Ver.1をキホンとして、それでも粘着する会員を破するために、やや細部に入った破折文集です
1:国立戒壇義 2:事と義の戒壇論 3:そして正本堂定義問題を破折
国立戒壇を使用した先師、戸田会長をなぜ批判しないのか (ここClick)
まず、明らかにしておきたいのは浅井氏が執拗に固執する「国立戒壇」なる名詞は本宗にとって、上古に見る根本的法義ではない、ということです。それは浅井氏も度々の達師との面談の機会に於いて、何度も諭されている事実であります。本宗はあくまでも三大秘法の本門の本尊を一大秘法と建て、そこに戒壇義と題目を具す事が本来であります。三大秘法を六大へと展開された寛尊の六巻抄にも、国立戒壇なる個別名称はありません。また大正期の日柱上人を含む以前に溯る御歴代にもこの言葉は見あたりません。
顕正会の常套句、国立戒壇の名詞のみクローズアップをして、それを本宗の願業・御遺命と位置づけられています。さて、国立戒壇は先ほども述べましたように上古の宗祖も開山上人の著作物にも仰せではありません。この名称確認は顕正会が妙信講と言った時代から延々と繰り返されてきた論争のひとつです。
Ver.1出も扱いましたが、当宗でかつて戦中・戦後の一時期歴代上人が「国立戒壇」の語句を使用したことをがあります。顕正会はそれのみをあげて、さも正義はコチラにありとの論を述べてますが、顕正会の挙証とする歴代上人は国立戒壇なる名称を随宜方便としてご使用されただけであります。国立戒壇の名称価値はそれ以上で無いことは明らかであります。
顕正会が指弾する戸田会長は、戦後に国立戒壇義を唱えた名称定義について、そこ講演集で過去にこう語っています
「天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く、御教書を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、ひとりひとりが邪教と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに、御本尊様を持たせることだ。こうすることによって、はじめて国立の戒壇ができるのである(戸田城聖先生講演集)」
と田中智学や浅井の言う国立戒壇は戦前国体的建立観ではなく、戦後憲法の精神に沿った民衆立的意味付けをしていたことが了解できます。文字は同じでも意義と使用意図が違えば自ずと価値も異なってきます。浅井氏の言う前時代的な国立戒壇義と歴代上人が使われた意義・意図は名詞は同じでも、意図は全く違うものであることが理解できると思います。
日淳上人も「田中智学氏は、正宗の教義を盗んで書いた」とは明白 (ここClick)
淳師のお言葉である「田中智学氏は、正宗の教義を盗んで書いた」は事相戒壇・事の戒壇が当宗古来の三大秘法の法義を以て先んじたことを仰せであって、国立戒壇の名称語句が興尊の時代からあったことを言うモノではありません。浅井氏は其処をすり替えています。顕正会員はこうした基本をわきまえず、混在したまま議論をかけてくるのですが、国立戒壇なる名称が宗祖開山の御指南中にあるのであれば、再度是非ともその提示を求めるものでありますが、未だ一度として御文証が上がった事はありません。
顕正会は 日淳上人がハッキリと「田中智学の『日蓮聖人の教義』という著書は日蓮正宗の教義を盗んで書いた」とおっしゃっているではありませんか。とあくまでも淳師のお言葉を楯に言い張りますが、その背景をすこし詳説致します。
そもそも国立戒壇の語を創称した田中智学は明治以降の廃仏毀釈に仏教団体が対抗する手段、そして陸軍を初めとする軍部主導、国家国民全体主義思想の日蓮主義が高調する時代背景の勢いに、日蓮主義の就中、田中の国柱会が主導する合同日蓮宗の国教化を目指すものとして「国立戒壇」の語を使用し、石原完爾や陸海軍部中堅幹部等、国粋主義者の共感支持を得て、広く門下全般にその語が用いられるようになった経緯があります。当宗が一時期にその言葉を使用したのは事実であります。貴殿が上げた淳師の言も、使用されていた昭和中期時代はまだ戦後と戦中の価値観の混乱期でもあり、弊害は少なかったようです。しかし、戦後の民主主義が広がり、個人の権利や自由度が増す中、全体主義的な弊害排除、糾弾が叫ばれるようになり、元々此の語の持つ影の部分と到来している時代相を考えられて、淳師の後を嗣がれた達師は使用を中止されたのであります。
戦前・戦中・戦後の時代を僧侶として生きてこられた日顕上人は「浅井一派の国立戒壇論をざっと摘要すれば、一、国家中心の戒壇建立論、二、天皇中心、並びに議会翼賛論、三、本化聖天子発願論、四、広布の暁、諸条件具備後の戒壇建立論、五、天母山論、六、国教論等であり、殆んど田中智学の思想の模倣であってその酷似するところ驚くほかはない。とくにその主張の中の「本化聖天子の発願論」も、発願という意味において、大聖人および歴代上人の法門に全く拝することはできない。(本門事の戒壇の本義・三〇頁)」と、顕正会の言う国立戒壇義を概括されています。
これらは決して日顕上人の独断把握の言葉ではありません。かつて浅井氏が諫暁第一弾とする「正本堂に就き宗務御当局に糾し訴う」に浅井氏が考えるところの国立戒壇の建立条件が書かれてあります。
◎こと此処に及んで止むを得ず、恐々としていま先師上人の御指南を窺うに、事の戒壇に就き、時に当たって重要なる四つの義を拝す。即ち
一、事の戒壇は、事の広宣流布の暁を持って立てられる
一、事の戒壇は、国立戒壇である。
一、事の戒壇は、本化聖天子の発願に依る
一、事の戒壇は、天母山に立つべし
されば法義上に於いては以上の四義。(浅井著:正本堂に就き宗務御当局に糾し訴う)
これらを見れば、浅井氏のいう国立戒壇義というか思想はほぼ、田中智学氏の言うところと同じで、戸田氏の構想とも異なり、宗門の信徒の折伏勧奨の意図とも違った、国柱会の亜流思想でしょうか。おおよそ聖祖興尊門下を称しながら、他門の思想に傾倒するとは笑止な事でございます。
笑うべし、浅井の国立戒壇構想 (ここClick)
昨年(平成二十三年)年末の顕正新聞を精読していただきたい。かつて浅井氏は国立戒壇の定義をどう言われたでしょうか?日本国一同と宣言したのでしたね。その言葉をもって、妙信講が破門された以降に正宗を責める言葉はいつもワンパターンでした。そうです「舎衛の三億」もその一つで、三億などは宗祖の仰せではないと弾劾していました。それがいつの間にか自説を翻して、六千万人にボーダーが下がったのであります。その根拠も示されては居ません。
浅井氏は「正本堂に就き宗務御当局に糾し訴う」でこう宗門を諫言致しました。
「大聖人は御書に「終に権経権門の輩を一人もなくせめおとして」と仰せ給い、或いは「仙予国王・有徳国王は五百無量の法華経のかたきを打ちて今は釈迦仏となり給う」とせられ更には「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」と諌め、その上「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」として邪宗の存在を許し給わず。この矛盾いかに会通すべきか(正本堂に就き宗務御当局に糾し訴う)」
また別の箇所では「されば広宣流布の断じて来る事じれ大聖人の御確信であり、御預言である、ゆえに諸法実相抄には「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。 剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。」とまた、如説修行抄には「法華折伏破権門理の金言なれば、終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗と成て妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨壤を砕かず。 云々」と(正本堂に就き宗務御当局に糾し訴う)」
ここには六千とか国民投票とかのボーダーは全然見えません。また「舎衛の三億」の発表時に際し「邪宗の存在を許し給わず。この矛盾いかに会通すべきか」って叫んでいますが、この発言の何十年後に、まさか御自身の会通に困ると思わなかったでしょう。大聖人の御確信、御預言と主張された「 日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。」については、浅井氏はもう諦められたのでしょうか?
一人の人間の言葉で一億二千が六千に変わって、それに異を唱えない会員さんは、やはり正常な感覚ではなく洗脳と言われてもしょうがないのでしょう。それらを踏まえて浅井氏の迷走する国立義とはどういう定義の事だったのか、”正本堂の誑惑を破す”から浅井氏の言葉を引用します。
「国立戒壇の「国立」たるゆえんはどこにあるのかといえば、実に「勅宣並びに御教書」すなわち国家意志の表明にある。かくて始めて仏国実現が叶うのである。また「民衆立」であるが、もしこの「民衆立」が国民の総意による建立を意味するのならば、国民の総意は即国家意志となるから、往いては国立戒壇と同意となる。(正本堂の誑惑を破す)」
また別の機会では「一国の総意を以て国立戒壇を建立し(平成十年五月五日号・顕正新聞)」そしてまた「すなわち日本国の国主たる天皇も、大臣も、全国民も、一同に本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、有徳王・覚徳比丘の故事に示されているような身命も惜しまぬ護法心が日本国にみなぎった時――と仰せられる。(日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ)」と明言していました。
正本堂の誑惑を破す、では「国家意志の表明」=「国民の総意は即国家意志」=「国立戒壇と同意」と宣言、「一国の総意を以て国立戒壇を建立し(平成十年五月五日号・顕正新聞)」「日本国の国主たる天皇も、大臣も、全国民も(日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ)」と国立戒壇建立の条件を規定していますね。しかし、突然として国家の総意、全国民が六千万人の熱願に変化したのであります。これが浅井氏の言う総意なのでしょうか?理解できませんね。しかも六千万は現状全国民の半分数である。全国民、国民の総意という規定はどこに消えたのでしょうか?
改めて浅井氏及び顕正会員に問います、この六千万人のボーダーの根拠は仏典なのか、思いつきなのか、何なのか?
笑うべし、展望無くただ国立戒壇と叫んだ迷走団体の哀れを。
参考書籍
◎御宗門関係文書:白蓮華・大白蓮華(昭和34年1月号)・大日蓮・興門唱導会雑誌・弁惑観心抄・日蓮正宗歴代法主全書・富士宗学要集・富士学林教科書研究教学書・六巻抄(大石寺版)・日寛上人御書文段・平成新編日蓮大聖人御書・富士宗学要集・日宣上人(文政五年の御説法)日霑上人(三大秘法談)報恩抄抄御談義書:日開上人(御法蔵説法)日亨上人(正宗綱要・富士日興上人詳伝)・日淳上人(日蓮大聖人の教義)・松本諦雄(日蓮正宗教義一班)有元日仁(大日蓮)・浜中和道(元妙信講問題について)原島喬(慧妙・池田大作先生への手紙)他
◎顕正会関係:顕正新聞・なぜ学会員は功徳を失ったか・正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む・「正本堂」に就き池田会長に糺し訴う・最後に申すべき事・顕正会「試練と忍従」の歴史・「正本堂」に就き宗務御当局に糺し訴う・試練と忍従・御遺命守護の戦い・冨士・学会、宗門抗争の根本原因
◎櫻川忠:迷走する顕正会を斬る、下山正恕:富士大石寺顕正会
資料-迷走系編:欺瞞体質をより理解するための関連資料
◎日開上人の御宝蔵説法本での浅井氏の迷走 (ここClick)
これも文章を使った浅井氏のトリックです。簡単に破すことができます。
開師説法:「戒壇堂に安置し奉る大御本尊今眼前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門の戒壇・真の霊山・事の寂光土」
開師の説法趣旨は、戒壇御本尊の住処=事の戒壇となっているので、浅井氏はこれを以下のように意味をずらしていく。
たとえ未だ事の戒壇は建てられていなくとも、参詣する者の功徳は全く事の戒壇に詣でるのと同じであることを、「此の所即ち是れ本門事の戒壇」と仰せられたのである。
すなわち、”義理において事の戒壇”の意である” ← ここで既に論理飛躍がある、開師は義理とは仰せでない
これを本宗では「義理の戒壇」あるいは「義の戒壇」← 本来の当宗の定義のように言っていますが、浅井氏の勝手解釈である
開師は「又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊今眼前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門の戒壇・真の霊山・事の寂光土」と仰せであり、御指南もそのままである。
それを自らの主張との辻褄合わせために屁理屈をつける「すなわち、「”義理において事の戒壇”の意」と言うのである。開師は事実において「戒壇堂に安置し奉る大御本尊今眼前に当山に在す事なれば」と仰せである。義理などとは浅井の勝手な解釈である。この恣意的解釈を次の「本宗では義理の戒壇」と、寛師の文章を引き出してお得意の主張に結びつけるのであるから、呆れた三段論法である。
ゆえに日寛上人は「義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処、即ちこれ義理・事の戒壇に当たるなり。(法華取要抄文段)
寛師は別御指南で「広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」(御書文段五四三頁)と仰せである。本門事の一念三千の当体、御戒壇本尊を或いは義理に擬し、また事に例え、義理になったり、事になったり変化するのかな?根源とは動かすことのできない中心である。浅井氏の文章トリックは他でも指摘していますので、もう見え見えですけど、しかしこういうセコイ欺しテクは、まぁ彼の常套手段なんですけどね。
更に開師の御法蔵云々で一言しておくと、浅井氏が達師との大奥での対面で見せられた御法蔵説法は、開師の物ではない。
しかも相伝書などと云っているが、浅井氏は法道院所属の時代に、御法蔵説法なるものの存在は知っていた。しかし実物は見た事がなかった。達師が浅井氏に見せた物は応師の御法蔵説法であった。
御存知の通り、法道院が法道会と云っていた時代の応師在位時代は、帝都折伏を先兵とした法道会の進展もあって急激に信徒が増え、御内拝を望む人も月ごとに増え大石寺へ登山参詣する人が多かった。そうした折に応師が御法蔵で説法された内容を御弟子がお写しになったお書き物が残っていた、と云うわけです。
この指摘を裏付ける浅井氏の文言が残っている
「さて、総本山の対面所で細井管長が私に示された、「日応上人の御宝蔵説法の原本」と称する本について少し触れておく。 後日、不思議な経路でその全文を入手することができた。それは五十六世日応上人の「原本」ではなく、六十世日開上人の御宝蔵説法本であった。細井管長が引用した前後の文を拝見すれば、文意は明白であった。(浅井昭衛;日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ)」
さて日顕上人は、この事についてご自身の所化時代を振り返られて、当時の様子を以下の様にお話されている。
浅井氏が後日手に入れたとされる開師の御法蔵説法も、奥法道師が御法蔵で説法された折に筆記されたものを、当時浅井氏と昵懇だった八木直道師が別の人から手に入れた開師の説法を入手したと思われます。
彼の云う御法蔵説法は、法道院の御主管さんであった観妙院様(日慈上人)も手書きで残しておられ、開師の御弟子でもあった、奥法道師や他にも何人か御尊師方の書き物が有ることを確認されてます。浅井氏はそれらの中の写本の一つを、当時、懇意としていた八木直道師から見せられて、それが、対面所の時のものと誤解した。それだけです。さて達師は御法蔵説法の書面を浅井氏に見せるときに、何故手で隠したか、それは応師の法門的な事が書き入れてあっただけであり、エチケットとして故人の手記に近い物を、他人に見せるわけはありません。以下はこの件に関して御先代が説法されていますので、それを上げましょう。
それから、もう亡くなったけれども、日開上人の弟子で私の法類に奥法道という人がいまして、この人が非常に書き物が好きな人で、ありとあらゆるものを書き写していました。その奥法道師の写本のなかに、日開上人の御戒壇説法というものがあったのです。今でもどこかに残っていると思いますが、そのなかには、ちゃんとその文があるのであります。
もう一つは、日達上人が我々にお示しくださった御先師の御説法本のなかに、それがあるということです。よって、先程の意味から言っても、また日達上人のあらゆる点からの御指南から言っても、本門戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇という御指南は、たしかにそのとおりだと思います。(平成16年8月26日:於総本山大講堂)
むしろ、御相伝などと、大袈裟に言う方がおかしい。浅井親子になぜ、達師がわざわざに相伝書を見せなければ、事の戒壇義を証明できないことがああるのでしょうか。ちなみに浅井氏が手に入れた御法蔵説法の写しは八木師の所蔵していた物ではなく、縁故の御僧侶の物であった。その方は今でもご活躍で、この事を笑い話として語っておられる。事ほど左様に浅井氏の言うことは、常にこうしたオチがある。
ちなみに開師の説法は当方が所有しているだけでも二種類あり、一種は戒壇堂であり、もう一種は本堂となっている。他にも随義に応じて説法されているので、数種存在すると思われます。
◎「その戒壇堂に安置し奉る大御本尊今現前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山事の寂光土」(第六十世・日開上人・御法蔵説法)
◎「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり、本門戒壇建立の勝地は当地富士山なること疑いなし。また、その本堂に安置し奉る大御本尊は今、眼前にましますことなれば、この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、もしこの霊場に詣でん輩は無始の罪障、速やかに消滅し云々」(日開上人:御法蔵説法)
◎日相上人の聞書の説法難癖で大恥 (ここClick)
「未だ時至らざれば、直(ただ)ちに事の戒壇はなけれども、此の戒壇の御本尊ましますことなれば、此の処即ち本門戒壇の霊場にして、真の霊山(りょうぜん)・事(じ)の寂光土(じゃっこうど)と云うものなり」と同一轍(どういってつ)である。しかるに細井管長は、日開上人の御宝蔵説法の前文をわざと隠す、すなわち御遺命の戒壇を無視した上で、戒壇の大御本尊所住の処を直ちに「事の戒壇」といった。これ明らかに文意の歪曲である。
もう一つの文証は、「最近出てきた」という日相(にっそう)上人の文書である。
この文書について細井管長は…「日寛上人の御説法を日相上人がお書きになった。これは間違いないんです」という。また阿部教学部長も、この日相上人文書が日寛上人の「密意」を伝えるものであるとして…「日相上人の聞書(ききがき)、大弐阿闍梨(だいにあじゃり)(日寛上人大学頭時代の呼び名)講(こう)の三秘六秘中の戒壇の文にも書かれている」(悪書Ⅱ・「本門事の戒壇の本義」)と云っている。
これではまるで、日相上人が日寛上人の御説法の場に在って書いたように取れるではないか。「聞書(ききがき)」とは聞きながら書く速記録である。日相上人は第四十三世の貫首にして、その御出家は日寛上人の滅後四十四年である。その日相上人が、どうして日寛上人の御説法を聴聞できよう。たばかりもいいかげんにせよ。
また阿部教学部長は、この文書が日寛上人の「密意」を伝えるごとくいうが、あの用意周到の日寛上人が、どうしてこのような形で大事の御法門を後世にお伝えになるであろうか。寛尊の精美を極めた大事の御法門は、六巻抄および重要御書の文段に尽き、それ以外には絶対にない。ことに畢生(ひっせい)の大著といわれる六巻抄に至っては、御遷化(ごせんげ)の前年に再治を加えられ、その中で「敢(あ)えて未治の本を留むることなかれ」とまで念記されている。その上人が、このような頼りないメモでどうして大事の法義を密伝されようか。またもしそれほど重大な文書なら、なぜ今まで誰もその存在を知らず、“昭和五十年になって始めて発見された”のであろうか
浅井氏は宗門で発行されている研究教学書の存在を未確認のようであります。元は富士宗学全集の名称でしたが、堀上人が苦労して編纂された正宗関連の書物全集版です。要集はそれを要点だけ編集した物。正宗に在籍されながら意外と知識見聞は狭いようです。相師の聞き書き云々については、下の方で詳細に述べます。それではまず寛尊の別御指南と相師聞書を並べて検証してみましょう。
◎本尊の人法と者、人即久遠元初の自受用身法即事の一念三千曼陀羅也。戒壇の事理と者、事即富山の戒壇、理即一閻浮堤の末寺・末山、及び諸檀の仏壇、惣じて書写の本尊安置の在処は皆是道理の戒壇也。経に云く当に知るべし是場即是れ道場、天台云く、佛此の中に住す即是れ塔の義云々。(寛尊:抜書雑雑集)
「本門戒壇
在々処々本尊安置之処ハ理ノ戒壇也
富士山戒壇ノ御本尊御在所ハ事ノ戒也」(日相上人聞書)
此処にお示しのように「戒壇の事理と者、事即富山の戒壇、理即一閻浮堤の末寺・末山、及び諸檀の仏壇、惣じて書写の本尊安置の在処は皆是道理の戒壇也。」この文中に事即富山の戒壇とあり、末寺・末山、及び諸檀の仏壇と弁別されてます。つまり日相上人聞書と同じ意である事が確認できます。
これは寛尊の別の御指南「一大秘法とは即ち本門の本尊なり。此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為し」(依義判文抄)と示されている御意とも同じく致しますね。整理しましょう。寛尊の講義聞き書きとされた文書は
◎在々処々本尊安置之処ハ理ノ戒壇也 ←ここでは理の戒壇と謂い
◎富士山戒壇ノ御本尊御在所ハ事ノ戒壇也 ←ここでは事の戒壇と仰せである。
上は寺院を初めとする各自の奉安する仏間でもあります、下は戒壇御本尊を格護する倉(当時は御法蔵)ここでは事の戒壇と仰せです。以上並べますと寛尊の御意と相師とは同意である事が確認できます。浅井氏が下で云うところの「日相上人の文意は、この報恩抄文段と同一轍(どういってつ)である。」という解釈は牽強付会という己義法門に当たります。
さらに戒壇の事と義、浅井氏は「広布達成後に約した場合の定義を記したもの」などと言い訳していますが、どこにあるんでしょうね、そんな定義。寛尊は広宣流布の達成の有無を問わず、御本尊所住の処=義の戒壇であり、本門戒壇の大御本尊御安置の場=事の戒壇と、定義するのが戒壇の事義に関する、古来からの富士門流の基本的な法門定義なのです。
次に浅井氏は、聞き書きの意味を世間の感覚で取り違えてます。大きな間違いであります。「聞書き」とは、「聞きながら書く速記録」ではありません。そこに加えて『日相上人は第四十三世の貫首上人であり、日寛上人の滅後、四十四年も後にお出になられた上人であれば、どうして、日寛上人の「聞書き」を筆記することができたのであろうか。』などと大凡仏教を学する門徒とは思えない発言でありますね。
この聞書きとは、寛尊の門下に施された講義が日相上人の時代までお書き物として相伝され、それを受け継がれた日相上人が寛師の聞書を後世に残す為に文書に移したと言う意味なんですね。しかし浅井氏、富士の宗学にはまったく暗い様相がハッキリであります。他門他宗でもこの程度の事は教養として当然の範囲であります。
さてそこで浅井氏の指摘する「日寛上人の滅後、四十四年も後にお出になられた上人」なる相師が書かれた「聞書き」が通用しないなら、三十一世の因師が書かれた「有師物語聴聞抄佳跡」や通称「雑々聞書」と云われる「有師談諸聞書」はどうなるのでしょうか?浅井氏や克衛氏、有師聞書きから宗門批判文を引っ張っていたのはもうお忘れになったのでしょうか。
なるほど因師は1687年~1769年の生涯で、有師は1402年~1482年。205年の時間を溯って有師の講義を因師は聞かれたことになる。どういうことか?
つまり、大石寺には御歴代の文書が多く御法蔵に残っている。とりわけ筆記物の多かった寛尊の講義録を、相師がご覧になった。寛尊の御在位時代の学林での御説法本を拝見し、その要旨をご自身で筆記された、爾来、宗門に限らず仏教家ではこういう事を「聞き書き」と云い、延暦寺の天台宗でも目の当たりに幾代も前の座主の講義の真意を拝見するが如く、筆記することを、聞き書きと云うんですね。浅井氏、ここでも見聞の狭さを披露しています。
因師が書き留めた有師雑雑聞書末尾には以下に肝要が書されてあります。
◎此の聞書は当家の秘密他見無用なり信心落居の仁は拝見有るへき者なり
こういう基本的なことも知らないようでは、信心落居の仁、つまり浅井氏始め顕正会員には寛尊は理解不能ですね。
◎浅井一家の生活資金は、どこから?。 (ここClick)
次に広布御供養について申します。
顕正会は、邪教のごとく金銭を貪ったことは、ただの一度もない。願うはただ広宣流布の一事だけ。その広宣流布には、どうしても必要な経費がかかる。
その経費を、年一回の、しかも上限が決められた「広布御供養」として、全員の真心でさせて頂くのであります。
このような清らかな制度は、日本国中を尋ねても顕正会にしかない。もし邪教の輩がこれを知ったら、驚嘆するに違いない。
宗教の正邪というのは、本来は教義によって決するものですが、金銭に対する姿勢を見ても、正邪は一目瞭然です。
邪教はカネだけが目的。そしてカネをむしり取るためにインチキ教義で人を馴す。
顕正会は三大秘法の広宣流布だけが目的。そのために必要なおカネを皆で大聖人様に供養し奉り、それを使わせて頂く。これが顕正会の大精神であります。
大聖人様は佐渡御流罪のおり、四条金吾殿からの真心の供養に対し、こう仰せられている。
「何よりも重宝たる銭(あし)、山海(さんかい)を尋ぬるとも日蓮が身には時に当たりて大切に候」と。
大聖人の御命を継ぎまいらせるおカネであるから「何より重宝たる銭(あし)」と仰せられるのです。
広布御供養も、広宣流布になくてはならぬおカネであります。
これを御宝前に供え奉り、使わせて頂く。大聖人様に通ずる供養であるから、大功徳になるのです。
どうか全幹部は、誇りを以てこれを推進してほしいと思っております。(平成二十三年・指導:顕正会11月幹部会)
◎顕正会の運営は会員の浄財を以て当てているそうです。会則には、第十三条 本会の運営経費は、会員有志の拠出による「広布御供養」と、顕正新聞社の収益金を以て支弁する。(「宗教法人顕正会」規則 )とありますが、下は宗教法人の申告ランキングです。
2003年度 宗教法人申告所得ランキング
1 創価学会 181億1500万円
2 明治神宮 16億8700万円
3 月窓寺 4億900万円
4 蓮乗寺(日蓮宗) 3億8800万円
5 浅草寺 3億2100万円
6 霊波之光教会 3億1900万円
7 靖国神社 3億1800万円
8 顕正会 2億9300万円
さて、そこで「現世に大果報を招かん」と題された平成二十三年の十二月の広布御供養指導での浅井サンの弁ですが、大聖人に取り次いだって云ってます。ところで浅井氏はいつから僧侶になったのでしょうか、しかも巧みに南条殿の宗祖への御供養を引き合いに出して、邪義を飛ばしてますが、在家が在家にお金を出す事は供養とは云わないですね。寄付かお恵みですね。
広布御供養報告勤行 浅井先生ご挨拶
全顕正会員の真心こもる広布御供養、ただいま御宝前に供え奉り、謹んで大聖人様に御奉告申し上げました。
大聖人様は佐渡御流罪のおり、はるばる鎌倉から供養を捧げまいらせた四条金吾殿に対し
「何よりも重宝たる銭、山海を尋ぬるとも、日蓮が身には時に当たりて大切に候」
と仰せあそばした。
また上野殿は、信心のゆえに鎌倉幕府から憎まれて理不尽な重税をかけられ、ために地頭でありながら「自身乗る馬なく、妻子は着る衣なし」という状況に陥った。
しかしそのような中にも、常に身延山中にまします大聖人様の御身を案じては、真心の供養を続け通された。御本仏の命を養いまいらせたこの功徳はたいへんなものであります。
大聖人様は法華経の「亦於現世得其福報」(亦現世に於いて其の福報を得ん)の文を引かれ
「現世に大果報を招かん事疑いあるべからず」
と仰せられた。来世ではない、現世に大果報を招くのである ― と。
この仰せのとおり、上野殿は若いときこそ苦労したが、晩年には大福運の長者、大石寺を一人で建立するほどの大果報の人となられたのであります。
大聖人様の唯一の大願、それは広宣流布・国立戒壇建立である。すでにその前夜ですね。
この時に広宣流布を願って真心の供養を御宝前に奉る。この御供養こそ時に叶った御奉公であれば、必ず大聖人様に通じ、その功徳は我が身に具わり福運となるのであります。
この大不況の中、全顕正会員は喜んでこの広布御供養に参加してくれました。この真心、私は心から有難く思っております。以上。
平成二十三年十二月二十八日 於本部会館
浅井氏云わく「全顕正会員は喜んでこの広布御供養に参加してくれました。この真心、私は心から有難く思っております。」と云ってます。いまは家業の印刷屋さんも廃業となって、浅井家は自身の会存続のための経営観に沿った書籍購入や広布御供養を、会員に迫る経済活動をされているようですが、浅井会長を初めとして、顕正会経営に従事しているものは、その生活を恐らく会員の喜捨によって賄っているものと思われます。そこに、下のような末端の悲鳴とも言える諫言も発生する事になっているようです。
しかし、入信以来、当初からどうしても拭え切れない疑念も抱いて参りました。
それは、何かと申しますと、『何故、機関紙購読や広布御供養に誓願(ノルマ)があるのか』とのことであります。(平成二十年五月二十五日:顕正会憂国の会員)
四条金吾殿御返事や南条殿の御妙判を使って、それらしく指導していますが、再々に申すように宗祖は一応、御僧侶のお立場であります。応供を受ける資格を持った御方であります。仏典・日蔵経には「彼の有する受用資倶を侵奪して、或いは自ら受用し、或いは他人に与うるに由る。是の因縁に由って彼れ命終し終わって当に阿鼻大地獄に堕すべし」と書かれている。施者の三宝供養の志を我が身に奪う失によって阿鼻大城に墜ちると説かれているのですね。また「他の為に説授し、其の財を貿取し、無義利と為すは、是れ菩薩の魔事なり(宝集部五巻)」とあって、勝手な法門を説いて財を受ける諸々の行為は、菩薩の名前を借りた魔事と説かれています。およそ宗祖の仏教に於いて在家が施を受ける資格を肯定する御妙判は寡聞にしてか、私は知らない。是非とも宗祖の御妙判から、在家が施を承けうる資格の、それも提示証明を願う物であります。
宗教団体の収益上位の顕正会、あの人の高そうな背広も、みんな会員さんの浄財による物なんですね。
◎無理を通せば、道理無視。書面で見る陰湿体質。 (ここClick)
妙信講時代から浅井親子の横紙破りな体質は有名ですが、その端緒は拒否されていた正本堂御供養が本山に収納された当たりから、露骨になってきている。昭和四十年に御供養に参加したものの、妙信講は再々に宗務院に受理督促申請をし、法道院早瀬総監の仲介でようやく昭和四十四年三月に御供養が受理されている。昭和四十年の十月から四年近くかかってようやく妙信講の正本堂御供養は結論を見た。御供養収納と同時期くらいに、東京の某デパートで日蓮聖人展が毎日新聞主宰で企画され、御宗門もそこに展示要請に応えて七点出品された。そこに浅井親子は噛み付いてきた。以下の文面はその時の諫訴状と称する浅井親子の積年の怨念が垣間見える書面であります。
★昭和四十四年六月十八日 聖人展への出展につき宗務当局への諫訴状
◎昭和四十七年六月三十日 妙信講、日達猊下に書状。
◎昭和四十七年六月三十日、達師へ書簡(松本住職に託して七月一日届けられる)
◎昭和四十七年六月三十日 妙信講、日達猊下に書状。
☆昭和四十八年五月十九日。浅井本部長、理事長に就任。
◎昭和四十九年四月九日、妙信講は再び宗務院に登山意向確認の書面提出を申し出る、これに宗務院は四月三十日付けで「猊下の御意思により、国立戒壇を、公論であるかの如く文書等で主張する間は許さない〟」(浜中和道:元妙信講問題について)と伝達、登山の申請を却下。
「御当局の、身を挺して法を護る道念を足らざるを惜しむ。万一にも外圧有るありて、更に為す事あらば、我等護法の故に許さず。外圧の如何なるを問わず、実力を以て之を阻止せん。既に我に千五百の男子精鋭あり、而しも仏法刀杖すでに持す。隠忍の過去十二年。枚を含み鳴りを鎮めて鍛えし捨身の精鋭なり。一朝事あらば、自ら率いて在家の本分に殉せんのみ、此の事永く忘れ給う可からず(中略)
とまれ、此の一書に於いて小輩等事を切らんと存ずれば、七日が内に総監殿のご真意を拝見し、以て爾後の決意を固めんとするものであります。(昭和四十七年六月・富士百六号)」
ここに「隠忍の過去十二年。枚を含み鳴りを鎮めて」とありますが、彼らが妙信講再建以来、どういう気持ちで過ごしてきたかを伺うに、あまりある表現です。更に「精鋭千五百の男子精鋭」と青年部の陣容を誇張していますが、この千五百はどうもハッタリのようで、当時はその一割位しか居なかったろうと、元幹部の櫻川忠氏は著書で当時を述懐されている。
「而しも仏法刀杖すでに持す」とか「爾後の決意を固めんとするもの」との文言は、信仰心からの熱誠ではなく、殆ど脅しとしか映りませんが、こうした浅井親子の慰撫教導に努めておられた当時の宗務当局の方々のご苦労が忍ばれます。
浜中和道師の書籍には、この聖人展の諫訴状への対応について「これは学会が猊下に無断で宗務院と結託してやったとデマを言い出したのです。(中略)浅井親子が余り執拗に言い張るので、長老会議が開かれ、謗法与同ではないことが確認され、妙信講浅井親子が極端な行動に走らぬようにと緩い配慮が表明されたのでした。ここにも松本日仁も一緒に参加し、浅井親子の説得を引き受けたそうです(元妙信講問題について)」とあります。しかし、この緩い教導が逆に浅井親子を増長させる事に発展していきます。宗務院や長老方の慈悲教導を逆手にとって、ゴネれば当局は動くと確認したのでしょう。
『男子精鋭二千の憤りは抑えがたく、仏法守護の刀杖(とうじょう)を帯びるに至りました。もし妙信講一死を賭して立つの時、流血の惨(さん)を見ること必至であります。この時、一国は震憾として始めて御本仏の御遺命を知り、宗務当局また始めて御遺命に背くの恐ろしさ、正直の講中を斯くの深刻さをはだえに感じ、ここに誑惑は一挙に破れ、仏法の正義は輝くものと確信いたします。この時、妙信講も斃(たお)れ、同時に学会の暗雲もなく、宗務当局の奸策(かんさく)もなし』
この時期の事を妙信講・浅井親子は「宗門は国立戒壇を捨てた」と自分たちの諫暁を美化していますが、実際は昭和四十七年頃から学会の言論問題が起こり、この動静をみて学会攻撃の材料としたのです。「この長老会議の決定にも従わず、平行線をたどるうちに戒壇問題をもち出してきたのです(浜中師・元妙信講問題について)」以下の文面は昭和五十九年に発表された「御遺命守護の戦い」という自己申告の回想記ですが、この書状の都合の悪いところは削除されています。
「道理の通る段階は過ぎ去りました。非理を前とし正直の者はかえって重科に沈まんとしているのであります。此処において御遺命を守り奉り猊下の御本意を再び顕すには、この暗雲を取り除くの他はありません。(中略)されば重大なる決意を固めざるを得ません。すでに講員は学会・宗務当局の無慙無愧に血涙を流し、男子精鋭二千の憤りは【抑えがたく、仏法守護の刀杖を帯びるに至りました】もし妙信講一死を賭して立つの時、流血の惨を見ること必至であります。この時、一国は震撼として始めて御本仏の御遺命を知り、宗務当局また始めて御遺命に背くの恐ろしさ、正直の講中を欺くの深刻さを(はだえに)感じ、ここに誑惑は一挙に破れ、仏法の正義は輝くものと確信致します。この時、妙信講も斃れ、同時に学会の暗雲もなく、宗務当局の奸策もなし」(「冨士」250号:昭和59年8.9.10月合併号・御遺命守護の戦い)【】内は削除されている
この時にはまだ達師への直接的な誹謗言辞は無く、むしろ猊下の権威を利用して、自分たちの思惑・要望を通したい魂胆があったようです。以下の文面は松本住職を介して届けられた、上記書状の末文にあたる文章です。
「このうえは、大事出来して一国の耳目驚動の時、公廷において厳たる証拠と道理を示し、一国に正義を明かすのほかなく、さればその時、小輩等早く霊山に詣で、宗開両祖の御尊前にて、聖人展の違法・正本堂のさし切りて言上、さらに宗門の現状と猊下の御苦衷、つぶさに申し上げる所存でございます。猊下には永くご健勝にてわたらせますよう、偏にお祈り申し上げる次第でございます」
自己愛的というか、自分たちの行動原理、信条に酔っているような文章です。
とりわけ「小輩等早く霊山に詣で」などと、無謀な行動をほのめかすような所や、「宗開両祖の御尊前にて、聖人展の違法・正本堂のさし切りて言上、さらに宗門の現状と猊下の御苦衷、つぶさに申し上げる所存でございます」に到っては、信仰的忠誠表明とは裏腹に、無理を通したいという自己中心的な魂胆を感じてしまいます。こうした自分たちの要望や願望が拒否されると次のように豹変するようです。
「御登山は決して形式ではありません。【しかも御登山は正宗信徒にとって一生の大事であります。かかる】清浄の登山を、あろうことか国立戒壇を捨てさせる手段に使うとは・・・あまりにも卑劣にして無惨であります。(中略)仏法の修行は時による。今時に当たって、これより大なる御奉公はなく【また猊下に対する忠誠はなく】さらに国家への利益はないと私は確信します。」(妙信講第十六回総会:富士30-11)
妙信講はその独自活動のせいで、正本堂御供養や登山申請の度に法華講連合会と衝突を繰り返していた。そうした経由もあって、連合会からは浅井氏一派の姿勢に様々な疑問が投げかけられていた。こうした衝突に触れて浅井氏は昭和五十年三月号機関誌・富士にこういう言辞を残している。
『更に「妙信講は猊下を大聖人と思わぬは不敬なり」などの詰問は、如何なる事を意味するのでありましようか。妙信講員の誰人か、何時・何処で、かゝる不敬の言辞を弄したのか。確かなる証拠あらば出すべきであります。(富士第139号 4ページ)
と、昭和四十八年頃には猊下への不敬を言い訳しているが、連合会から向けられていた妙信講に対する信仰姿勢の疑惑は、結果的に今となっては疑惑では無くなったようであります。同じ書籍に載せられていた以下の言辞はやはり、在家信者の分域を超える思惑が透けて見えます。
但し、清浄の御登山を法華講信徒統制の具に利用し、権限を壟断して純信の参詣を数年に亘り阻害した大過は、将来必ず現われざるべからずと思うものであります。(富士第139号 5ページ)
この返答に浅井親子は逆上し「もし無条件で登山を認めなければ、実力行使する。そうなれば何が起こるかわからないぞ」(浜中和道:元妙信講問題について)
とその本性を剥き出しにした返答をしている。
登山申請が、もはや叶わないとなった途端の捨て台詞とも言える「もし無条件で登山を認めなければ、実力行使する。そうなれば何が起こるかわからないぞ」との発言には呆れるほか無い。本来、御内拝は猊下の御慈悲の元に行われるにかかわらず、実力行使とは何をどうするつもりであったのか。
昭和四十九年頃には、もはや浅井親子は本宗への信仰心はなくなったと断じても差し支えない一連の発言です。これらが破門以後、逆恨みとも成って、御宗門・猊下誹謗へと向かった遠因なのであろうかと思われます。
資料-お笑い編:いつまで信徒気分?
◎宗門古来のとか、上古のではとか何処の団体のこと? (ここClick)
◎「事の戒壇」とは、宗門古来の定義とは全く別な意味であられる。(「正本堂」に就き池田会長に糺し訴う・第五 「事の戒壇」の定義について :昭和四十六年十一月十五日)
◎此の義を明確にする為、まず先師の御指南によって宗門古来の定義を示す。(同書)
他にも数えるに夥しい類例があるが、浅井氏はいつまで日蓮正宗の信徒気分なのだろうか?もうとっくに破門されて久しいのに、此処に現れた当宗とか古来のとかは、どこの宗派の事なんでしょう。
1:妙信講なる存在は昭和49年8月12日の講中解散宣告書以来、団体として、亦個人としても信徒籍は本宗にないこと。更に浅井氏が「顕正会が日蓮正宗と名乗っていたのでは同じではないかと誤解をされる。説明も煩わしい(中略)日蓮正宗と名乗ることが恥ずかしいのです(富士の三百八十二号)」と発言していることからも、日蓮正宗とは関係がないことは明らかである。にもかかわらず、相も変わらず当宗とか本宗とかは、属性のない日蓮正宗のような法義を吹いているのでありますが、当宗とか本宗古来とか、一体どこの宗教団体のことなのか?
2:妙信講講員の信徒籍と団体解散の無効を争った裁判で、浅井氏は和解調停で捺印している。つまり、講中解散の無効申請、および信徒籍復帰もしくは復籍願いを放棄したこと。浅井氏を講中意思代表として以後永久に当宗に復籍を争う申し立ても放棄したこと。この事で旧妙信講信徒一派は、以後当宗信徒を標榜することはできないと言うことです。これもまた日蓮正宗とは一切関係のない事が歴史的にも確認されます。
以上を前提としてみた場合、浅井氏の言っている、宗門古来の、とか伝統法義とか書いてありますが、貴会は平成八年十一月十八日、文部省(当時)認証の新興宗教団体であり、戒壇義だとか戒壇大御本尊だとか、設立二十年も経過していない団体が古来だの伝統というのはおかしい話でありますね。その殆どが日蓮正宗の伝統であり、他所の家の宝を伺うような話ばかりであります。妙信講は破門以来三十八年も経過しており、既に顕正会と名乗る事は宗門の与り知らないことであります、日蓮正宗の法義に寄生せず、早々に宗教的自立を勧める物であります。