折伏教典(生命論1)

折伏教典 昭和43年10月1日 改訂34版より転記。
『第一章 生命論』
「一、生命の本質論」
  【色心不二】
 御義口伝の「帰命」について、「帰」とは、たえず新陳代謝して宇宙に還元されていく肉体であり、色法をいう。「命」とは心法のことである。絶えず、宇宙のリズムに、冥合してゆこうとする作用をいう。
この色心不二の生命哲学が、最高の天哲理なりとの日蓮天聖人の御確信であられる。「色」とは、目にみえるもの、物質、形質、あるいは肉体を意味する。
「心」とは物質にあらざるもの、性質、性分、あるいは精神、内在する力等を意味する。 (P3)
 唯物思想は、物質が根源であり、物質中心主義である。
唯心思想は、精神が本源であり、物質は、その幻影にすぎないとする思想である。
共に、ある一面の真理を説いたものとはいえよう。
しかし、部分観は、部分観としての意義をもつだけである。
部分観をもって、全体観とすることは、はなはだしい誤りといわざるを得ない。
生命それ自体は、唯心でも、唯物でもない。
思うに、現代の哲学においては、今日にいたるまで、生命について、幾多の議論が展開されてきた。
だが、なんら根本的解決はなされていないのである。
 十九世紀フランスの実験生理学者、クロード・ベルナールは次のようにいっている。
 「唯心論と唯物論を哲学で論議するのはよかろう。が、実験生理学では問題にはならない。何の役にも立だない。軌範は実験にしか求められないからであ る。……今日では生理学は精密科学となった。もはや哲学や神学上の諸思想を払いのけるべきである。思えば長い間これらの思想が混在していた。数学者や物理 学者に、唯物論者かときく必要がないように、生物学者にもそんな質問はすべきでないのである」
 この主張は、いかに今日まで、唯物論ならびに唯心論が、生命自体の研究のさまたげになってきたかを物語る一つの証拠といえよう。
彼自身が、究極を解決しえたとするのでなく、新しい角度からの究明が必要である。その一つの示唆として私は引例したわけである。(P4)
 もはや、不可思議なる生命の実体を、唯物、唯心でみようとする時代は渦ぎ去った。
もしも、このような思想で論ずる人ありとせば、過去の死滅せる思想に執着する、あわれな人にほかならない。
 それは結論していえば、生命は「色心不二」なのである。
これこそ、現代の哲学、生物学、医学等々、すベてが帰趨していく事実なりと訴えるものである。
特に、生命の問題と密接な関係をもつ医学の分野において、そうした傾向が顕著ではないかと思う。
「精神身体医学」が最近とみに叫ばれるようになってきている。
これも一つの好例と考えられる。
これは、病気の原因を、たんに肉体だけに限るのではなく、心にも原因を求めようとする推移である。
こうした考え方は、仏法では、すでに三千年前から説いてきた。
 ある医学者は、次のように述べている。
 「精神とか、心とは何か。ということは昔から問題になっていて、今日ではその本体はわからない。昔は肉体から独立した心があると考えられていたが、今 日、医学者は心は脳の活動によって生ずると思っている。しかし、それは脳のどんな働きによるのかはわからない。2十2=4であると考える時や、私は悲し い、と感ずる精神的なものを、脳の細胞の何かの変化、電流や化学的変化で、おきかえていいあらわすことは出来ない。それで心は心、体は体として取り扱って おくより仕方がないが、心と体にはわれわれに見える関係もないのかというと、そういうものでもない。
 たとえば、酒を欽むと、アルコールが吸収されて脳へゆき、脳の神経細胞の代謝に、変化を与えるが、このときに心については、気が大きくなって愉快になったり、おしやべりになったり、さらに多くのアルコールが行けば、意識を失ってしまうものだ。(体から心へ)
 今度は、逆に心の変化が、体に変化をおよぼすことがあろう。
実際こういうこともありうる。
例えば、恐ろしい目にあったとする。恐ろしいというのは心の出来事であるが、物質的な体の方面では、顔の血管が収縮して蒼白になり、毛は逆立ち、体は震 え、瞳孔は拡がり、心臓の鼓動は、激しくなり、血圧が上がる。一層恐ろしい目にあえば、下肢が麻痺して、いわゆる腰が抜けた状態となる。これらは、みん な、心の変化を原因とする体の変化である。(心から体へ)」
 これらの帰納的考え方は、仏法に説く、色心不二の生命哲学に一歩近ずいた証左といえよう。
しかしながら、これは、医学上の立ち場の思索であり、肉体と心の表面的な関係を、ばく然といい表わしたにすぎない。
極言すれば、現在の医学や生物学で、生命の実体を解明することは、到底不可能なことだ。
これは、医学者や、生物学者自身が、すでに認めているところではないか。
 ある生物学者は、次のように述べている。
 「生命とは何か。このことは、物理学的な時間、空間が、物理的科学から定義できないと同様に、生命は生物学的科学からは、定義できないのであって、生命は把握する以外に方法はないのである。
そして、この生命の把握という問題は、実は科学以外の体験の問題である」と。
 ところで、いかに生命を把握するか、いかなる体験をせよというのかが、重大問題なのである。
 なお、ある医学者は、医学の限界を次のように述べている。
 「自然科学は人間が自然の中にある真理を研究して、それから得た結果を人間生活に利用しようとしている。それゆえ自然科学の根底には人間が自然を支配し利用しようとしている目的がよこたわっている。
医学の行なうところはふつうこれである。
しかし自然科学的な方法で医学はずいぶん発達したとはいえ、生命の神秘、こころの神秘についてはまだ何もわかってはいない。
医学にたずさわるものは、この神秘に近ずこうとたえず努力をしなければならない。
しかし病者はこの神秘が医者にわかっているはずだと考えて、自然科学に何とかしてもらうことができるはずであり、それが医学的治癒だと思っている。
ところがほんとうはほとんど何もわかっていない。
 解剖学は人のからだの部分にくわしい名をつけるのみであり、生理学は人のからだがはたら
くときにどんな物質的変化があるかをみるだけのことである。
内科では、ばい菌性の病気に対しては、それを滅すような物質を発見しつつあるとはいえ、その他の病気に対しては自然の治癒力をさまたげないようにみまもり、その間、病者の不安を医師の存在によってなぐさめているのである。
あるいは完全になおらなかった病者に新しい世界をつくり出して病者をそこに適合させて治したように思っている。
糖尿病患者は糖質摂取をへらしてインシュリン注射をするという世界改革を行なえば健康なごとくに生活してゆき、これが治療なのである。
 外科では悪い所を切ってとってしまうのが治療である。
胃癌ができれば胃を大部分とってしまい、虫垂炎の時には虫垂をとってしまう。
しかし脳の病気の時に脳をとってしまうというわけにはいかない。
とにかく医者は積極的に治療するということはなかなかできない。
医者は、今のところ、毛一本生えさせることもできず、にきびのあとをきれいにすることもできないのである。
 肉体的物質的病気でもそうであるから、脳のはたらきの異常とはいえ、こころの現象という
ような、いっそうつかまえどころのないものが関係した病気に対しては、自然科学的な物質的
な手づるはほとんどないのである。
神経症のごとき、脳の物質的なものを手がかりにできないような心の病気には、それを病気としてなおそうとしてあくせく思いわずらうのがいけない。
病気なら病気で仕方がない。
世間一般の価値判断からすれば悪いものではあるが、これはこれで仕方がないではないかと、自分のこころの状態をやむをえないものとして肯定し、自然にまかせるのである」
 これらは、一往、医学を中心として論じたものである。
医学は、直接生命の問題に関係あるがゆえに引いたにすぎない。
この「色心不二」ということについては、御義口伝のいたる個所に出ている。



   【本有常住の生命観】
 本有常住の生命哲理は、寿量品の極意であり、それなくしては寿量品の価値はまったくない。
のみならず一代聖教は泡沫に等しい。
日蓮大聖人は、この本有常住の哲理を、さらに深く完璧に説かれ、自ら本有常住の振舞いを示され、一切衆生に、真実の幸福の道を開かれたのである。
 本有とは、われらの生命は、誰から作られたものでもない。
たとえば神によって作られたというものではない。
また生を受けて、初めて、誕生したのでもない。
もともと、この大宇宙と共に、厳然と有ったものだということである。常住とは、その生命は、大宇宙と共に、永遠に続いているということであり、無始無終であり、しかも断続的ではなく、常にこの大宇宙にあるということである。
 これは、難信難解中の難信難解の哲理である。
われわれの生命を、たんに変化の面にのみ着目するならば、たしかに有為転変の無常の相であり、死ねば無であり、永久に、再び、この世に出現することはない と思うのも当然のことであろう。ゆえに、世の人々のほとんどは、現世主義的生命観に陥り、本有常住の生命観を信じようとしないのである。
 だが、東洋の大乗仏法の真髄は、たんに変化の世界、仮有の世界だけではなく、その奥にあ
る常住の世界を説き究めたのであった。
 御書にいわく「近き現証を引いて遠き信をとるべし」(法蓮抄一〇四五ページ)と。
 本有常住の生命哲理は、仏の内証の悟りであり、これをただちに理解し、信ずることはできないかもしれない。
だが、この本有常住の生命観を骨髄とする大仏法を、実践することによって、現実に、偉大なる功徳の実証のあることをもって、その根幹たる本有常住の生命哲理を信ずべきである。
 いま、再び御義口伝の本文の一節を引用しつつ、本有常住の生命哲理を論じていきたい。
「御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の
如く知見せリ」
 「如来」とは、最も清浄な、力強い、何ものにも左右されない、金剛不壊の仏の生命である。
それは、どこかの別世界にあるのではなく、われら衆生の生命それ自体である、と仰せである。
われらの生命は、本来、仏界を内包せる尊極なる当体である。
だが、生命の流転の上に染法が薫じ、無明の雲が、仏界をおおい隠し、三悪道、四悪趣に落ち込み、そこがさながら住所となってしまっているのである。
 しかしながら「寿量品の眼開けてみれば」すなわち、内証の寿量品の眼が開かれ、大御本尊
への唯一無二の信心に住したときに、わが生命は、本来、十界互其の当体であり、尊極無上の
仏界の生命があったことを、この五体の上に覚知していくことができる。
事実の上に、真実の幸福境に住し、内奥より清浄無染な、力強い生命の躍動があり、最高の価値創造の人生を歩んでいくことができる。
 ここにお示しのごとく、わが生命が本有であると共に、十界も本有である。
地獄界より仏界にいたるまで、誰人といえども、本来、これをそなえていることを知らねばならぬ。
 これらの十界の生命活動は、常に縁にふれてあらわれてくる。もともとあるがゆえにあらわ
れてくるのであり、無から有を生ずるわけがない。
 地獄界の人が、次の瞬間、天界の生命、活動、姿へと変わったとする。
だが、それは厳密にいえば、変わったのではない。
まったく同じ当体でありながら、縁にふれて天界があらわれたにすぎない。
 現実の苦悩にさいなまれ、日々悶々として楽しまざる人に、この大生命力たる仏界が内包されているとは、思いも及ばぬことかもしれない。
だが、事実は、一切衆生に、仏界の生命は、本有のものとして常住しているのである。
これを事実の上に顕現していくには、わが当体を映し出して曇りなき明鏡たる事の一念三千の大御本尊による以外にないのである。
 「三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うな りさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり」
 「三界の相」とは、生老病死である。
すなわち、有為転変の無常の相である。
生老病死のなかで最も重要な問題は、生と死である。
したがって、生老病死も生死の二法に集約される。
だが、この生死もまた、本有のものである、と仰せられているのである。
 一往、生命それ自体を考えれば、生命は、生じたり滅したりすることはなく、永遠に常住するものである。
 三世諸仏総堪文抄(五六三ページ)にいわく「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが 故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広か らず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず」と。
 ここに心法とは、生命の本質であり、生命それ自体にほかならない。
この生命そのものは、大宇宙と共に常住するものであり、生ずべき始めも、死すべき終わりもない。
生死を離れた存在であり、したがって劫火にも焼けることなく、水災にも朽ちることなく、剣刀にも切られず弓箭にも射られるものではない。
芥子粒のような極小のものの中に入れても、芥子粒が広がったり、心法が縮まったりするようなこともない。
逆に虚空に遍満させても、虚空が広すぎるということもない。
心法が狭すぎるということもないとの御文である。
すなわち、広いとか狭いとか、大きいとか小さいとかいう相対的なものではないということで、生命の不可思議を仰せられたものである。
 しかし、これは、生命の本質、生命そのものについていったものであり、生死にとらわれ、本有常住(ほんぬじょうじゅう)の生命を知らない者に対ナる眼を開かしめるための御文である。再往、生も死も本有常住のものであり、生は、本有の生、死もまた本有の死である。
 釈尊は、死を「方便現涅槃」(ほうべんげんねんはん)と説き、生のための方便であるとしたのである。
これまた真実であり、生き生きとした生命の躍動(やくどう)のために方便としていったん死ぬというのも偉大な卓見(たっけん)である。
しかし、大聖人は、さらに深く、本有の生死(しょうじ)と説き、生も死も、本来、本有のものであり、生命の本質にそなわる働きであると説かれたのである。
生命は、生死を離れて、ほかにあるものではない。
生命の常住と共に、生命の本質にそなわる働きとしてあらわれ、永遠に続きゆく当体なのである。
日蓮大聖人が、忘持経事(ぼうじきょうじ)(九七七ページ)において、富木日常(ときにちじょう)の母が亡(な)くなったことに対し「生死の理(ことわり)を示さんが為に」と述べられたのは、この、本有の生死の深き哲理の上から仰せられたものと思う。
 また、本有の生死を、信心に約していえば、永遠の生命を覚知(かくち)した上での生死であり、大御本尊を信じた者の生死である。
御義口伝上(七二四ページ)に「自身法性(じしんほっしょう)の大地を生死生死と転(め)ぐり行くなり云云」とあるのは、この本有の生死を仰せられたものである。
法性(ほっしょう)の大地とは妙法の大地であり、幸福の大地である。
生死の二法は、大白牛車(だいびゃくごしゃ)の車輪のごとくである。
永遠に幸福な世界において、生死の二法を繰(く)り返していけるのである。
 信心なき人々の生死は、六道輪廻(りんね)の生死であり、迷いの生死であり、不幸の生死である。
ゆえに、常に、不幸の巷(ちまた)を、生死生死と廻(めぐ)りゆく以外にない。
 大御本尊を信じた者は、常に幸福の大地に住した一生を送り、それがまた永遠に続いていくことを、しみじみと実感し、確信しきっていけるのである。
ゆえに、本文に「今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉(たてまつ)る時本有の生死本有の退出(たいしゅつ)と開覚(かいかく)するなり」と仰せられたのである。
 生死の二法は、たんに、いわゆる生と死だけを意味するのではない。
瞬間(しゅんかん)瞬間の生命活動が、また、そのまま生死の二法なのである。
先の地獄界と天界の例でいえば、地獄界の生命であった人が、次の瞬間、天界の生命へと転ずれば、地獄界の死であり、天界の生である。
わが生命は、十界互具の当体であり、しかもその十界は、常に瞬間瞬間、縁にふれて生死の二法を繰り返しているのである。
 しかして、この瞬間瞬間の生命活動に約して、本有の生死を論ずるならば、久遠元初(くおんがんじょ)の大法たる、大御本尊を信受した生活こそ、本有の生死であり、幸福の生死である。
 生死一大事血脈抄(しょうじいちだいじけちみゃくしょう)(一三三六ページ)にいわく「妙は死法は生なり此の生死(しょうじ)の二法が十界の当体なり又 此れを当体蓮華(とうたいれんげ)とも云うなり(中略)伝教大師云く『生死の二法は一心の妙用(みょうゆう)・有無の二道は本覚の真徳(しんとく)』と 文、天地・陰陽(おんよう)・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云う
ことなし、是(か)くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観に云く『起(き)は是れ法性の起・減(めつ)は是れ法性の減』云云」と。
 この文に、十界の生命ことごとく、生死の二法であることは明白である。しかもその生死の二法は一心の妙用なのである。
また、生は起、死は減であり、法性の起、法性の減こそ、真実の起減(きめつ)の姿なのである。
 すなわち、大御本尊を信ずる、その信心の一心により、自在に生死の活動をしていくことができる。
一切の活動を、幸福の方向へ、繁栄(はんえい)の方向へと向かわしめることができる。
すなわち、真実の幸福の起減を行なっていくことができることを断言されているのである。
 信心なくば、真実の幸福の生死、起減はない。常に、三悪道(あくどう)、四悪趣(あくしゅ)の生死・起減の流転(るてん)の中に没入(ぼつにゅう)し、 その濁流(だくりゅう)に流されていくのみである。信心強盛に、時宜(じぎ)相応の仏道修行に励(はげ)む人こそ、仏界に照らされ、この人生を、自在に乱 舞(らんぶ)し、永遠の幸福を開いていく人であることを強く信ずべきである。

   【永遠の生命】

生命の永遠ということに関して、われわれの生活をとおして、思索(しさく)してみよう。
現代の多くの人々は、生命に対してはなはだ無知である。
しかし、幸福ということにせよ、人生ということにせよ、日常の生活にせよ、ことごとく自分の生命と切っても切り離せないことはわかる。
それほど自分にもっとも大事な問題が、もっともおろそかにされているということは、まったく迂閥(うかつ)な話といえよう。
また一方では、偏頗(へんば)な生命観に固執(こしゅう)する人もいる。
迷信を少し装飾(そうしょく)したていどの霊魂説(れいこんせつ)や、また、それと相対(あいたい)する唯物思想が、大きく世を害していることに注目すべきである。
とくに、最近では、世の知識階級といわれる人の中に、唯物論的な考え方のもとに、死後の生命は迷信であるとして信じない人もいる。
 そこで、科学においては、生命についてどう考えているか、またその限界と仏法との関係を、とくにオパーリンの「生命の起原」を見ることによって明らかに し、さらに現代の現世主義的生命観(げんせしゅぎてきせいめいかん)に批判を加え、最後に生命の永遠であることを論じていこう。
 生命の起原ということは、西洋(せいよう)においても、昔から今日に至るまで、人々の深い関心事であった。
キリスト教においては、生命の発生は創造によるとされ、その他、自然発生説、あるいは生命の連続説(れんぞくせつ)等があり、これらの説は、多くの学者によって否定されまたは修正されてきた。
そして、近頃の有力な説として挙(あ)げられるのは、オパーリンの学説である。
彼はソビエトの生化学者であって、地球の進化過程と生命発生の関係を、極(きわ)めて多量な資料によって体系づけ、一九三六年に「生命の起原」と題して発表した。
彼は炭素化合物(たんそかごうぶつ)が発展していって第一に有機(ゆうき)化合物が生成(せいせい)され、第二に蛋白質(たんぱくしつ)が生成され、第三 の段階として物質代謝(ぶしつたいしゃ)の発生があったと説き、そして第三段階において生命が発生したといえると述べている。
これは要するに、生命は地球外から飛んできたものではなく、地球自体が進化し、その進化過程(しんかかてい)において地球自体から生命が発生したと説くのである。
 さて、生命に対する考え方には、二つの大きな流れがある。
一つは観念論(かんねんろん)であり、一つは唯物論である。そしてオパーリンも「この生命の本質に関する問題は、最古の時代から現代に至るまで、つねにニ つの和解し難(がた)い哲学の陣営(じんえい)――観念論と唯物論――の間で行なわれてきた激烈(げきれつ)な思想闘争の基本的なよりどころの一つであっ たし、また現在でもそうである」と述べているごとく、生命観の対立が、思想の対立の根本原因なのである。
 観念論で説くところの生命観は、大体次のようである。生命の本質は、物質を超越(ちょうえつ)した霊魂(れいこん)あるいは生気(せいき)であって、物 質は、霊魂または生気が生物をつくり、生物に形態や構造の合目的(ごうもくてき)性をあたえ、呼吸(こきゅう)と運動の能力を所有せしめ、一般にこれらを 生き物にするところの材料にすぎない。そして霊魂が飛び去ると死が訪(おとず)れ、生命のないぬけ殼(がら)――死体が残るのみであると。
 オパーリンは、この観念論の基盤をなす生命論を否定し、唯物論の見地に立脚(りっきゃく)する。
彼は、次のように述べている。「唯物論はこれと正反対の観点から、生命の本質の問題に接近する。唯物論は自然科学が得た事実にもとづいて、生命はほかの全 世界と同様に、その本質は物質的であり、生命を理解するためには、実験的にとらえられない魂(たましい)の始原(しげん)などというものを認識する必要の ないことを確信する。それのみか、唯物論の立ち場からは、外界を客観的に研究することこそ、生命の本質の理解に到達(とうたつ)するだけでなく、生物的自 然を人類の福祉のために変化させ改造しうる確実な方法なのである」と。
 彼はさらに、生命を全物質と同一視する機械的唯物論を否定し、弁証法(べんしょうほう)的唯物論を強調するのである。「……このように、生命はその性質 上物質的である。しかし生命は全物質に不可分(ふかぶん)な共通の性質ではない。生命は生物にしかない。生命は、生物界とは質的に異なる物質の特殊(とく しゅ)な運動形態であり、生物のみに内在する特異な生命学的性質および法則であって、これは無機的(むきてき)自然を支配する法則だけに解消(かいしょ う)しうるものではない」と。
彼は、ここでも述べているごとく、生命を単に静的なもの、すなわち物質それ自体としてとらえているのではなく、生命は「物質の特殊な運動形態であり、生物のみに内在する生物学的特質および法則性である」と生命を動的にとらえているのである。
 彼の生命に対する考察(こうさつ)は、こうした弁証法的唯物論の見地に立ったものであり、その前提(ぜんてい)にもとづき「生命の起原」も展開(てんかい)されているのである。
この弁証法(べんしょうほう)的唯物論については後にふれるところであるが、二十世紀の偉大なる科学者が、多くの実験と資料(しりょう)とによって、発表した「生命の起原」それ自体については、高く評価してよいと思う。
また、彼よりも少しおくれて、イギリスの物理学者・パナールも「生命の起原」に関して根本的に同じ結論に到達していることを考えるときに、真実を多く含んでいることを知らされるのである。
 この説が、また仏法の説くところに一歩近づいていることも知るべきである。
仏法においては、宇宙の森羅万象(しんらばんしょう)はことごとく、妙法蓮華経の当体であると説かれている。
この妙法蓮華経は生命の本質であり、したがって宇宙の森羅万象は、ことごとく、その本質を論ずれば生命なのである。
すなわち、地球自身も一個の生命体なのである。
地球白身から生命体が発生したとすれば、地球が、それ自体に生命を発現させる力を内在(ないざい)している一個の偉大なる生命体であるということが納得(なっとく)されやすくなる。
事実、今日の科学者の中で、広い意味では一切が生命体であることを否定する人はほとんどいなくなっているのである。
 ここで、われわれが考えなければならないことは、オパーリン等の説く生命観は、生物学的見地よりする生命観であるということである。
すなわち「生命は生物にしか存在しない」との前提に立っているのである。
この生物学の目指すところは、「生物一般にそなわっている生命とは何か」と問い、その本質を理解して、人間の欲するように生物を変化させ医学や農業に役立てようというものである。
なるほど、こうした研究を推(お)し進めてゆくには、どうしても唯物的見地に立たざるをえない。
しかし、これは医学や農業に大いに役立ったとしても、「人生をいかに生きるべきか」「いかにしたら幸福が得られるか」といった人生の根本問題は、解決できないのである。
むしろ、このような唯物的生命観をもって、人生の根本問題を解決しようとしたならば、生命の尊厳を見失ってしまう。
 またオパーリン等の科学者が問題にするのは、あくまで生命が発現し発展するという前提(ぜんてい)に立った変化現象であり、部分観である。もともと彼が 前提としている弁証法的唯物論それ自体が、物事を動的にとらえ、変化現象に着目(ちゃくもく)している以上、それを前提として出発している彼の「生命の起 原」が、そうした部分観になるのは当然といえよう。
仏法では、このような変化の世界を「仮有(けう)の世界」と呼んでいるが、まさに彼らが問題にしているところは、有為転変(ういてんぺん)する「仮有の世 界」であり「流転(るてん)の世界」である。これに対し、仏法では、変化する面を認めつつも、常住の面を根底に置いているのである。
 したがって、オパーリンが「もともと生命はなかったが、物質の変化によって生命が発生した」というごとく、科学者達の考え方の基礎(きそ)は「もともと そうでなかったものが、変化してそうなった」といったものであり、彼らには「もともとあったものが、縁にふれて発現してくる」といった考え方は、甚(はな はだ)しく欠如(けつじょ)しているようである。
むろん、科学は、現象形態(けいたい)より実体を探ろうというものであるがゆえに、そのように考えることは当然であろうが、しかし、それでは、物事の経 過、すなわち物事の「いかに」を説明し得ても、根本原因は、究明(きゅうめい)され得ず、単に不問(ふもん)にふすに止(とど)まるであろう。
 アメリカの社会学者・マッキーヴァーはいう。「科学は、わたしたちの最終的な疑問については、なに一つ答えていない。科学は物事のいかにを示そうとして いるのであって、何故に、をではない。それは生命の進化の力学を跡づけているのであって、何故に進化してきたかを説明してはいない」(「幸福の追求」) と。
よって、科学は、根本的な問題になると、多く偶然(ぐうぜん)に支配されている。
 しかし、宇宙の調和した姿、偉大なる力、生命の神秘(しんぴ)、これらについて多くの観念論者は、「何故に」を「神によって」と因果づけることによって解消しようとする。
こんな子供だましみたいなもので、理性ある人が、ごまかされるわけがない。
ところが現実に、根本問題を考えていくと、わけがわからなくなり、神を認めることによって妥協(だきょう)する人が、相当の知識人の中にもよく見られるのである。
 まことに、人生、宇宙の根本問題たる「生命」を究明したものこそ仏法である。
仏法こそ全体観に立ったものである。
世の多くの人は、部分観をもって全体観と混同しがちである。
なぜなのか。それは仏法を知らないからである。全体を知ってはじめて、部分観を部分観としてとらえることができるのである。
すなわち、仏法を知ってはじめて科学の位置も明瞭(めいりょう)となるのである。
 また科学に哲学が必要であるとは、現代の科学者の多くが認めるところである。
科学の世界では、実験を重んずる。しかし無秩序(むちつじょ)に盲目的に実験するのではなく、一定の秩序と方向によって実験は行なわれるのである。
オパーリンの「生命の起原」に対する考察も、実験も、弁証法(べんしょうほう)的唯物論という哲学が根底にあることは前に述べたとおりである。
 それゆえ、科学の根底に、いかなる哲学があるかということが、重要な問題となるのである。
科学の成果を善用するのみならず、科学に偉大なる力を与え、方向を与える、最高の哲学が、現代の行き詰まった科学界に必要であることを痛感(つうかん)するものである。
 生物学では、生命を無生物の対立物としてとらえる。
したがって、生と死という問題を解決することができないでいる。
生と死――これこそ人生の重大問題ではないか。これについて深刻(しんこく)に悩んだ人は、昔の人も、現代の人も、それこそ多くの数にのぼるであろう。
仏法では、この生と死の問題を徹底的(てっていてき)に解決しているのである。
 さて、多くの人は、生命はこの世だけのものである、すなわち、生まれてきた時に初めて生じ、死ねば泡(あわ)のごとく消え去ると考える。
しかし、それは実に浅はかな考え方である。
こうした考え方をする人は、科学万能主義で宗教を否定する者に多い。
ところで科学は、原因、結果の法則で成り立っているのである。
ところが、もし、生まれて来た時に生命が発生したというなら、生命に差別ができる原因が究明(きゅうめい)され得ていない。
単に動物と植物の相違、人間と馬の相違、同じ人間でも、男と女、または貧乏な家に生まれる人と、富裕(ふゆう)な家庭に生まれる人との相違も、結果だけであって、どうしてそのような差別ができるのかという本因が究明されなくなってしまうのである。
 人は不幸につぐ不幸の生活をしている他人に対して「あの人は運が悪いのだ」等と割り切っていう。
しかし当事者にとっては「どうして自分はこんなに不運なのだろう」と、第三者がばくぜんと原因としてあげているものを、一歩つっこんで考え、なんとか立ち上がろうと努力するのである。
 それは自分にとって関係の深い問題であればあるほど、その人は、原因をより根本的に探(さぐ)ろうとするからである。
しかして、その根本原因は、もし過去を認めない限り、解決されないであろう。
科学者は、自然界にのみ原因、結果の法則を考えようとするが、人生にも厳然(げんぜん)として原因結果の法則が存するのである。
ただ自然界は相対的に画一(かくいつ)的であるが、人生は複雑(ふくざつ)である。
そこで、自然界の因果(いんが)はわかりやすいのであるが、人生における因果律には、なかなか気がつかないのである。
 しかし自然界にのみ因果律を認めて、人生における因果律を否定することは、かえって非科学的であり、自らの愚を表示しているものといえよう。
思うに科学の歩んできた道は偶然(ぐうぜん)と思われてきたことを、必然であると示す闘(たたか)いの道ではなかったのか。
 また、生命は死んだならばもう消えてなくなるとは、なんと浅はかな考え方であろうか。
アイヒマンは、六百万人のユダヤ人を殺した張本人(ちょうほんにん)の一人として、死刑に処せられた。
一人殺しても死刑になる人もいる。何百万人殺害しても、一人殺しても、死という同じ結果に終わるならば、不合理この上ないではないか。しかもアイヒマンが 死刑に処せられたのは、ドイツが敗戦国だったからである。もし、戦勝国だったらどういうことになったであろうか。あるいは、英雄として生涯を送るように なったかも知れない。「一人殺せば罪人、百万人殺せば英雄」とは現代にも存する疑惑である。
 例えば、広島、長崎に投下され、一瞬にして四〇万余の日本国民の生命を奪った原子爆弾の問題はどうであろう。理由はどうであれ、人道上の問題として許 (ゆる)され得るものではない。瞬間の閃光(けんこう)によって、それまで人として平和な生活を送っていた民衆が、火の海と化した巷(ちまた)を、全身焼 (や)けただれてのたうちまわり、恨みをのんで死んでいった。地獄絵図(えず)のようなこの事実、さらには、からくもこの大惨劇(さんげき)から逃(の) がれた多くの民衆が、原爆症という病魔に冒(おか)されて、いつ死ぬかもしれない不安と恐怖(きょうふ)に襲(おそ)われながら、現在も無限の苦しみと 闘っている現実、これほどの恐ろしいことはあるまい。またこれはどの大犯罪はあるまい。しかし、いったい、この原爆投下の責任者が、どういう刑罰を受けた というのだろうか。どういう罪の償(つぐな)いをしたというのであろうか。
 このように、人類に大きな惨事(さんじ)をまき起こす人がいる一方、自らは不遇(ふぐう)の身でありながら、人のため、世のため、国のために尽(つ)く すまじめな人もいる。死ねば、同一結果に終わる。すなわち、同じく消滅(しょうめつ)してしまうとは、まことにもって不合理といわなければならぬ。
 また、ある人が苦学して血のにじむような努力をして大学までいったとする。
ところがいよいよ大学を卒業することになって病のために倒れたならば、その人のそれまでの努力は、いったい何のためだったというのであろうか。
そして、もし死後の生命が否定されるならば、われわれはまじめに生きることが馬鹿(ばか)馬鹿しくなる。法律の網(あみ)の目をくぐって生きた方が得(とく)である。
一瞬のごとくにして一生は経過する。この短い一生を、できる限り楽しく、人のことなんかどうでもよい、自分だけが楽しみぬけばそれでよいといった考え方が横行するに違いない。
 西洋では、よく「良心」なる言葉を使う。この言葉は観念的なものであるが、しかし、何かを意味しているといえなかろうか。
 また、よく唯物論的な考え方をする人の中で「死とは、高次(こうじ)神経系の機能の停止(ていし)」などと、とくとくとして答える人も、一たび自分の最 も近しい人が死んだとき、果たして、こんな風に考えるであろうか。また自分が死に直面したらどうであろう。深刻(しんこく)な心となるに違いない。
 また、昔より今日に至るまで、しかもこのように科学の発達した時代でさえ、宗教はなくならないという事実、そしてまた、相当の科学者が、宗教を信じてい るという事実、たとえ信じないまでも、宗教が必要であることを強調する偉大なる科学者がいるという事実、これは一体何を意味しているのであろうか。
 以上の点を考えても、われわれは、生命は必ず、過去世にも存し、また未来にも続いていくこと、そして、すべての人が無意識のうちにも、三世の生命を感じており、また、三世の生命、永遠の生命を説く真実の仏法を求めていると確信してやまない。
 〔注〕「1 生命の本質論」は池田会長の「御義口伝講義上下」から生命論の部分を抜粋(ばっすい)したものです。



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