勤行は信心の基本


 勤行は、日蓮正宗の信心をしていく上の基本であり、最も大切な修行です。
勤行なくして信心はありえません。
 勤行とは「勤(つと)めて善法(ぜんぽう)を行う」ことであり、仏前でお経を読み、礼拝(らいはい)供養することを言います。
 日蓮正宗においては、御本尊に向かって、法華経の方便品第二と如来寿量品第十六(寿量品)を読誦し、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを勤行としています。
 この勤行は一日に朝と夕の二回行い、御本尊に対して、仏法僧の三宝への報恩謝徳や広宣流布などの請願成就(じょうじゅ)、さらに先祖の追善供養などを申し上げます。
これを毎日、真心を込めて、たゆまず実践することによって、私達は成仏という本当の幸福な境界(きょうがい)に到達することができるのです。

方便品と寿量品の読誦

 勤行の時に方便品と寿景品を渋むのは、日蓮大聖人が、「法華経は何(いず)れの品(ほん)も先に申しつる様(よう)に愚かならねども、
殊(こと)に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿景品にて侍(はべ)り。
余品は皆(みな)枝葉にて候(そうろう)なり。
されば常の御所作(しょさ)には、方便品の長行(じょうごう)と寿像品の良行とを習ひ読ませ給ひ候へ」(月水(がっすい)御書・御書三〇三ページ)
と仰せのように、この両品が法華経の迹門(前半)と本門(後半)の中心として勝れた意義と功徳を持っているからであります。
 さらに、大石寺を開創された第二祖日興上人が書かれた古い記録には、
「大石寺は御堂(みどう)と云ひ墓所(むしょ)と云ひ日目之(これ)を管領(かんりょう)し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり」
(日興跡条々事・同一ハ八三ページ)とあり、また総本山第二十六世日寛上人の『当流行事抄』に、
「開山已来化儀化法、四百余年全く蓮師の如し。故に朝暮(ちょうぼ)の勤行は但(ただ)両品に限るなり」(六巻抄一九三ページ)とあるように、
大聖人がこの両品を日常お読みになっており、日蓮正宗では日興上人の昔からずっと変わらず、大聖人と同じように両品を読誦してきたのです。
 このことからも方佳品と寿景品を読み、題目を唱えることが本宗の勤行であり、修行の根本であることが解ります。

正行と助行

 勤行には、正行と助行の意義が具(そな)わっています。
 正行とは「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで、唱題とも言われます。
これに対して助行とは、法華経の方便品と寿量品を読誦することを言い、これは正行の題目の意義と功徳を助け顕すために行います。
 この正行と助行の関係について、
日寛上人は『当流行事抄』に、「譬(たと)えば灰汁(かいじゅう)の清水を助け、塩酢(えんそ)の米麺(べいめん)の味を助くるが如し。故に助行と言うなり」(六巻抄一六一ページ)とお示しになっています。
すなわち、お経を読むのは、例えば、洗濯をするときに洗剤を加えて水の助けとしたり、調味料が食べ物の味を引き立たせるようなものであるということです。
 したがって、正行である題目を離れては励行の読誦の意義はなく、また助行を用いない唱題のみの修行も、正式な勤行とはなりません。
 信心を始めたばかりの人のなかには、「忙しい」とか「面倒だ」といった理由から、お経を読まずに題目だけを唱える人がいます。
しかし、これは誤りであって、大聖人が仰せのように、正しい勤行は、きちんとお経を読んで題目を唱える、つまり正行と助行を共に合わせて実践することが大切なのです。
勤行の心構えど態度勤行は、御本尊をはじめとする三宝に報恩謝徳申し上げるとともに、祈念と回向をする重要な儀式ですから、敬虔(けいけん)な気持ちで臨みましょう。
 御本尊に向かうときには、背筋をきちんと伸ばして姿勢を正し、胸の前で両手を合わせ、御本尊の中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」のお文字を拝しますが、そのなかでも「妙」のお文字を拝することを基本とします。
 勤行は、暑いからといって裸に近い姿であったり、寝巻きのままでするようなことは慎み、きちんとした身なりで行いましょう。
勤行をすることには化他の行も含まれているのですから、周囲の人への影響も考えて、節度ある態度が大切です。
 また、唱題の心構えについて、第五十九世日亨上人は、
「御題目の唱へ方は、身に油断怠(おこた)りなきよう、意(こころ)に余念雑念なきようにありたい、口より出す声は早口であったり粘口(ねばぐち)であったりしてはならぬ、落着(おちつ)いて確固(しっかり)と尻強(しりづよ)に中音に唱へねばならぬ、唱ふる数には定まりがない、多くとも少なくとも其(その)人の都合であるが、身体の方は両の指(て)掌を合(あわ)せて指先が鼻の下に向くように、眼は確かに御本尊に向(むか)ふように、其(そう)して身体中が歓喜(よろこび)で踊躍(ぞくぞく)するようにありたい、
御本尊と吾等(われら)と一体不二に成るまで励まねばならぬ」 (日蓮正宗綱要一二四ページ)と述べられています。
よくよく熟読玩味(がんみ)すべき御教示です。
 ここに仰せの如く、唱題の数に決まりはありませんが、数多く、心ゆくまで唱えることが最も大切です。
また、お経の文は正確に発音し、観念文も声こそ出しませんが、語句を正しく理解し、念ずるようにします。
そのためにも、なるべくお経本(勤行要典)を見て、勤行をすることが望ましいでしょう。

朝夕の勤行

 日蓮正宗の勤行は、朝夕の二回行うのが基本ですが、特に何時にしなければならないという決まりはありません。
職業などによって事情が異なりますから、自分の生活に合わせて、無理のないように行います。
 一日の出発点となる朝の勤行は、各座の観念文をしっかり念ずることはもちろんですが、妙法の広宣流布を願う仏子として、一日を有意義に過ごし、生活の上にも妙法の功徳を実証できるよう御祈念申し上げ、
さわやかな一日のスタートとなるように五座を勤めます。
また、夕の勤行では、仏法僧の三宝に加護された一日の生活を感謝申し上げ、三座を勤めます。
 この朝夕の勤行は、水の流れるように欠かさず、正しく実践していくことが大切です。
特に永続して実行するためには、勤行を生活のなかの習慣とすることが望ましいでしょう。
 ただし、毎日の勤行が惰性に流れてしまっては仕方がありません。
   「一心に仏を見たてまつらんと欲(ほつ)して 自ら身命(しんみょう)を借(お)しまず」(寿量品・法華経四三九ページ)という真剣さを基本精神として臨みましょう。
大聖人が、「受くるはや(易)すく、持(たも)つはか(難)たし。さる間成仏は持つにあり」(四条金吾殿御返事・御書七七五ページ)と仰せのように、月々日々、持続していくことが大切であり、それが功徳の源泉となるのです。

五座の意味

 総本山大石寺では、日興上人以来、歴代の御法主上人により、一目も欠かすことなく丑寅(うしとら)勤行が行われ、大聖人の御遺命(ゆいめい)である広宣流布の祈念がなされています。
 丑寅勤行は当初、天壇(諸天供養を行う所)・本堂・御影堂・客殿・墓所(むしょ)において読経・唱題が行われていましたが、江戸時代の初期より、客殿一ヶ所で、五座の形式をもって行われるようになり、現在に至っています。
 
〔初座〕諸天供養(方便品・寿量品自我掲・引き題目)

 初座では、正しい仏法を昼夜にわたって守護している諸天善神に対し、東天に向かって方便品と自我偈を読み、引き題目を唱えて法味を供えます。
 法華経には、「虚空(こくう)の諸天、法を聴(き)かんが為(ため)の故に、亦(また)常に随侍(ずいじ)せん(中略)諸天昼夜に、常に法の為(ため)の故に、而(しか)も之(これ)を
 衛護し、能(よ)く聴く者をして、皆(みな)歓喜することを得せしめん」(安楽行品・法華経三九六ページ)
とあり、御書には、「一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理、諸天善神の威食(いじき)なり」(平左衛門尉頼綱への御状・御書三七三ページ)
とあるように、諸天善神は正法の法味、すなわち文底下種の南無妙法蓮華経を食することによって威光を盛んにし、衆生・国土を守護する力が強くなってくるのです。
故に、初座で諸天善神に対し法味を送り、その威光の倍増を祈るのです。

〔二座〕本尊供養 (方便品・寿量品長行・寿量品自我偈・引き題目)

 二座では、久遠元初の御本仏の当体である独一本門戒壇の大御本尊に対し奉り、その偉大な功徳を讃歎し、報恩謝徳を申し上げます。
 
〔三座〕三師供養(方便品・寿量品自我偈・引き題目)

 三座では、一切衆生の主師親である末法の御木仏・宗祖日蓮大聖人を讃歎し、報恩謝徳を申し上げます。
 続いて第二祖日興上人、第三祖日日上人、第四世日道上人、第五世日行上人等の歴代の御法主上人に報恩謝徳を申し上げます。

〔四座〕広宣流布祈念・その他の祈念(方便品・寿景品自我偈・引き題目)

 四座では、まず広宣流布の祈念をします。
 日興上人以来、代々の御法主上人によって一日も欠かすことなく丑寅勤行が行われ、広宣流布の祈念がなされています。
私達もこの四座で大聖人の御遺命である、一天四海皆帰妙法の広宣流布を祈念し、その達成のために精進することをお誓いします。
 次に、自己自身の無始以来に犯した謗法の罪障消滅と信心倍増、さらに無事息災等、諸々の祈念もここで行います。

〔五座〕回向(えこう)(方便品・寿量品自我偈・題目)

 五座では、先祖ならびに有縁(うえん)の精霊(しょうりょう)への追善回向を行います。
 追善回向とは、読経・唱題の功徳を先祖に対して回(めぐ)り向かわしめることです。
先祖を成仏に導くのも、地獄の苦にあわせるのも、法の邪正によるのですから、末法下種の大法である本門の御本尊に成仏を願うことこそ、唯一無二の追善供養になるのです。
 最後に「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」と観念し題目三唱して勤行を終了します。
この文は「大法界の有情(うじょう)・非情のすべてが、この南無妙法蓮華経の功徳に浴し、皆が平等に成仏得道して寂光土に帰する」ように願うものです。
 なお、初産から四座までは、お経のあとに引き題目を唱えますが、これには、長く引いて唱える一遍の題目に多くの唱題を収める意味があります。
さらに、唱題の功徳を一天四海乃至、法界全体に遍満させるとともに、化他折伏の意義から、九界の一切を妙法の大功徳へと誘引して利益するという意味もあります。
これらの理由により引き題目を唱えますが、題目を引く長さに決まりはありません。
 また、夕の勤行では初座と四座を除いて行います。

妙法の大利益

 生命は十界互具といって、あらゆる世界を具えているので、縁に触れて様々な作用を起こします。
例えば、コップの水は無色透明でも、周囲の光の当たり方によって様々な色彩に変化して見えるように、私達の生命も周囲の縁によって種々に変化していきます。
 そのなかで、最も崇高(すうこう)かつ絶対的な幸福境界(きょうがい)の生命作用を仏界と言います。
この生命を涌現(ゆげん)させるためには、人の出世の本懐である御本尊に向かって、読経・唱題する以外にはありません。
勤行は、御本尊に、他力本願的にお願いするためのものではなく、また自力本願的な難行・苦行でもありません。
あくまでも、対境の御本尊と私達の信心が合致し冥合することが大切であり、こうして初めて、仏の生命が私達の凡心に涌現し、躍動し始めるのです。
そして、これによって毎日の生活を歓喜に満ち、力強く送ることができるのです。
 大聖人は「我が己心(こしん)の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性(ぶっしょう)、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏とは云ふなり。
賛へば能(かご)の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば龍の中の鳥も出(い)でんとするが如し。
口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ」(法華初心成仏抄・御書一三二〇ページ)
 「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らは滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是(これ)を信受すべし」(聖愚問答抄・同四〇六ページ)
とお示しになり、また目寛上人は、大御本尊の功徳を讃(たた)えて、
 「此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則(すなわ)ち祈りとして叶(かな)わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり」
 (観心本尊抄文段・日寛上人御書文段一八九ページ)と仰せられています。
 このように、私達が強い信力と行力をもって御本尊に向かって勤行するとき、御本尊の偉大な仏力と法力がこれに呼応し、これらの四力があい契(かな)って大利益(りやく)を生ずるのであります。
顕益と冥益しかし、「魔競(きそ)はずば正法と知るべからず」(兄弟抄・御書九八六ページ)
と説かれているように、成仏の大直道である勤行を朝夕欠かさず行うことは、なかなか容易なことではありません。
大聖人は、御書の至るところに、水の流れるような不退の信心を貫くことが肝要である旨を御教示されています。
 仏法の利益には、はっきりと利益が顕れる「顕益」と、はっきりとは判らないが気づかないうちに利益を受ける「冥益(みょうやく)」とがあります。
『教行証御書』に、「正像に益(やく)を得し人々は顕益なるべし、在世結縁(けちえん)の熟(じゅく)せる故に。今末法には初めて下種す、冥益なるべし」(同一一〇四ページ)
とありますように、釈尊の在世や正法・像法時代の利益が、熟益・脱益という顕益として顕れたのに対し、末法の利益は、成仏の根本原因となる本因下種の妙法が初めて人々の心に植えられる冥益が主となります。
 しかし、信心によって病気が治った、生活苦が解決したなどの利益は、数多くの人が体験することです。
これは、末法の冥益のなかでも、御本尊の功徳の一端が実際の生活の表面に顕れた、顕益の一分と言えるものです。
 ただし、御本尊の功徳は広大無辺ですから、信心の目的も、さらに深く大きいものでなければなりません。
すなわち、あたかもこんこんと涌(わ)き出て尽きることのない清浄な泉のように、生命の奥底より常に金剛不壊(ふえ)の仏界を涌現(ゆげん)し、
自己の人生を力強く向上させていく境界こそ冥益の本質的なものであり、不求自得(ふぐじとく)の大利益と言えましょう。
 日寛上人の『三重秘伝抄』に、
 「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為(な)す」(六巻抄一三ページ)という御指南があります。
日夜、勤行に励み、水の流れるような信心を三年、五年、十年と続けていくことによって、次第に自分の心のなかの仏界が開けていき、仏の境界に近づいていけるのです。
 例えば、幼児の成長は一日や二日で計ることはできません。
ところが一年、二年の歳月を経てみると、驚くほど成長していることが判ります。
そのように、まじめに勤行を実行する人と、そうでない人とでは、白身の境界も功徳も、いつの間にか大きな差が生じることは聞違いありません。
 今日も、真心こめて音吐(おんと)朗々と勤行を実践し、「朝々(ちょうちょう)仏と共に起き、夕々(せきせき)仏と共に臥(ふ)す」(御義口伝・御書一七四九ページ)
の御金言のように、御本尊の大慈悲に包まれて「衆生所遊楽」の人生を力強く築いていきましょう。

先祖の追善回向

 また、毎日の勤行においては、先祖代々の諸精霊の追善回向を行います。
仏教徒に限らず、人間として、自分の先祖や縁のある人々に対して回向することは当然のことであります。
 今日、世間一般では、回向という言葉は死者に対してお経を読んだり、あるいは香華を供えて冥福を祈ることだけを指しているようです。
これらもたしかに回向に違いありません。
しかし、本来の回向とは、このような狭い、通俗的なもののみを指すのではなく、もっと広く深い、宗教的・哲学的な意味を含むものなのです。
 これを知らず、世俗的な考え方で、ただ手を合わせて祈ればよいと思ったり、また死者や先祖の位牌などを仏壇に祀(まつ)ることだけでは、少しも追善供養にならないのです。
そればかりか、邪宗・邪義によって先祖回向を行った場合は、その苦しみを取り除き、成仏に導こうとする行為が、先祖はもちろん、その本人までもが苦しむ結果になり、かえって目的に反してしまいます。
 そこで、回向の正しい在り方について考えてみることとします。
 回向とは、梵語のパリナーマ(Parinama)という言葉の翻訳で、元来は「転変」とか「発展」を意味する言葉でした。
これらを含めて「回転趣向」と翻訳し、さらに縮めて「回向」と名づけたのです。
すなわち、己れの一切の善い行いの功徳を転じて、他に施し向かわせるから回向と言うのであります。
 この回向には、三種の回向があるとされます。
 まず第一は「菩提回向」で、自分の功徳を回(めぐ)らせて、菩提(悟りの道)に趣向することを言います。
 法華経譬喩品に、
 「我(われ)方便を以(もっ)て、汝を引導せしが故に、我が法の中に生ぜり」(法華経一三四ページ)
とあるように、舎利弗が、小乗経において滅度(身を灰にし、智を滅却して空無に帰する悟り)に至ると思っていたのを、仏の種々の説法により、
小乗を恥じ、大乗を慕う心を生じ、その心を大乗に回転(えてん)して、極大乗の法華経に趣向したことがその例です。
 第二は「衆生回向」で、法華経化城喩品に、「願わくは此の功徳を以(もつ)て普(あまね)く一切に及ぼし 我等と衆生と 皆共に仏道を成(じょう)ぜん」(同二六八ページ)
とあるように、自分の修得した功徳を、一切の人に施して成仏の大業を成せしめようとすることであります。
 第三は「実際回向」で、法華経提婆達多品に、「勤求(ごんぐ)して此の法を獲(え)て 遂(つい)に成仏を得ることを致せり」(同三五九ページ)
と説かれるように、自らの法華経修行の功徳をもって、直ちに仏身を成ずることであります。
 これらに共通して言えることは、自己の功徳善根を積むことが肝要であります。
 『観心本尊抄』に、
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五宇を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲り与へたまふ」(御書六五三ページ)
と仰せのように、大聖人は法華経木門寿量品の文底の南無妙法蓮華経を、今日の人々のために御本尊として顕されたのであります。
 私達には、疑うことなく御本尊に読経・唱題し、併せて折伏を行ずることこそが真の功徳回向となり、自他ともに即身成仏の利益を得る道となるのです。


平成19年4月大日蓮より転記
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