二、戸田前会長の生命論
【生命の不可思議】

 わが国の神道が超国家主義(ちょうこっかしゅぎ)(注1)、全体(ぜんたい)主義(注2)に利用されて、ついには無謀(むぼう)なる太平洋戦争にまで発 展していったときに、私は恩師故牧口常三郎先生および親愛なる同志とともに、当時の宗教政策のはなはだ非なることを力説した。
すなわち、日本国民に神社の礼拝を強制することの非論理的、非道徳的ゆえんを説いたのであるが、そのために昭和十八年の夏弾圧(だんあつ)されて、爾来(じらい)二か年の拘置所(こうちじょ)生活を送ったのであった。
(注1) 「超国家主義」
 『個人主義や自由主義を否定する極端な国家主義、全体主義である,国家を超越した国際主義、世界主義という意味に用いられる揚合もあるが、ここでは前者を指す。』
(注2) 「全体主義」
 『個人の自由、平等とか、多数決の原理のようなデモクラシーの諸原理を排除して、全体の優先、指導者主義、権力主義をとる。集会や結社の店出を制限したり、禁止したりして、あらゆる団体を国家権力のもとに統制する主義。』
 冷(つめ)たい拘置所に、罪なくとらわれて、わびしいその日を送っているうちに、思索(しさく)は思索を呼んで、ついには、人生の根本問題であり、しかも難解きわまる問題たる「生命の本質」に突き当たったのである。
「生命とは何か」「この世だけの存在であるのか」「それとも永久につづくのか」これこそ永遠のナゾであり、しかも、古来の聖人、賢人と称せられる人々は、各人各様に、この問題の解決を説いてきた。
 不潔(ふけつ)な拘置所にはシラミが好んで繁殖(はんしょく)する。春の陽光を浴びて、シラミはのこのこと遊びにはいだしてきた。
私は二匹のシラミを板の上に並べたら、彼らは一心に手足をもがいている。
まず一匹をつぶしたが、他の一匹はそんなことにとんちやくなく勁いている。
つぶされたシラミの生命は、いったいどこへ行ったのか。
永久にこの世から消えうせたのであろうか。
また、桜の木がある。あの枝を折って花びんにさしておいたら、やがてつぼみは花となり、弱々しい若葉も開いてくる。
この桜の枝の生命と、もとの桜の木の生命とは別のものであるか、同じものであるのだろうか。
生命とはますます不可解なものである。
 その昔、生まれてまもないひとりの娘が死んで、悩み、苦しみぬいたことを思い出してみる。
そのとき、自分は娘に死なれてこんなに悩む。もし妻が死んだら(その妻も死んで自分を悲しませたが)……もし親が死んだら(その親も死んで私はひじょうに 泣いたのであったが)……と思ったときに身ぶるいして、さらに自分自身が死に直面したらどうか:・:・と考えたら、日がくらくらするのであった。それ以 来、キリスト教の信仰にはいったり、また阿弥陀経(あみだきょう)によったりして、たえず道を求めてきたが、どうしても生命の問題に関して、心の奥底(お うてい)から納得(なっとく)するものはなにひとつ得られなかった。
 その悩みを、また、独房の中で繰り返したのである。元来が科学、数学の研究に興味をもっていた私としては、理論的に納得できないことは、とうてい信ずる ことはできなかった。そこで私は、ひたすらに、法華経と日蓮大聖人の御書を拝読した。そして、法華経の不思議な句に出会い、これを身をもって読みきりたい と念願して、大聖人の教えのままにお題目を唱え抜いていた。唱題の数が二百万遍になんなんとするときに、私はひじょうに不思議なことに突き当たり、いまだ かつて、測(はか)り知りえなかった境地が眼前に展開した。喜びに打ち震(ふる)えつつ、ひとり独房(どくぼう)の中に立って、三世十方の仏・菩薩いっさ いの衆生に向かって、かく叫んだのである。
 「遅るること五年にして惑(まど)わず、さきだつこと五年にして天命を知りたり(注3)」と。
 かかる体験から、私はいま、法華経の生命観に立って、生命の本質について述べたいと思うのである。

(注3)『 遅るること五年……さきだつこと五年孔子は論語で「四十にして惑わず」「五十にして天命を知る」といっている。戸田前会長は拘置所の中で、生 命の不思議を感得し、広宣流布のために命を捨てて戦うことを誓われた。すなわち、もう何ものにも迷わず、しかも天命を知ることができたといえるであろう。 しかも、その時が四十五歳であったので、孔子に比べた場合、遅れること五年であり、さきだつこと五年になるわけである。』

【三世の生命】

 法華経譬喩品(ひゆほん)にいわく(注4)
「爾(そ)の時に仏、舎利弗(しゃりほつ)に告げたまわく、吾れ今、天、人、沙門(しゃもん)、婆羅門(ばらもん)等の大衆の中に於(お)いて説く。我昔 曾(かつ)て二万億の仏の所(みもと)に於いて、無上道の為(ため)の故に、常に汝を教化す。汝亦、長夜に我に随(したが)って受学しき。我方便を以 (も)って汝を引導(いんどう)せしが故に、我が法の中に生ぜり。舎利弗(しゃりほつ)、我昔、汝をして、仏道を志願せしめき。汝今悉(ことごと)く忘れ て、便(すなわ)ち自ら已(すで)に滅度を得たりと謂(おも)えり。我今還(かえ)って、汝をして、本願所行の道を憶念(おくねん)せしめんと欲するが故 に、諸(もろもろ)の声聞の為に、是の大乗経の妙法蓮華、教菩薩法、仏所護念と名づくるを説く。舎利弗、汝未来世に於いて、無量無辺不可思議劫(ふかしぎ こう)を過ぎて、若干(そこばく)千万億の仏を供養し、正法を奉持(ぶじ)し、菩薩所行の道を具足して、当(まさ)に作仏することを得べし」

(注4) 法華経譬喩品にいわく、
 『譬喩品第三で、仏の述成(じゆつじょう)と授記を明かす文である。舎利弗等の声聞の弟子たちは、釈尊が過去世において二万億の仏のもとで説法していた ときに、釈尊に従って仏道修行を励んだのである。そうした過去世の因縁によって、釈尊がインドに出現したときには、また「わが法の中」すなわち釈尊の弟子 として生まれることができたのである。しかして未来には、無量無辺不可思議劫という長い時代を経て、成仏するであろうと授記をしている。以上、生命が過 去、現在、未来の三世にわたることの証明に引かれた経文である。』

化城喩品(けじょうゆほん)にいわく(注5)
「是(こ)の十六の菩薩沙弥(しゃみ)は、甚(はなは)だ為(こ)れ希有(けう)なり。諸根通利(しょこんつうり)して智慧(ちえ)明了なり。已(すで) に曾(かつ)て、無量千万倍数(おくしゅ)の諸仏を供養し、諸仏の所(みもと)に於いて、常に梵行(ぼんぎょう)を修し、仏智を受持し、衆生に開示して、 其の中に入らしむ。汝等皆、当(まさ)に数数親近(しばしばしんごん)して、之を供養すベし。所以(ゆえん)は何(いか)ん。若し声聞、辟支仏(ひゃくし ぶつ)、及び諸(もろもろ)の菩薩、能く是の十六の菩薩の、所説の経法を信じ、受持して毀(そし)らざらん者、是の人は皆、当(まさ)に阿耨多羅(あのく たら)三藐(みゃく)三菩提(ぼだい)の如来の慧(え)を得べし。仏、諸の比丘(びく)に告げたまわく、是の十六の菩薩は、常に楽(ねが)って、是の妙法 蓮華経を説く。一一の菩薩の所化の、六百万億那由佗恒河沙(なゆたこうがしゃ)等の衆生は、世世に生まるる所、菩薩と倶(とも)にして云云」

(注5) 化城喩晶にいわく、
『化城喩品第七に、三千振点劫前の大通智勝仏の因縁を説かれている文である。十六の菩薩沙弥とは、十六王子である。この十六王子は、出家して仏道に励み、 すでにかつて無量千万倍数の諸仏を供養してきたのである。しかして、この王子たちの弟子は、六百万億那由佗恒河沙というたくさんの弟子たちであるが、未来 世においては世々に菩薩とともに生まれてきて、仏道修行に励んでいくのである。』

如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)にいわく(注6)
 「諸(もろもろの)の善男子(ぜんなんし)、如来諸の衆生の、小法を楽(ねが)える徳薄垢重(とくはつくじゅう)の者を見ては、是の人の為に、我少(や わ)くして出家し、何何多羅(あのくたら)三藐(みゃく)三菩提(ぼだい)を得たりと説く。然(しか)るに我、実に成仏してより巳来(このかた)、久遠な ること斯(かく)の若(ごと)し」

自我偈(じがけ)にいわく(注6)
「我仏を得てより来(このかた)、経(へ)たる所の諸(もろもろ)の劫数(こつしゅ)、無量百千万億載阿僧祗(おくさいあそうぎ)なり」

(注6) 如来寿量品にいわく、自我潟にいわく、
『寿量品第十六には永遠の生命を説く。「久遠なること斯(かく)の如し」とか「無量百千万億載阿僧祗なり」とは、永遠の生命を説く文である。右の経文は法 華経のごく一部ではあるが、およそ釈尊一代の仏教は、生命の前世、現世および来世のいわゆる三世の生命を大前提として説かれているのである。ゆえに仏教か ら三世の生命観を抜き去リ、生命は現世だけであるとしたならば、仏教哲学は、まったくその根拠(こんきょ)を失ってしまうと考えられるのである。しかし て、各経典には生命の遠近(おんごん)・広狭(こうきょう)によって、その教典の高下(こうげ)・浅深(せんじん)がうかがわれるのである。さらに日蓮大 聖人にあっても、三世の生命観の上に立っていることはいうまでもない。ただ釈尊よりも大聖人は生命の存在を、より深く、より本源的(ほんげんてき)に考え られているのである。

 開目抄上(御書一八六ページ)にいわく(注7)
 「儒家には三皇・五帝・三王・此等を天尊(てんそん)と号す(乃至)貴賤(きせん)・苦楽・是非(ぜひ)・得失等は皆自然(じねん)姉云云。かくのごと く巧(たくみ)に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄(げん)とは黒(こく)なり幽(ゆう)なりかるがゆへに玄という(ただ)但現在計リし れるににたり」
 
また同下(御書二三二ページ)にいわく(注7)
 「詮(せん)ずるところは天もナて給(かま)え諸難にもあえ身命を期(ご)とせん、身子(しんし)が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼(こつげん)の婆羅門 (ばらもん)の責(せめ)を堪(た)えざるゆへ、久遠大通(くおんだいつう)の者の三五の塵(じん)をふる悪知識に値(あ)うゆへなり、善に付け悪につけ 法草経をすつるは地獄の業なるべし」

 (注7) 開目抄上にいわく、また同下にいわく、
『初めの儒教についての文は、儒教には生命の過去も未来も説いていない。ただ、現在の道徳ばかりを説いているとの意である。次の「詮ずるところ は・・・・」の文は、永遠の生命観の上に立っての教えである。「身子(しんし)が六十劫の菩薩の行」とは、身子とは舎利弗(しゃりほつ)であり、舎利弗が 六十劫の菩薩の行を立てて修行を始めたが途中で退転したことをお述べになっている。「三五の塵をふる」とは、久遠下種の者が退転して五百度点劫を経歴し、 大通下種の者は退転して三千塵点劫を経歴したのである。』

  撰時抄(御書二六九ページ)にいわく、
「今の人人いかに経のままに後世をねがうともあや(過誤)まれる経経のままにねがはば得道もあるべからず、しかればとて仏の御とかにはあらじとか(書)か れて侠」かかる類文(るもん)はあまりにも繁多(はんた)であり、三世の生命観なしには仏法はとうてい考えられないのである。
これこそ生命の実相であり、聖者の悟りの第一歩である。
しかしながら、多くの知識人はこれを迷信であるといい、笑って否定するであろう。
しかるに、吾人の立ち場からみれば、否定する者こそ、自己の生命を、科学的に考えないうかつさを笑いたいのである。
およそ科学は、因果を無視して成り立つであろうか。
宇宙のあらゆる現象は、かならず原因と結果が存在する。
 生命の発生を卵子と精子の結合によって生ずるというのは、たんなる事実の説明であって、より本源的に考えたものではない。あらゆる現象に因果があって、 生命のみは偶発的(ぐうはつてき)にこの世に発生し、死ねば泡沫(ほうまつ)のごとく消えてなくなると考えて平然としていることは、あまりにも自己の生命 に対してむとんちやくな者といわねばならない。
 いかに自然科学が発達し、また平等を叫び、階級打破を叫んでも、現実の生命現象はとうていこれによって説明され、理解されうるものではない。
われわれの眼前には人間あり、ネコあり、犬あり、虎あり、杉の大木があるが、これらの生命は同じか、違うか。また、その間の関連いかん。同じ人間にも、生まれつきのバカと利口、美人と不美人、病身と健康体等の差があ
り、いくら努力しても貧乏である考もおれば、また、貪欲(どんよく)や嫉妬(しっと)に悩む者、悩まされる者などを、科学や社会制度では、どうすることもできないであろう。
かかる現実の差別には、かならず、その原因があるはずであり、その原因の根本的な探究(たんきゅう)なしに、解決されるわけがないのである。
 ここにおいて、三世の生命を説くからといって、われわれは霊魂(れいこん)の存在を説いているのではない。人間は肉体と精神のほかに、霊とか魂とかいう ものがあって現世を支配し、さらに不滅につづくということを、承認(しょうにん)しているのではないことを明らかにしておく。

【永遠の生命】

人間の生命は三世にわたるというが、その長さはいかん。これこそ、また、仏法の根幹であるゆえに、いま左の経文を引用する。
 妙法蓮華経如来寿量品にいわく(注8)
 「然(しか)るに善男子、我実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由佗劫(なゆたこう)なり。譬(たと)えば、五百千万億那由佗阿僧祗 (なゆたあそうぎ)の三千大千世界を、仮使(たとい)人有(あ)って、抹(まつ)して微塵(みじん)と為(な)して、東方五百千万億那由佗阿僧祗の国を過 ぎて、乃(すなわ)ち一塵を下(くだ)し、是(かく)の如く東に行きて是の微塵(みじん)を尽(つく)さんが如き、諸の善男子、意に於て云何(いかん)。 是の諸の世界は、思惟(しゆい)し校計(きょうけい)して、其の数を知ることを得べしや不(いな)や。弥勒(みろく)菩薩等、倶(とも)に仏に白(もう) して言(もう)さく、世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数(さんじゅ)の知る所に非ず。亦心力(しんりき)の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏 (ひゃくしぶつ)、無漏智(むろち)を以(もつ)っても、思惟(しゆい)して其(そ)の限数(げんじゅ)を知ること能(あた)わじ。我等阿惟越敷地(あゆ いおつちぢ)に住すれども、是の事の中に於いては、亦達せざる所なり。世尊、是の如き諸(もろもろ)の世界無量無辺なり。爾(そ)の時に仏、大菩薩衆(だ いぼさつしゅう)に告げたまわく、諸(もろもろ)の善男子、今当(まさ)に分明(ふんみょう)に、汝等に宣語(せんご)すべし。是の諸の世界の、若しは微 塵(みじん)を著(お)き、及び著(お)かざる者を尽(ことごと)く以って塵(ちり)と為(な)して、一塵(じん)を一劫(こう)とせん。我成仏してより 已来(このかた)、復此(またこれ)に過ぎたること百千万億那由佗阿僧祗劫(なゆたあそうぎこう)なり。是れより来(このかた)、我常に此の娑婆(しゃ ば)世界に在(あ)って説法教化(せっぽうきょうけ)す」
 
 (注8) 妙法蓮華経如来寿量品にいわく、
   『寿景品で五百塵点劫の顕本を説き、永遠の生命を説く文である。

 右の経文は釈尊の数多(あまた)の経文中、もっとも大切な部分であり、悟りの極底(ごくてい)である。
その大意をいうならば「おまえたちは皆私がこの世で仏になったと思っているが、じつは自分が仏になったのは、いまから五百塵点劫(じんてんごう)という数 えることもできないほど昔に成仏して以来、つねにこの娑婆(しゃば)世界にいて活動をしているのである」という意味であり、自分の生命は現世だけのもので はなく、また、悟りも現世だけのものでなくて、永久の昔からの存在であると喝破(かっぱ)しているのである。
 さらに同じく寿量品の次の文は前文とは別の立ち場から拝すべきである。
 「諸(もろもろ)の善男子、如来諸の衆生の、小法を楽(ねが)える徳薄垢重(とくはつくじゅう)の者を見ては、是の人の為に、我少(わか)くして出家 し、阿耨多羅(あのくたら)三藐(みゃく)三菩提(ぼだい)を得たりと説く。然(しか)るに我、実に成仏してより巳来(このかた)、久遠なること斯(か く)の若(ごと)し」
 すなわち、右の文は福徳(ふくとく)の薄い心の濁(にご)った者は、生命は現世だけであると考えているが、真実の生命の実相は無始無終(むしむしゅう)であると説かれているのである。
 日蓮大聖人におかれては、釈尊が仏の境涯から久遠の生命を観(かん)ぜられたのに対して、大聖人は名字即(みょうじそく)の凡夫位(ぼんぷい)において、本有(ほんぬ)の生命、常住の仏を説きいだされている。
すなわち凡夫のわれわれの姿自体が無始本有の姿である。
瞬間は永遠をはらみ、永遠は瞬間の連続である。
久遠とは、はたらかさず、つくろわず、もとのままと説かれているのである。
 三世諸仏総勘文教相廃立(さんぜしょぶつそうかんもんきょうそうはいりゅう)(御書五六八ページ)にいわく(注9)
 「釈迦如来・五百塵点劫(じんてんごう)の当初(そのかみ)・凡夫にて御坐(おわ)せし時我が身は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座に悟(さと り)を開き給いき、後に化他(けた)の為に世世(せせ)・番番(ばんばん)に出世・成道(じょうどう)し在在(ざいざい)・処処(しょしょ)に八相作仏 (そうさぶつ)云云」

(注9) 三世諸仏総勘文抄にいわく、
 五百度点劫の当初とは、久還元初である。
「釈迦如来が凡夫でおわせし時」とは、名字即の釈尊であって、すなわち日蓮大聖人のことである。釈尊の仏法では、久還元初とか、名宇即の仏というようなこ とは説いていない。この文により、本因の境智行位が明らかである。我身は地水火風空(境)知る(智) (行)凡夫にて(位)当体義抄(とうたいぎしょう) (御書五六八ページ)にいわく(注10)
 「聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時(いんがぐじ)・不思議(ふしぎ)の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為(な)す此の妙法蓮華の一法に十 界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し之を修行する者は仏因(ぶついん)・仏果(ぶっか)・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道 (かくどう)し給えば妙因・妙果・倶時に感得(かんとく)し給うが故に妙覚果満(みょうかくかまん)の如来と成り給いしなり」

(注10) 当体義抄にいわく、
『日蓮大聖人の仏法を、名体宗用教の五重玄で明らかにされている。之を名けて妙法蓮華と為す(名)十界三千の諸法を具足して闕減無し(体)、仏因・仏果・同時に之を得(宗)、師と為して修行覚道し(用)』

 十法界事(御書四二一ページ)にいわく、
 「迹門には但是れ始覚(しかく)の十界互具(ごぐ)を説きて未だ必ず本覚本有(ほんがくほんぬ)の十界互具を明さず(乃至)故に無始無終の義欠けて具足せず云云」

 御義口伝下(御書七五二ページ)にいわく(注11)
 「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿景品の事の三大事とは是なり、六即の配立(はいりゅう) の時は此の品の如来は理(り)即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴(ちょうだい)し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉り て修行するは観行即(かんぎょうそく)なリ此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障(わくしょう)を伏するを相似即(そうじそく)と云う なり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟(くきょう)したるを究竟即の仏とは云うなり、惣(そう)じて伏惑(ふくわく)を以て寿量品 の極とせず唯凡夫の当体本有の儘(まま)を此の品の極理(ごくり)と心得可きなり」

  (注11) 御義口伝下にいわく、
 『「無作の三身とは末法の法華経の行者なり」とは、日蓮大聖人であらせられる。すなわち、日蓮大聖人の宝号を南無妙法蓮華経というのである。人法一箇の文である。』
 さて、すでに明らかなごとく、仏を中心として展開する釈尊のT忿三千は、本迹ともに理のうえの法相であり、凡夫の当体本有のままにおいて身につける大聖 人の直達正観(じきたつしょうかん)・事行の一念三千こそ、もっとも生命の実体を、より本源的に説き明かされているものと拝する。
 私に会通(えつう)を加えて本文をけがすことを恐るといえども、久遠の生命に関してその一端を左に述べていく。
 生命とは宇宙とともに存在し、宇宙より先でもなければ、あとがら偶発的(ぐうはつてき)に、あるいは、なにびとかによってつくられて生じたものでもない。
宇宙自体がすでに生命そのものであり、均球だけの専有物(せんゆうぶつ)とみることも誤リである。
われわれは広大無辺の大聖人のご慈悲に浴し、直達正観・事行の一念三千の大御本尊に帰依(きえ)したてまつって「妙」なる生命の実体把握(はあく)を励んでいるのにほかならない。
 あるいはアミーバから細胞分裂(さいぼうぶんれつ)し進化したのが生物であり、人間であると主張し、私の説く永遠の生命を否定するものがあるであろう。
しからば、赤熱(しゃくねつ)の地球が冷えたときに、なぜアミーバが発生したか、どこから飛んできたのかと反問したい。
 地球にせよ、星にせよ、アミーバの発生する条件が備われば、アミーバが発生し、隠花(いんか)植物の繁茂(はんも)する地味、気候のときにはそれが繁茂 する。しかして、進化論的に発展することを否定するものではないが、宇宙自体が生命体であればこそ、いたるところに条件がそなわれば、生命の原体が発生す るのである。
 ゆえに幾十億万年の昔に、どこかの星に人類が生息し、いまは地球に生き栄えているとするもなんの不思議はないのである。
また、いずれかの星に、まさに人間にならんとする動物がいることも考えられ、天文学者の説によれば、金星が隠花植物の時代であるとの説を間いたことがあるが、私は天文学者ではないから、これを実証することはできないにしても、さもありなんと信ずるものである。
 あるいは、たんぱく質そのほかの物質が、ある時期に生命となって発生したと説く生命観にも同ずるわけにはいかない。
たんぱく質等は、生命発生の機縁にはなるであろうが、生命自体は宇宙とともに本有常住の存在であるからである。


【生命の連続】

 生命は永久であり、永遠の生命であるとは人々のよくいうところであるが、この考え方にはいろいろの種類がある。
 ある人は観念的にただ「永遠」であると主張してボンヤリ信じているが、こんな観念論的な永遠は吾人のとらないところである。
 また、子孫に生命が伝わって、その子孫に伝わる生命のなかに自分が生きていると考える者もあるが、これでは永遠とはいえまい。
もし、子孫が断滅(だんめつ)したならば自分がなくなるではないか。
地球が滅びたらなくなるような生命では永久とはいえない。
また、子孫と自分との関係において、現に、いま生きているむナこのなかに、同じく活動している自分の生命があることになり、はなはだ不合理である。
このような人は、自分の死後の生命をどう考えているか。
子孫のからだを自分の墓場のように考える浅薄(せんぱく)な生命観であり、永久の生命を知っているとはいえないのである。
 かの有名な高山袴牛(ちょぎゆう)先生が「人が偉大な仕事をする。その偉大な仕事は後世にも残る。その後世に残した偉大な仕事に自分が生きている」といわれたことを記憶している。
袴牛先生は、偉大な文学者であるだけに、私はひじょうに悩んだものである。
もし、先生のことばのごとくならば、平凡なわれわれや、大やネコは永久な生命といえないことになる。
よってこの場合の永遠の生命に普遍妥当性(ふへんだとうせい)がないわけである。
長いあいだ、ほんとうかウソかと悩みつづけた結果、彼は偉大なる文学者ではあるが、死後の生命に関してははなはだ浅薄な考え方であるという結論に途した。
 また、少しく理論的であるけれども、事実とは相違している生命論に、生物にはなにか霊魂(れいこん)というようなものがあり、それが永久に伝わっていくのだと考えているのがある。
これは、ちょっと聞くと真実のように思われるので、そうとうの学者や、多数の人々によって主張されている。
しかしながら、これも仏教哲学の対象としてはぜんぜん無価値なものである。
釈迦は涅槃経(ねはんぎょう)のなかにおいて、徹底的にこれを否定している。すなわち、この考え方は邪見であって、正しいものではないとしているのである。
しからば、どんなふうにしてあらゆるものの生命が連続するのであろうか。
 死後の問題はなかなか仏教哲学でも最高に属するもので、その素養(そよう)のない人に対しては、誤りを起こすおそれがあるゆえに、これをはぶくことにし、きわめて常識論的に取り扱うから、その点は了承されたい。
 寿量品の自我掲(じがけ)には「方便現涅槃」(ほうべんげんねんはん)とあり、死はひとつの方便であると説かれている。
たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的からみれば、たんなる方便である。
人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。そのよう に、人も、老人になったり、病気になって、局部が破壊(はかい)したりした場合において、どうしても死という方便によって若さを取り返す以外にない。
 仏法の極理は一念三千であるが、死後の生命もまた、一念三千との関連において解決されていることはいうまでもない。
さて、開目抄上(かいもくしょう)(御書一八九ページ)に「一念三千は十界互具よりことはじまれり」とおおせられ、親心本尊抄(御書二四一ページ)では十界について次のように述べられている。
 「数(しばし)ば他面を見るに或時は喜び或詩は怒(いか)り或時は平(たいらか)に或時は貪(むさぼ)り現し或時は癡(おろか)現じ或時は謡曲(てんご く)なり、瞋(いかる)は地獄、貪(むさぼ)るは餓鬼・癡(おろか)は畜生・謡曲(てんごく)なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なリ(乃至)世間の無常 は眼前に有り豈(あに)人界に二乗界無がらんや、無顧(むこ)の悪人も猶(なお)妻子を慈愛(じあい)す菩薩界の一分なり、但(ただ)仏界計(ばか)り現 じ難し云云」
 われわれの日常生活における心の状態をよくよく思索するならば、瞬間瞬間に、一念一念と起きては消え、起きては消えているのが、貪(むさぼ)りとか、喜びとか、怒りである。
そして二つの念がいちじに起こることは、けっしてありえないのである。
ここで少し説明を加えたいのは、前掲の本尊抄に「仏界計(ばか)り現じ難し」とあるが、その仏界を現ずる縁となるものは何か。
日連大聖人の仏法の極理は事行の一念三千であり、実践の形態は三大秘法にある。
ゆえに本門或壇の御本尊を信仰することのみが、その縁となって即身成仏をえられるのである。
ただし、この点に関しては、別の機会に詳(くわ)しく述べたいと思う。
 われわれの心の動きをみるに、喜んだとしても、その喜びは時間が経(た)つと消えてなくなる。
その喜びは霊魂のようなものがどこかへ行ってしまったわけではないが、心のどこかへ溶(と)け込んでどこを捜(さが)してもないのである。
しかるに、何時間か、何日間かの後、また同じ喜びが起こるのである。
また、あることによって悲しんだとする。
何時間か、何日か過ぎてそのことを思い出して、また、同じ悲しみが生ずることがある。
人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、まえの悲しみと、あとの悲しみとりっぱな連続があって、その中間はどこにもないのである。
 同じような現象がわれわれ日常の眠りの場合にある。
眠っているあいだは心はどこにもない。しかるに、目をさますやいなや心は活動する。眠った場合には心がなくて起きている場合には心がある。
あるのがほんとうか、ないのがほんとうか、あるといえばないし、ないといえば現われてくる。
このように、有無(うむ)を決定できないとする考え方を、これを空観(くうかん)とも妙ともいうのである。
このように、この小宇宙であるわれわれの肉体から、心とか心の働きとかいうものを思索し、そのうえに仏法の哲学の教えをうけて、真実の生命の連続の有無を結論するのである。
 まえにも述べたように宇宙は即生命であるゆえに、われわれが死んだとする、死んだ生命はちょうど悲しみと悲しみとのあいだに、なにもなかったように、喜 びと喜びのあいだに喜びがどこにもなかったように、眠っているあいだ、その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命に溶け込んで、どこを捜して もないのである。
霊魂というものがあってフワフワ飛んでいるものではない。
また、大自然のなかに溶け込んだとしても、けっして安息しているとはかぎらないのである。
あたかも、眠リが安息(あんそく)であるといいきれないのと同じである。
眠っているあいだ安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りに悩んでいる人もあるのと同じである。
 この死後の大生命に溶け込んだ姿は、経文に目をさらし、仏法の極意(ごくい)を胸に蔵するならば、しぜんに会得(えとく)するであろう。
 この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目にうつる生命活動となって現われてくる。
ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動状態を、きょうもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は過去の生命の業因(ごういん)をそのままうけて、この世の果報として生きつづけなければならない。
 かくのごとく寝ては起き、起きては寝るがごとく、生まれては死に、死んでは生まれ、永遠の生命を保持している。
 その生と生のあいだの時間は、人おのおの異なっているのであるから、この世で夫婦親子というのも永遠の夫婦親子ではありえない。
ただ清浄なる真実の南無妙法蓮華経を信奉する、すなわち、日蓮大聖人の弘安二年十月十二日の大御本尊を信ずるもののみが、永遠の親子であり同志であって、大功徳を享受(きょうじゅ)しているのである。
 〔注〕「2 戸田前会長の生命論」は大白蓮華第一号に掲載(けいさい)されたものです。



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