根本の問題である。成仏するということが仏法修行の根底であり、成仏するほどの幸福はないと大聖人はおおせになっておられるのである。
されば開目抄下(御書二三七ページ)に、「日蓮が流罪(るざい)は今生(こんじょう)の小苦なれば・なげかしからず、後生(ごしょう)には大楽を・うくべければ大に悦(よろこ)ばし」というおおせは深く味わうべきである。
 しからば成仏とはいかなることか。とうてい、われわれごとき凡愚(ぼんぐ)にはこのご境涯は説くことあたわずとはいえども、各自の信心の智解(ちげ)の千万分か一ともならんかと思って説いてみる。
 成仏とは水遠の幸福を獲得(かくとく)するということである。
われわれの生命というものは、この世かぎりのものでは絶対ない。永遠に生きるものである。
永遠に生きるのに生まれてくるたびに、草や木や犬やネコや、または、人となっては貧乏・病気・孤独・バカ等の生活を繰り返すことは、考えてみてもとうてい忍(しの)びえないことである。
 成仏の境涯をいえば、いつもいつも生まれてきて力強い生命力にあふれ、生まれてきた使命のうえに、思うがままに活動して、その所期(しょき)の目的を達し、だれにもこわすことのできない福運をもってくる。
このような生活が、何十回、何百回、何千回、何億万回と楽しく繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか。
この幸福生活を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、かわいそうというよりほかにない。
この成仏のことについて、深く思索してみるために、次のご文証を引いてみよう。

 三世諸仏総勘文教相廃立(そうかんもんきょうそうはいりゅう)(御書五七四ページ)(注13)にいわく、
 「三世の諸仏の御本意に相い叶(かな)い二聖(しょう)・二天(てん)・十羅刹(らせつ)の擁護(おうご)を蒙(こう)むり滞(とどこお)り無く上上品 の寂光(じゃっこう)の往生(おうじょう)を遂(と)げ須臾(しゆゆ)の間に九界生死の夢の中に還り来って身を十方法界の国土に還じ心を一切有情(うじょ う)の身中に入れて内よりは勧発(かんぱつ)し外よりは引導(いんどう)し内外相応(ないげそうおう)し因縁和合(いんねんわごう)して自在神還(じざい じんずう)の慈悲の力を施(ほどこ)し広く衆生を利益すること滞(とどこお)り有る可からず。
 三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食(おぼしめ)して世間に出現し給えり乃至然るに宿縁に催(もよお)されて生を仏法流布の国土に受けたり善知識(ぜ んちしき)の縁に値(あ)いなば因果を分別して成仏す可き身を以て善知識に値(あ)うと雖(いえど)も猶(なお)草木にも劣って身中の三因仏性(いんぶつ しょう)を顕(あらわ)さずして黙止(もだ)せる謂(いわ)れ有る可きや、此の度必ず必ず生死の夢を覚(さ)まし本覚の寤(うつつ)に還って生死の継(き づな)を切る可し今よリ已後は夢中の法門を心に懸(か)く可からざるなり、三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障(さわ)り無く開悟(かいご) す可し自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰(くも)り無し、三世の諸仏の勘文(かんもん)是くの如し秘す可し秘す可し」

  (注13) 「三世諸仏総勘文教相廃立」
   「この御言の解釈は次に詳しく述べられている。二聖は薬王菩薩と勇勢(ゆぜ)菩薩。二天は毘沙門天(びしゃもんてん)と持国天。

  「三世の諸仏の御本意に相い叶(かな)い」とは、大御本尊を信じ、題目を唱えることである。「二聖・二天・十羅刹(らせつ)の擁護(ようご)を蒙(こ う)むり」とは、大御本尊のご利益をこうむることである。「上上品の寂光(じゃっこう)の往生(おうじょう)を遂げ」とは、成仏のことである。「須臾(し ゆゆ)の間に九界生死の夢の中に還(かえ)り来って身を十方法界の国土に還じ心を一切有情(うじょう)の身中に入れて」とは、すなわち、また、生命がふた たび還って、人として、あるいは目的をもっている生命として、活動を起こす状態である。このように、成仏といっても特殊のところに生きながらえているので はなく、たえず九界の世界に遊戯(ゆうげ)していることをおおせである。「内よりは勧発(かんっぱつ)し外よりは引導し内外相応(ないげそうおう)し因縁 和合(いんねんわごう)して」 とは、ふたたび大御本尊にお目にかかることをいうのである。
「自在神通の慈悲の力を施(ほどこ)し広く衆生を利益すること潜(とどこお)り有る可からず」とは、慈悲の境涯より大御本尊の一分の御目的をちょうだい し、生まれてきたところのその生命の目的に対して、じゆうぶんなる価値活動をなして、みずからも楽しみ、他も利益して、自在無礙(じざいむげ)の生活を感 ずることである。
かくのごとき幸福こそ、真実の幸福といわねばならない。この成仏の境涯を得んと願うことを、さらに重ねて吾人は願うものである。
 さて、以上の功徳について重ねていわねばならぬことは、初信の功徳と一生涯をつうじて現われる功徳についてである。
 初めて信仰した者には、かならず功徳がある。これは初信の功徳ともいうべき功徳である。
この初信の功徳の絶対なることを信じなければならない。
なぜならば、大聖人滅後七百年の今日においては、本尊の雑乱(ぞうらん)はなはだしきものがある。
日蓮正宗の本尊を除いては、ことごとく天魔外道(てんまげどう)の本尊である。
姿は仏に似せようと、神を表わそうと、みな内証においては天魔外道である。
しかるに、日蓮正宗の御本尊は、大聖人のご生命ご自身であり、三世十方の諸仏の本尊であり眼目である。
 ゆえに、この大御本尊を信じたてまつれば、三世十方の仏菩薩は、この信者を善哉善哉(よきかなよきかな)とほめたてまつり、天魔外道は恐れをなすのである。
信力・行力が強ければ、これに応じて法力・仏力が強く現われて、ここに利益を感ずるのである。
これ本尊の大威力示現の相であって、疑うことのできない事実である。
 御本尊の法力・仏力をお示しになって最初のご利益を得たのちは、各自のもつ過去の罪報によって、消さねばならぬものを消し、うけねばならぬものをうけて、罪報(ざいほう)を消すのである。普通にはこれを罰(ばち)というのである。
これとて信力・行力の強い者は護法(ごほう)の功徳力によって軽くうけつつ、真の成仏への道をたどるのである。このことは、佐渡御書および開目抄につぶさにお示しであれば、よくよく拝読すべきである。
 さて、かくして信力・行力の強い者は、かならず成仏する。その成仏の証拠として、現世においてあらゆる幸福をうるのであって、その幸福を知って、未来の成仏を確信しなければならないのである。
いいかえれば初信の功徳は大御本尊に威力のある証拠であり、御本尊を信じた者が、一生のあいだにかならず幸福になるということが成仏するという証拠となるのである。
 このように、ご利益を論ずれば、だんだんと高く深くなってくるが、吾人をもっていわしむれば、大御本尊を信奉したてまつる功徳というのは、これだけのものではない。
日寛上人の御本尊の功徳無量無辺というおことばが思い出される。
無量無辺であるから、私ごとき者の説きつくせるものでは絶対にない。
私にこれ以上の会通(えつう)を加えることは大御本尊に対して申しわけないことであるが、ただありがたさのためにこれを述べる。
 成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。
大聖人の凡夫即極(そくごく)、諸法実相とのおことばをすなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来に向かって仏であると覚悟(かくご)することである。
 もったいなや、かかる不浄の身が、御本尊を受持したてまつることによって、仏なりと悟るとは、なんというありがたいことではないか。
この果報こそ、なにものにもかえがたい果報であって、ひとえに大御本尊の大功徳である。なにをもって御供養したてまつらん。
生きては折伏を行じ、死しては、たとい地獄の衆生になっても、御本尊を胸にだきしめ、畜生道に行っては大聖人のお衣のはじをくわえ、生々世々(しょうじょうよよ)、ただ御本尊から離れまいと、朝夕お願いしたてまつるばかりである。
 願わくは、諸氏は、私にまさる大利益を得られんことを。
 〔注〕「永遠の幸福」は大白蓮華第二十号に掲載されたものです。

【生きることが楽しい】

 このように、自分の生命というものは永遠であります。
 ただ、おじいさんになってから、赤ん坊になれませんから、いっぺん死ぬのです。
そして、赤ん坊になって生まれてくるのであります。
生まれ変わるのではないのであります。
ちょうどわれわれが赤ん坊のときから、この年までずっと続いてきているのと同じなのであります。
途中で、切れたことはないでしょう。
しかし、切れたみたいなときがあります。
グッスリ眠っているときは、自分では生命があったのか、なかったのかわからないでしょう。
しかし、夜の生命から朝の生命に生まれ変わったとはいわないでしょう。
それと同じで、来世に生命が生まれ変わるのではなくて、この生命の続きなのであります。
たとえてみれば、朝起きて、元気ハツラツとして、晩になると疲れてグッスリ眠って、元気をとり戻すように、ずーっと年寄りになって死んで、その生命の続きが、今度は赤ん坊になって生まれてきて、またおじいさんになって死んで、また生まれてくるのであります。
 われわれの生命がこの世だけでないから、宗教をヤカマシクいうのであります。
来世に生まれてくるとき、また四畳半へ生まれてきて、汚い着物を着て、年頃になっても満足な福運もなく、一生貧乏で暮らしたり、病気で暮らしたりするのは 嫌(いや)であります。生まれ落ちると、女中さんが三十人もついて、婆やが五人もいて、年頃になれば、優秀なる大学の卒業生として、お嫁さんは向こうから 飛びついてきて、良い子供を生んで立派な暮らしをして、死んでいかなければなりません。
その来世の幸福を願うがゆえに、いま信仰するのであります。
今生(こんじょう)もよくなければ来世がいいという証拠にはなりません。
今生において幸せになるがゆえに、来世のことも仏の仰せどおり、確信できるのであります。
安心して信心を続ければ、今生において必ず証拠が出るのであります。
 信心して一年か二年して「まだダメですか」そんなにあわてることはありません。
六十で死ぬなら、五十五くらいからでもたくさんであります。
五年間、毎日毎日、楽しく暮らしたらよいではありませんか。
それを三十代から「二年間やったけれどまだダメだ」。
そうあわてなくてもいいのであります。
貧乏の味も知っていなければ、楽しみの味もわからない。
我慢して貧乏しろという意味ではなくて、必ず証拠が出るのであります。
信心を怠(おこた)らず熱心にずーっとやって下さい。
いくらやってもダメだということは、絶対にありません。
断じて、そういうことにならないことを確信しているのであります。
 十年、二十年とやった人は、今まで、みんな幸福になっております。
御本尊の功徳は、脳ミソの中まで変わり、頭まで良くなるのであります。
 このように、人間は死ななくても困ります。
また死ぬ時が分(わ)かっているのも困ります。
三日しか生命がないとしたら、講義の本なんか読んでいられません。
ですから、人間は必ず死ななければならないものであって、死ぬ年月が分からないようにできているところに、世の中の面白さがあるのであります。
これが妙なのであります。なればこそ、御本尊を拝むようにもなるのであります。
 実に生命というものは面白いものであります。
 死ぬときを分らせないでいて、本人には生きたがらせておいて、死なせるようにできているのであります。
ですから、大聖人が本有(ほんぬ)の生死(しょうじ)である、本有の退出(たいしゅつ)であると仰せられているの
であります。
 そう思いますと、御本尊を拝まずにはいられなくなります。
大聖人の仰せどおり、御本尊の功徳によって権・迹・本の仏の因行果徳(いんぎょうかとく)を承推(しょうけい)して、死ぬ前には、ほんとうに幸せで、楽になって死なねばなりません。
信心さえ強盛であれば、御本尊を信じきるならば、必ず死ぬ前、数年間、ほんとうに丈夫で、お金があって、家が平和で、思いどおりになって、……そのようになるとおっしやっているのであります。
そうでなければ、死後の成仏の証明かつかないのであります。
 死ぬまで貧乏したリ病気したりしてはたまりません。
病気の者なら必ずなおり、心も平和で落ち着いて、行きたい所にも行ける。
そうなると、苦労している間の方が、見込みがあるということになる。
まだ生きるということがハツキリしてるから。そう思うと、今は本有の貧乏でも、安心です。
 
〔注〕「生きることが楽しい」は戸田前会長の「方便品寿量品講義」から抜粋しました。
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