日達上人 『「戒壇」に関する御説法集』
      「日蓮正宗宗務院」

-----目次-----

一、訓 諭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

二、第33回創価学会本部総会での御講演・・・・・・・・・・・・・・4

三、正本堂の意義について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7

四、戒壇についての補足・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12

五、法華講青年部お目通りの際の御説法・・・・・・・・・・・・・・18

六、戒壇について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22

七、寛師二百五十遠忌大法要での御説法・・・・・・・・・・・・・・28

ハ、宗会議員決議書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37

九、創価学会副会長室決議・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38

十、法華講決議・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39

訓 論

 
さきに法華講総講頭池田大作発願主となって、宗内僧俗一同の純信の供
養により、昭和四十二年総本山に建立の工を起せる正本堂はこゝに五箇年
を経て、その壮大なる雄姿を顕わし、本年十月落成慶讃の大法要を迎うる
に至る。
 日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、も
って後代の誠証となす。
 正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における
事の戒壇なり。
 即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、
現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこ
れを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。
 然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促
進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし。
 宗門の緇素よろしく此の意義を体し、僧俗一致和衷協力して落成慶讃に
全力を注ぎ、もってその万全を期せられんことを。
 右訓諭す。
   昭和四十七年四月二十八日
                     日蓮正宗管長 細井日達

(3)
注・文末のカッコ数字はページを表してます。
改行は、原文のままです。


第33回創価学会本部総会での御講演
        昭和四十五年五月三日  於 日大講堂

本日、ここに池田会長の就任十周年を迎え、創価学
会第三十三回本部総会が盛大に開かれまして、おめで
とうございます。
 昭和三十五年の本日、この場所で、池田大作先生が
創価学会第三代会長に就任せられてからの十年間に、
わが日蓮正宗に尽くされた功績は非常に大なるもので
あります。
 今、ここで私が、わが宗の概況を数字をもってあげ
てみますと、今よりちょうど六百八十年の昔、正応三
年十月十二日、大石寺が建立せられましたその当時、
南条時光殿が御供養なされました土地、大石が原は、
東西約五百メートル、南北約ニキロにわたる広大なも
のであったといわれています。
 その後、時代の変遷により、寺領に消長がありまし
たけれども、昭和二十年、終戦当時の大石寺の所有地
は、境内地を含めて三十一万八千余坪でありました。

 ところが農地解放により、そのうち二十六万六千余
坪を解放いたしました。解放地の大きいことは、全国
の各宗寺院を通じて最高でございました。解放後、残
った土地は境内地を含めてわずか五万一千余坪となり
たのであります。
 そして、日昇上人、日淳上人の時、十一万五千余坪
を購入して十六万六千余坪となったのでありますが、
昭和三十五年以後の十年間に、池田会長より百万二千
余坪の御供養があり、今では所有地総計百十七万余坪
となっております。終戦当時からみると三倍の広さに
なっているのでございます。
 また、寺院数においては、昭和三十五年以前には百
九十九か寺でありました。現在は三百三十二か寺とな
っており、池田会長御供養による寺院は百三十三か寺
でございます。
 僧侶総数は、昭和三十五年当時は三百三十人でした

           (4)

が、現在は九百人。したがって五百七十人の増であり
ます。
 正宗の信徒総数は八百万世帯になんなんとするとい
われております。かくのごとく、池田会長が就任され
てから十年間のご努力は、わが正宗の広宜流布達成に
非常に意義深いものがあると存じています。
 わが日蓮正宗においては、広宜流布の暁に完成する
戒壇に対して、かつて「国立戒壇」という名称を使
っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世
界の人々を救済するために「一閻浮提(えんぶだい)
第一の本尊此の国に立つ可し」 (御書全集二五四頁)
と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の
仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりませ
ん。
 日本の国教でない仏法に「国立戒壇」などというこ
とはありえないし、そういう名称も不適当であったの
であります。
 明治時代には「国立戒壇」という名称が一般的には
理解しやすかったので、そういう名称を使用したにす
ぎません。明治より前には、そういう名称はなかった
のであります。
 今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招
くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本
宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。
 創価学会においても、かつて「国立戒壇」という名
称を使ったことがありましたが、創価学会は、日蓮正
宗の信徒の集まりでありますから、わが宗で使用した
名称なるゆえに、その”国立″なる名称を使用したに
すぎないと思うのでございます。
 今日、世間の人々が″国立″という名称を、学会が
かつて使用したことについて非難するのは、あたらな
いと思います。
 われわれは、ただ日蓮大聖人の仏法を広宜流布する
にあるのであります。そして、大聖人の仏法を信じた
人々は、本門戒壇の大御本尊を、わが総本山大石寺に
おいて拝し奉り、即座に即身成仏の本懐を遂げること
が最も大切であります。
 その本門の大御本尊は「日蓮が所行は霊鷲山の禀承
(ぼんじょう)に芥爾(けに)計りの相違なき色も替
らぬ寿量品の事の三大事なり」 (御書全集一〇二三
(5)

頁)と仰せられる大聖人の一身のご当体でありますか
ら、本門戒壇の大御本尊安置のところは、すなわち、
事の戒壇であります。
 今まさに、わが大石寺に正本堂が建立中でありま
す。この正本堂が完成すれば、今、奉安殿に安置し奉
る本門戒壇の大御本尊は、正本堂にご遷座申すのであ
りますから、その時は正本堂は本門事の戒壇でありま
す。
 その正本堂は、池田会長の発願と、全信徒八百万の
純信なる日蓮正宗の信徒の浄財による、いわば八百万
民衆の建立であります。
  ″八百万″という数は、実に奇しき数であります。
 ″八百万″とは、昔の日本古来の読み方によりますと
 「やおよろず」であります。「やおよろず」とは″無
 数″を意味するのであります。
 今、われわれ人間は、十界互具、一念三千の法門か
らすれば、一面、天界の神々であるともいえるし、ま
た、仏界の仏でもあるといえるのであります。八百万
民衆の建立による正本堂は、それ故、古来の読み方に
従えば「やおよろず」の神々、諸天善神の建立ともい
えるし、また、十方三世の無数の仏の建立ともいえる
のであります。
 まことに、正本堂こそ、意義深い建物であると信ず
るのでございます。
 されば、わが日蓮正宗の信徒は、御相伝による「此
の処即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山なり、事の寂光
土にして若し是の霊場に一度も諧(もう)でん人は無
始の罪障速やかに消滅す」との御金言を深く信じなけ
ればならないのであります。
 今日、世間の多くの人々は、日蓮正宗の教義の本質
を見極めず、また、創価学会の信心のあり方を曲解
し、種々の非難を会長池田先生の一身に浴びせており
ます。
 池田先生がこれらのいわれなき非難にひたすら耐え
ておる姿を見る時、私は仏道修行のためとはいいなが
ら、実に気の毒でなりません。
 学会の皆さん、一致団結して、この会長を守り、更
にきたるべき十年へ向か。て前進し、広宜流布の大願
を成ぜんことにご精進願いたいのであります。このよ
うにお願いして、本日の私のあいさつといたします。
(6)


『正本堂の意義について』
        昭和四十七年三月二十六日

 唯今、教学部長から「正本堂は一期弘法抄の意義を
含む現時に於ける事の戒壇である」と、定義を公表致
しました。これについて、もう少し詳しく私の見解を
述べてみたいと思うのでございます。
 その解釈は、「正本堂は広宜流布の暁に、一期弘法
抄に於ける本門寺の戒壇たるべき大殿堂である。現在
は未だ謗法の人が多い故に、安置の本門戒壇の大御本
尊は、公開しない。この本門戒壇の大御本尊安置の処
は即ち、事の戒壇である」
 これは先程、昭和四十年二月十六日の私が申しまし
た言葉の意味とピタリと合っておるわけで、それを判
り易く要約すれば、こうなるのでございます。
 このなかの「一期弘法抄の意義を含む」という事に
ついて、もう少し述べたいと思うのでございます。
 先ず、この解釈に当ってニ方面から考えてみたいと
思います。
     
 第一は、世間儀典的。第二は、出世間内患的。
 大体儀典的というのは、儀式礼典と考えて下されば
いいんです。
 先ず、一期弘法抄に、
「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を
建立せらるべきなり」と仰せになっており、
 また、三大秘法抄には、
 「戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して王臣一
同に本門の三秘密の法を持ちて、云云」と、こう説か
れております。
 これを先ず、第一の世間儀典的に考えますと、この
国主とは誰を指すかということが問題になってきてお
るのであります。
 勿論、大聖人様の時代、また大聖人様の御書におい
て、国主とは京都の天皇も指しておりますし、或いは
また、鎌倉幕府の北条家を指しておる場合もございま
            (7)

す。で、今、この国主と申して、三秘抄並びに一期弘法
抄の国主或いは王という言葉は、直ちに日本の天皇陛
下と断定することが出来るでありましょうか。なかな
かそう断定できないはずであります。
 ある人は、三秘抄に「勅宣並に御教書を」という言
葉があるから″天皇〃だと、こう即座に考える人があ
ります。
 しかし、本来、この勅宣という言葉は日本だけの言
葉ではなく、即ち中国から来た言葉で、中国の皇帝に
対して、皆、勅宣という言葉を使うのでありまして、
この勅宣という言葉があるからして、日本の天皇だと
断定することはできないのであります。
 また、大聖人様は「仏勅」とこう申します。仏の言
葉を仏勅と申しております。或は開目抄に宝塔品の三
箇の大衆唱慕のところに第一勅宣という言葉をお使い
になっております。仏の言葉をもっても勅宣という。
必ずしも勅宣という言葉は、日本の天皇陛下だけだ
と、こう断定するのは、ちょっと早すぎるのではない
かと思います。
 又、三秘抄の王という言葉をもって、日本の天皇と
断定しているのは、結局は明治時代、勿論大正、昭和
の初めにかけてもですけれども、国立戒壇という考え
の上から、こういう言葉が出たものと思います。
 ところが、我が宗では真実をいうと、古来から広宣
流布の時の国王は転輪聖王である。しかも転輪聖王の
内の最高の金輪聖王である。金の転輪聖王である。こ
う相伝しておるのでございます。
 皆様、それを忘れておるかも知れませんが、既に昔
からそういうことを相伝しておる。しかし、明治時代
以後、それを忘却しておる人が多くなったのでござい
ます。それ故に、直ちに明治時代に於ては、国立とい
う観念から、この一期弘法抄や三秘抄に於ける王は天
皇だと、こう断定してしまったのであります。
 この考えは、日本が世界を統一するんだという考え
のもとから天皇が転輪聖王だという考えが起ったもの
ではないかと思われるのであります。ところが、御書
を拝しますと、王というのは一国の王というのではな
く、より高次元の意味で使われております。
 北条家に対しては、「僅か小島の主に恐れては閻魔
法王の責めを如何せん」という御書もございます。
(8)

 で、この島の長がどうして一閻浮提広布の時の転輪
聖王といえましょうか。なかなか簡単には云えないと
思うのであります。
 これについて、先程さしあげた――堀猊下が、日恭
上人伝補という、日恭上人の伝を少し書いておりま
す。それにこういうことが出ております。
  「印度の世界創造説は全世界中の各史に勝れて優大
 な結構であり、又其に伴ふて世界に間出す転輪聖王
 の時代と世界と徳力と威力と宝力と眷属との説が又
 頗る雄大であって、其中に期待する大王は未だ吾等
 の知る世界の歴史には出現してをらぬ」
広宣流布の時の大王は未だ出て来ない。
 「唯僅に彼の阿育王が世界の四分の一を領せる鉄輪
 王に擬してあるばかりである。仏教では此四輪王の
 徳力等を菩薩の四十位に対当してあるが、別して大
 聖人は此中の最大の金輪王の出現を広宣流布の時と
 云はれている程に、流溢の広宣は吾人の想像も及ば
 ぬ程の雄大さであるが小膽、躁急の吾人はこれを待
 ちかねて教って小規模に満足せんとしてをる。
 (乃至)
 金輪王には自然の大威徳あって往かず戦はず居なが
 らにして全須弥界四州の国王人民が信伏する。」
と、こう出ております。だから、実際に広宜流布した
暁の、国主が天皇だとか、或いは、我々の人民の支配
者だと、即座に決定するということは難しい。もっと
大きな大理想のもとの転輪聖王を求めておる。
 で教行証御書の終りの方に、三行目に
 「已に地涌の大菩薩・上行出でさせ給いぬ結要の大
 法亦弘まらせ給うべし、日本・漢土・万国の一切衆
 生は金輪聖王の出現の先兆の優曇華に値えるなるべ
 し」
こう説かれております。大聖人様が出現して、いよい
よ広宣流布になる時には、この金輪王が出現するん
だ。その為に、大聖人様がこうしておられるのは、金
輪聖王の出現のためのお祝いの、優曇華の華に値える
が如くであるということをおっしゃ。ております。だか
らこれらを見ても大聖人様の考えは広布の時には金輪
聖王が出現するのである。そして戒壇を建立する。そ
の時には法主は我々の日目上人、一閻浮提の座主日目
上人の出現、ということは、本宗の伝統的相伝であり
(9)

ます。これを皆な忘れて、簡単に三秘抄或いは一期弘
法抄の時の王様は天皇だということをいわれ、それで
又、国立戒壇ということをいっておる。それを今、そ
ういう考えを改めて、昔の仏教の精神に返らなければ
ならないと思うのでありまず。
 で、更にここで今度は第二番目の出世間の内感的に
考えていくと王ということばはどうであるかと、こう
考えていきます。
 そうすると御義口伝に、一番最後の厳王品のところ
には、この「王とは中道なり」と仰せになっておりま
す。又、法門可被申様事に、「仏は一閻浮提第一の賢
王・聖師・賢父なり」と仰せになっております。ここ
に於て仏の言葉を仏勅と申し、勅宣と申されておる。
仏を賢王と申される故であります。
 で、三秘抄・一期弘法抄の戒壇建立について、も
し、世間儀典的な考えを以てするならば、広宣流布が
完成した時には転輪聖王が出現して建立するという事
になる訳で、その金輪聖王は結局譜かといえば、
 御義口伝に、化城喩品の処に、
 「御義口伝に云く、本地身の仏とは此文を習うな
 り、祖とは法界の異名なり、此れは方便品の相性体
 の三如是を祖と云うなり、此の三如是より外に転輪
 聖王之れ無きなり、転輪とは生住異減なり、聖王と
 は心法なり、此の三如是は三世の諸仏の父母なり、
 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は三世
 の諸仏の父母にして、其祖転輪聖王なり。金銀鋼鉄
 とは金は生・銀は白骨にして死なり、銅は老の相・
 鉄は病なり、此れ即ち開示悟入の四仏知見なり、三世
 常恒に生死・生死とめぐるを転輪聖王と云うなり。
 此の転輪聖王出現の時の輪宝とは我等が吐く所の言
 語音声なり。此の音声の輪宝とは南無妙法蓮華経な
 り。爰を以て平等大慧とは云うなり。』
と、こう仰せになっております。即ち結局は金銀鋼鉄
の輪王は、我等大聖人の弟子檀那の南無妙法蓮華経を
唱え奉る者の当体である、というべきであります。
 故に出世間内感的に於ける戒壇建立の相を論ずるな
らば、三秘抄の王法仏法等のお言葉は、大聖人の弟子
檀那の南無妙法蓮華経の信心を離れては存在しないの
であります。
 我等、弟子檀那の末法に南無妙法蓮華経と修行する

(10)

行者の己心にある有徳王、覚徳比丘のその背の王仏冥
合の姿を其のまま以て末法濁悪の未来に移さん時、と
申されたと拝すべきであります。
 三秘抄に有徳王・覚徳比丘とあれば、じゃ有徳王と
か覚徳比丘という人物はいつ出て来たか、又そういう
人と同じ人があるのかといわれる時に、有徳王・覚徳
比丘は涅槃経におけるところの釈尊己心の世界の人物
である。しからば今、末法に於いて、我々大聖人の弟
子檀那が南無妙法蓮華経と唱える、我々の己心におい
ての有徳王・覚徳比丘の王仏冥合の姿こそ、我々の己
心にあると考えなければならないのであります。
 これ実に我々行者の昔の己心の姿を顕わされている
と拝すべきであって、その己心の上に勅宣並に御教書
がありうるのであります。
 即ち、広宣流布の流溢への展開の上に霊山浄土に似
たらん最勝の地、富士山天生ケ原即ち大石ケ原に戒壇
建立があるべきであります。
 故に、今回建立の正本堂こそ、今日における妙法広
布の行者である大聖人の弟子檀那が建立せる一期弘法
抄の意味を含む本門事の戒壇であると申すべきであり
ます。
 又、日寛上人の事・義の戒壇について、もう一重加
えて解釈するならば、寛尊は所化の弟子を教導する為
に、戒壇を事義の二段に別けられ、三大秘法を六義に
別けられて説かれておるのでありますが、詮ずるに六
義は本門戒壇の大御本尊を顕彰するためであって、本
門戒壇の大御本尊は六義の正主である。本門戒壇の大
御本尊を顕わさんがために、六義に立て分けて説明せ
られたのに過ぎない。たとえば、曽谷殿御返事(新定二
〇〇一)に、「法華経は五味の主の如し」と仰せになっ
ております。乳味、酪味、生蘇味等のその五味の主で
あると申されておる。これは、五味は一代聖教で一代
聖教は法華経を説き表すので、一代聖教を説く主眼は
法華経である。故に法華経は五味の中ではなく、五味
の主体であるとの意味でございます。
 今、この言葉を転用して本門戒壇の大御本尊安置の
処を事の戒壇と申すは、六義を超越した所謂独一円妙
の事の戒壇であるからであります。
 「正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時に於ける
事の戒壇である」と宣言する次第でございます。
(11)

『戒壇についての補足』
 学林研究科 昭和四十九年六月十八日  於 大講堂

 今迄、一時間にわたって、教学部長が、戒壇のこと
を縷々述べられまして、大体おわかりのことと思って
おります。
 以前二・三年、もう四年くらいになるでしょうけれ
ども、戒壇のことはいろいろ論じて、そのつど述べて
きましたから、それをまとめれば、全て皆様にもはっ
きりおわかりのことと思います。
 今、教学部長が述べられたことを、総括的に、私は
もう一遍述べてみたいと思います。それはただ、従
来、私が述べてきたことを、同じことを概略申すだけ
のことでございますが、これはわかり易く、今、この
戒壇についての御書を引用して、皆様は今、ここに御
書がないから、印刷して差上げたのでございます。
 先ず戒壇ということの出てくることの根本は、三大
秘法抄にはっきり出ております。
 三大秘法抄に曰く「戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法
王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」
(新定二二八三)
即ち、みな先程の王法仏法ということに、また王臣
一同、共に三秘密、三大秘法を信行し奉らなければだ
めなんだ。
 信行し奉って、そしてその姿が、王法は仏法を守
り、仏法王法に冥ずると。で、涅槃経に説くところの
有徳王覚徳比丘のその姿を末法の濁悪の未来に移す。
今の末法の時代に移す。さらに、また、これをのべ
て、広宣流布への姿に於いて、その時、
 「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立
す可き者か」
 これについて、今迄のある一部の人も、国立戒壇と
いうことを言っております。
 それは、ここに、戒壇堂という建物を造るというこ
とが頭にあるからであります。みな、そう思っちゃう
(12)

のです。「戒壇を建立すべし』と、こうなっておりま
す故です。この建立という言葉が、建物を建てると、
こう決まっているものではない。戒壇の御本尊を、安
置することであります。最勝の地をえらんで。即ち、
その前に、三大秘法を論ずるときに、本尊論に、「寿
量品に建立する所の本尊は」と、説かれております。
 別に、寿量品を以って、本尊を建築的に建てるとい
うことではない。寿量品に説かれているという意味な
のです。
 また、大聖人は、(新定九七五)
 「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つ」と、仰しゃ
っている。じゃ、御本尊という建物を建てるのかとい
うと、そうじゃないです。御本尊を建立遊ばされてい
ることは、御本尊を書写し、ここに顕わすということ
なのです。我々が、常に言うでしょう。
 「御本尊建立遊ばさる」と、戒壇の御本尊建立とい
うのは、決して建物を建てるという意味ではない。こ
こで言う、戒壇を説明せられておるのは、この戒壇
は、やはり先程の教学部長の最後に述べられた、この
戒壇の本尊の一体に於いて、三秘相即しておる、三秘
が具わっているところの戒壇の御本尊である。
 それをいちいち取り出して、これは本尊で、この題
目を唱えればいいんだ、と言うのではない。
 お題目即御本尊である。戒壇即御本尊である。が、
故に一大法であり、一大事であり、一大秘法でありま
す。
 これが、本宗の信仰の大切なところであります。御本
尊中心である。一大秘法、その御本尊に依って題目も
備わるのであります。
 御本尊の安置したところに於いて、三帰戒を受けよ
うが、お題目を唱えようが、自授受戒であろうが、み
んな御本尊のもとで行なわれるんです。
 これを、ただ、戒壇堂を建立するからして、広宣流
布の時に、有徳王が来なくちゃいけない、天皇が来な
くちゃいけないなどと、論ずべきではないと思いま
す。
 先程、世間出世間の話もありましたが、その通りで
あって、世間的に言おうが、出世間的に言おうが、戒
壇の御本尊を安置したところが、即、戒壇の霊地であ
ります。それを考えなければならない。「時を待つべ
(13)

きのみ」 (新定二六八七)
 そういうふうな広広宣流布の、広宣流布と言っても、
絶対の広宣流布とはいかなくても、その時代の広宣流
布に於いて、そういう勝地をえらんで、戒壇の御本尊
を安置して本門の題目を唱えることが事の戒法であ
ります。
 本門戒壇の御本尊を信心して、成仏得脱の道を遂げ
る。これが、事の戒法であります。事の戒壇堂など書
いてありません。事の戒法であります。「三国並に一
閻浮提の人・懺悔滅罪する戒法」であります。
 その戒壇の御本尊様に於いて、みな懺悔滅罪して、
即身成仏の本懐を遂げるということが、最も大切なこ
とであります。「大梵天王・帝釈等も来下して」これ
も、私の解釈では、出世間的に考えれば、我々の一心
であるということを、前に述べたと思います。
 あるいは外相的に、姿を以って天上から大梵天王
が、下がって来てもよろしい。「大梵天王・帝釈等も
来下して」踏み給う、即ち未て、「踏給うべき戒壇」
であります。ここにまた、意義があるでしょう。踏給
うだから戒壇堂を造って、そこに行って戒を受けな
ければならんというような考えだから、国立戒壇だと
か、事とか、理とかの戒壇だとか、建物にばかり執着
するのであります。
 この踏ということは、足で踏むという意味だけでは
ありません。参る、参詣するという意味があり、進む
という意味があるのです。
 だから、大梵天王・帝釈等も来下して、参詣し奉る
本門戒壇の御本尊であります。
 御本尊の本に参詣するという大きな心からお説きに
なった戒壇の意義であって戒壇堂を述べられているの
ではありません。
 だからここでは、その次ですね。
 この三大秘法に於いては、まず最勝の地と言われ
て、そのとこだと言うことを説かれていない。
 そこで、富士一跡門徒存知之事に、先師はまだ所を
言わなかった。
 そこで、日興上人が、(聖典五四二)
 「駿河国・富士山は是れ日本第一の名山なり、最も
此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ」
 この名勝の地に、最勝の地に、本門寺をお建てにな
(14)

ったらよろしゅうございましょうと、申し上げた。
 そこでですね、一期弘法抄ができたんでしょう。
 三大秘法抄は、弘安五年卯月八日。それに対して、
弘安五年九月、大聖人は、一期弘法抄を説かれて、
 (新定二六八七)
  「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本
門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらる
れば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」
 本門寺を建立する。本門寺の中に戒壇の御本尊を安
置するってことであります。
 この建立ということは、本門寺を建立するというこ
とで、別に国立戒壇という戒壇堂を建てるなど決して
仰しゃってない。
 本門寺を建立するので、その本門寺は何かという
と、百六箇抄に、(新定二七一三)
  「三箇の秘法建立の勝地は、富士山本門寺本堂な
り」と、仰しゃっています。
 これも、前々からさんざん申しておりますが、みん
な忘れているかもしれませんから、申し上げるんだ
が、なにも、本門寺の本堂なりと、はっきり書いてあ
るのに、本門寺本堂の上に戒壇堂を造る必要がないで
しょう。即ち、三大秘法建立と書いてあるでしょう。
建立、即ち安置なんです。
 それは、本門寺、富士山本門寺の本堂であるので
す。だから、富士山本門寺の本堂に本門戒壇の御本尊
を安置奉ることが、事の戒壇であります。
 また、その日興上人は、日目上人への日興跡条条之
事に、(聖典六五八)
 「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本
尊」即ち、戒壇の大御本尊、
 「日目に之れを相伝す、本門寺に懸け奉るべし」
 とある。
 戒壇堂に建てろなんて仰しゃっていません。
 本門寺に懸け奉るべし、これを、ある曲解者が、懸
け奉ってあるんだから、それは、板ではいけないん
だ。紙であるはずだ。
 どっかに紙の御本尊、戒壇の紙の御本尊があるだろ
う。
 北山本門寺にあるんじゃないかと言うけれども、言
葉にとらわれて、くだらない解釈しちゃ大変なことで
(15)

あります。
 それならば、ある富士山を詠っておる詩に、
   白扇 逆しまにかかる 東海の天
 という言葉がある。富士山が、逆さまに空にかかっ
ていたら大変じゃないですか。大地にしっかり根をお
ろしてあるところの富士山、これをかかると言ってお
る。
 今、戒壇の御本尊が、本門寺に懸け奉るというても
即ち安置し奉る、建立し奉る。という意味で、少しも
変ってないのであります。
 だからそれが、また、一跡門徒に於いて、(聖典五
四二)
  「仍って広宣流布の時至り、国主此の法門を用いら
るるの時必ず富士山に立てらるべきなり」
 即ち、それは本門寺のことであります。
 その前に、
 「最も此の砌に於いて本門寺を建立すべき由・奏聞
し畢んぬ」
 この本門寺を、広宣流布の時至り、国主この法を建
てらるるの時、即ち一国の主権者が信心した時は、必ず
富士山に本門寺を建立すべきなりと仰しゃっている。
 今、大石寺がここにある。これ即ち、本門寺の前身
であります。
 もし、もっと広宣流布して、みんな本門寺と称する
ならば、それが本門寺である。
 戒壇の御本尊のまします所はいずくいず方でも、事
の戒壇であります。
 先程、教学部長が最後に述べられた通り、戒壇の御
本尊、即ち日寛上人が、
  「戒壇の根元とは、この御本尊ましますが故なり」
と仰しゃっている。
 この御本尊まします所は、事の戒壇である。
 それを忘れて、ただ天皇が建てるとか、誰が建てる
とか言、て論争をしても、それは不毛の論でありま
す。よろしく我々は、今、大石寺に安置し奉る所の戒
壇の大御本尊こそ、事の戒壇の御本尊であり、即ち、
事の戒壇であります。
 そこに参詣する者は即ち、即身成仏の本懐を遂げる
のであります。
 御相伝に、戒壇の御本尊まします所は、即ち、事の
(16)


寂光土、事の戒壇であると。
 御相伝と言うと、みんな書き物がなくて、ただ聞い
て教わると思ってるかもしれないけれども、御開帳
の御説法であります。
 明らかに、戒壇の大御本尊まします所は、事の戒
壇、事の寂光土であります。
 ここに詣でる族(やから)は、全てみな久遠の昔からの罪障消
滅し、即身成仏の本懐を遂げる所で、これこそ事の戒
壇でなくして、なんでしょうか。
 じゃ、建物が国立っていう、誰か偉い人が、建てて
くれなければ、そこへお参りしてもさっぱり御利益が
ないのか、と言うような考えでは、仕方がない。
 建物なんかどうでもいいんです。
 戒壇の大御本尊こそ我々の即身成仏の本懐の場所で
ある。
 これが、正宗の信心である。正宗の皆帰である。
我々のモットーである。
 どうぞ皆様、深く考えて、そういう論争に迷わされ
ず、戒壇の御本尊まします所は、即ち、事の戒壇であ
るということを、深く心に留められて、行学に励まれ
んことをお願い致します。
(17)


『法華講青年部お目通りの際の御説法』     
             昭和五十年七月五日

法華講の皆さんが妙縁寺関係の方々を中心に団結し
て私を初め我が宗門を誹謗する元妙信講の者達と戦っ
ておられることを聞いて本当にうれしく思います。
 この数年間、いろいろな出来事もありましたが、と
にかく元妙信講の一件ほど不愉快かつ迷惑なことは他
にありません。又、本宗七百年の歴史の間、魔がつけ
入らんとしていく度か異流義も出ましたが、しかし元
妙信講ほど無体な、そして卑劣なものは例を見ないと
思うのであります。
 およそ人たるもの、自分の信念を述べるに当って、
あくまで自分の意見として公にすべきであると思うの
であります。宗門の公式見解はこうなっておるが、自
分の意見はこうであるというように、正々堂々と述べ
るべきであります。ところが浅井昭衛は、法主である
私の名前を利用し、”私が浅井父子だけに内意を打明
けた”と宣伝しておるのであります。浅井個人の考え
に、私の考えであるというレッテルを張られては、私
としてはたまったものではありません。しかもその内
容が私が公の席で、手続をふんだ上でそれこそ何度も
何度も口がすっぱくなるほど繰り返し言明した旨と正
反対であるというのですからなおさら許せません。云
うなれば、私がうその訓諭や説法をして全世界の人々
をあざむいているということになってしまいます。そ
んなことがあるはずのないことは常識ある方々には、
すぐわかってもらえると思います。仮に私が本心を打
明けるにしても、よりによって講頭父子にすぎぬ浅井
ごときまったく信用の置けない人物に打明けようはず
のないことは自明の道理でありましょう。
 しかしながら、元妙信講の中で今なお浅井について
おる人々はどうも洗脳されて頭がおかしくなっておる
らしい。普段から寺院と切りはなされて浅井の言うこ
とが私の言うことだときかされていたためか、今にな
           (18)

っても正しいチャンネルの切りかえができないらし
く、浅井の荒唐無稽な話を信じてさわいでおるから困
ったものであります。
 私も法主という立場上、総本山に種々のしきたりが
あり、みだりに人と会うことも難しい地位にありま
す。そのことを利用して何も知らない人達を”国立戒
壇こそ法主の内意である″などとあざむくことは卑劣
この上ないやり方であり、宗門史上かつてない猊座に
対する冒涜であると思うのであります。ことは私の名
誉にもかかわることであり放置しておけば宗内のみな
らず世間までさわがせる結果になりかねませんので私
は断固たる措置をとります。とともに、今日、ここに見
えられた皆さんは私から直接聞いたことの証人となっ
て多くの人に今日の話を伝えて下さい。
 浅井昭衛のいう内意云々はまったくの虚言であり、
訓諭及び説法以外に私の真意はないことを、元妙信講
の人々にもはっきり伝えて下さい。それでもなお迷い
からさめず、ぐずぐず云うなら、それは本人の自由
で、もはやこちらの関与するところではありません。
法主の指南がきけず、浅井の指南を聞こうというそう
いう人は、もはや本宗の信徒と認めるわけにはまいり
ません。その旨、はっきり伝えていただきたいのであ
ります。
 私には法主として、宗開両祖以来連綿たる法門を厳
然と守り、かつ一千六百万信徒の信仰を安穏ならしめ
る責務があります。その上で仏法のもとにあらゆる
人々を平等に待遇し、一人残らず成仏することを毎日
祈念いたしております。
 今、冷静に考えますとき、浅井昭衛という男も、迷
える哀れな人物であるがさればといってその狂気じみ
た妄想のために清浄なる法灯と一千六百万信徒を犠牲
にするわけには断じてまいりません。故に私は公平無
私な立場で断固たる措置をとりました。だれはばかる
ところのない私自身の判断であり、それが正しか。た
ことは時がたてばたつほど確信を持って来ておりま
す。浅井らはこれを怨んで私に対していろいろと云っ
ておるようであります。私が信徒の圧力で云うことも
云えない臆病な法主であるとか何とか、とにかく失礼
千万なことを、こともあろうに″法主を守る″と称し
て云っているのであります。
(19)

 私は法主の座について以来の方針として、現在の時
代性にかんがみ信心の道をふみはずさぬかぎり信徒の
自主性を重んじ、伸び伸びと信行にはげまれるよう心
がけてきました。信者の方々の意見にもできるかぎり
耳をかたむけるよう努力してきました。ただし仏法に
もそむくと思われるときは、ささいなことでも一つ一
つはっきりと指摘してきております。相手がだれであ
ろうと、法主として云うべきこと、なすべきことは一
つとしてゆるがせにしておらず、宗門の権威は少しも
きずつけることなく次へゆずるつもりでおります。
 とかく宗内の混乱は、その立場・資格にないものが
 ″相伝を受けた、内容を知。ている″とか″法主から
特別の使命を与えられた″と主張するところからおこ
り、何も知らない信者が付和雷同して大きくなってい
くものであります。こういうことをいい出す人には、
必ず何らかの野心か下心があることは、過去の実例が
証明しております。
 とにかく宗門のことは、他の人をたのむ必要は何も
ありません。私は、必要なことは全部自分でします
し、自分の意見は自分で云います。よけいなおせっか
いは無用であります。皆さん方には私がだれの指図で
もない自分で云っていることはよくおわかりいただけ
ると思います。又、一人の信者に差別して特別のこと
を云ったり、使命を与えるようなことをするはずがな
いではありませんか。


御遺命の戒壇について

 御遺命の戒壇について、浅井らは、執ように″国立戒
壇、国立戒壇″とくりかえしております。戒壇につい
ての私ならびに本宗の見解は、訓諭をはじめとして既
に何回も公にしたとおりであります。大聖人の仰せは
本門事の戒壇である。本宗相伝の戒壇の御説法に「弘
安二年の大御本尊とは即ち此の本門戒壇の大御本尊の
御事なり―中略―本門戒壇建立の勝地は当地富士山な
る事疑なし、又其の本堂に安置し奉る大御本尊は今眼
前に在すことなれば此の所即ち是れ本門事の戒壇真の
霊山、事の寂光土云云」と、常に説き示されて居る如
く、本門事の戒壇の御本尊在す所が本門事の戒壇で誰
が建てたからと云う理由で事の戒壇となるのではあり
(20)

ません。このことは既に数年前から私が申し述べてい
る所であります。
 右のことは日寛上人の三大秘法御説法を日相上人が
科段に分けた御文を参考、ここに添付します。
 浅井らは何ら教義上の反ばくもなく、ただ先師がど
うの、私が昔云ったのと云うだけであります。私は、
昔云ったことはあるが、今は云わないと云、ておるの
であります。
 私の信念は不動であります。未来永遠にわたり、国
立ということはなかろうと確信しておるからでありま
す。
 浅井らは、人のやることに干渉せず、自分達の力
で、やれるものならやってみればよいと思うのであり
ます。但し、国立というのは本宗の教義ではないの
で、元妙信講が日蓮正宗と名乗ることだけは、今日限
りやめてもらいたいのです。法律がどうのこうのとい
う問題とは別の次元で、管長として、法主として、も
はや日蓮正宗信徒でないものが、日蓮正宗という名称
を使うことを止めよと命ずるのであります。

松本日仁、八木直道について

 二人の僧侶が、浅井らに紛動され浅井に顎使されて
いることは誠に残念であります。松本、八木等が浅井
の所に行かないように私をはじめ関係者で何回となく
説得し、道を誤まらせまいと思って忠告をかさねまし
た。
 しかし結局彼らは「自分の信念で行動する」「元妙
信講と運命を共にする」 「濱斥覚悟である」と言うも
のですから、宗教に生きる身として自己の信念に殉ず
るは止むを得ずと思い、彼らの望むとおり濱斥処分に
付したのであります。彼らの言うことが本当ならむし
ろ本望であったろうと思うのであります。
 ところが二人とも今にな。て、濱斥処分が重すぎる
とか、自分達は元妙信講とは別である、などと卑怯未
練ないつわりごとを申し立てて訴訟ざたに及んでいる
のであります。
 八木の如きは最近では月一万円の衣鉢費がなければ
食。ていけない、などと泣きついておる始末です。ま
ことに僧侶の風上におけぬはおろか、人間としてもど
(21)

うかと思われるのであります。多勢の人で成立ってお
る宗門において、一時の気まぐれや、わがままは許さ
れません。かりそめにも、法衣を身につけていた者で
あれば、も。と正々堂々と男らしい出処進退を心がけ
てもらいたいものであります。
 第一線で戦っておられる皆さんが確信をもって行動
できますよう以上の如く私の胸中をお話ししました。
 元妙信講らは、何かと云えば暴力をちらつかせ、正
しいことを云っていさめる者に対しては集団で毎夜い
やがらせに押しかけたり、個人攻撃をするということ
であります。大望をロにするにしては、まことにふさ
わしくない愚劣な手口でありますが、皆様におかれま
しては一歩もひくことなく、厳然と戦われんことを期
待いたします。
 「百の言葉より一つの実行」という言葉がありま
す。日頃、正義感をロにし、論議を盛んにする人も、
いざというとき」日和見しては何もなりません。いざ
というとき一身を挺して事に当る人こそ真の仏弟子で
あろうと思うのであります。その意味で、皆様の振舞
はまことに貴いものであります。
 私のもっとも信頼する法華講の皆さん、どうぞよろ
しくお願い致します。

『戒 壇 に つ い て』
             昭和五十年八月二十九日

 今日は、百六箇抄の脱益並に種脱の戒壇について述
べたいと思います。

三十九
脱益の説所と戒壇の本迹

(事戒)  (理戒)
 霊山は本・天台山は迹・久遠と末法とは事行の戒
 ・事戒・理戒・今日と像法とは理の戒躰なり。
  (御書全集八五九ページ)
 これは、霊山は事戒、叡山は理戒としております。
こり説所、説とは弘通なり、所とは三国に渡って名勝
            (22)

の地、これは昔から言われますね。方向は王城の丑虎
のこと。
 即ち、上野抄に
 仏法の住処・鬼門の方に三国ともにたつなリ
(御書全集一五五八ページ)
ということが、弘安二年四月二十日の御書に出ており
ます。
 だから、この脱益の説所、仏法を説く所、即ち、名
勝はいいところ、場所はいいところ、名勝の地であ
り、ここでは脱益であるから、弘通所である。
 この丑寅というところは、王城からみて、霊鷲山は
丑寅。戒は、天台山は丑寅。叡山も京都からみて丑
寅。本山も丑寅。今、王城が東京にあれば、東京の裏
鬼門ということになりますね。通の鬼門。どちらにし
ても、こういう丑寅ということを方向づけられておる
のであります。
 これはもちろん脱益の方ですから、霊鷲山が事戒で
ある。本である。叡山は迹である。理戒で迹。久遠と
末法とは、事行の戒、事戒。理戒。これはもう決って
いますね。釈尊時代と像法とは理の戒体である。
 
四十三
 下種の弘通の戒壇実勝の本迹
  三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり。
  (上行院は祖師堂云云 弘通所は総じて院号なる
  べし云云) (御書全集八六七ページ)
 『下種の弘通』即ち、総じては、三大秘法の弘通であ
り、別しては事行の戒体の戒壇である。ここでは、脱
益の題には説所といっている。下種の題には弘通とい
う。題に実勝という。
『戒壇の実勝の本迹』ここでは、説所に対して、この
下種の題に弘通というのは、下種の大法を弘めるから
こういうのであり、それだから、ここでは実勝という
のである。
『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なリ』
三箇の秘法、即ち、三大秘法の本尊を安置するところ
は、富士山本門寺の本堂なりと。ここれが一番先に出て
くる最も古い文献における場所ですね。戒壇の本尊の
住所をお示しになっておるところです。
 『上行院は祖師堂なるべし』これは迹ですね。本門寺
(23)

本堂が本となり、上行院は迹となる。だからこれは祖
師堂なり。
 それから、上行院はどうして祖師堂というのか。こ
れが問題ですね。これは涌出品の
  一を上行と名づけ、二を無辺行と名づけ、三を浄
  行と名づけ、四を安立行と名づく。是の四菩薩、
  其の衆中に於いて、最も為れ上首唱導の師なり。
   (大石寺版「妙法蓮華経並開結」四七六ページ)
 ここからくるわけですね。「上首唱導の師なり」故
に、宗祖より代々を安置する堂を上行院というわけで
す。本堂と違うわけです。だからこれは迹になる。
 本門寺の本堂には三大秘法の本尊、即ち、戒壇の本
尊を安置するが故にこれを本とし、その宗祖以下代々
を安置するところを祖師堂といい、これは迹である。
 次に『弘通所は総じて院号なるべし』この院号とい
うのは、これをよく間違えて、「寺は皆何々院としな
ければならない」というようなことを言う人もありま
す。けれども、それはそうではないのです。ここでい
う院号というのは、本門寺以外の名前ならいいわけで
す。本門寺はいけないというのです。本門寺以外の
名前は、例え寺といおうが、何といおうが差支えな
い。だから、この弘適所とは、即ち、「三箇の秘法の
弘通所は、総じて院号なるべし」本門寺以外の名称の
寺である。故に本門寺本堂と上行院とは本となり、弘
通所は迹となる。ここではそうなるわけです、二重
に。本門寺本堂が本であり、上行院は迹である。とこ
ろが今度は、本門寺本堂と上行院は本であり、弘通所
・末寺の弘通所は迹となる。こういうわけである。
 三大秘法抄に
 戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一
  同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘
  の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に
  御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地
  を尋ねて戒壇を建立す可き者か(御書全集一〇二二ページ)
 この「勅宣並に御教書を申し下して」というところ
で、妙信講は、国立ということにこだわって、いくら
言っても聞かない。即ちこれは、有徳王、覚徳比丘の
(24)

涅槃経の故事を引かれておるので、前々もって、何回
も、この問題は述べておりますが、ここで再び申しま
すれば、所謂釈尊である。「有徳王とは我が身これな
リ」と、はっきりおっしゃっておる。又、「覚徳比丘
とは迦葉仏なり」とはっきりおっしゃっております。
その仏たちが、再び姿を変えてこの仏法をお守りす
る、ということを、説き現わされております。唯ここ
でいうところの勅宣・御教書ということばにとらわれ
ているのです。
 ところが大聖人は、勅宣は常に仏のことばにおいて
勅宣とおっしゃっておる。或は鳳詔ともおっしゃって
おります。もちろんその国の時の国主のことばを勅宣
とも申しております。或は、幕府のことばを御教書と
も申しておりますが、それだけではないもっと大きな
意味の勅宣です。もちろんここで言えば、有徳王覚徳
比丘の其乃往の王、即ち、我が身これなりと、釈尊自
らの心において建立するところの戒壇ということにな
ってくるわけです。
もちろんこの勅宣とか、御教書とかいうことばに対
して、これは三大秘法抄に最も近い一期弘法抄におい

 国主此の法を立てらるれぱ富士山に本門寺の戒壇
  を建立せらるべきなリ(御書全集一六〇〇ページ)
「此の法を立てらるれば」即ち信心をして、信心を立
っていけばという意味です。何も戒壇を建立してやろ
う、国立において戒壇を建立するという意味ではな
い。三大秘法抄、一期弘法抄において、国立戒壇がは
っきりしているなんていうけれども、少しもそういう
ことは説いていないのです。
「国主此の法を立てらるれぱ」即ち、この信心をして
いく時、即ち、広宣流布の姿を説かれておるのであり
ます。その時は、即ち、この百六箇抄において、『三
箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり』と、
ここで、はっきりとお示しになっておる。
 もしここに、三箇の秘法建立の勝地は国立の富士山
本門寺だ、本堂だと書いてあるならば、それは仕方無
いけれども、そんなことはちっとも無い。
 又、この次の時代では、富士一跡門徒存知事にお説
きになっておる。
(25)


 広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時
  は必ず富士山に立てらるべきなり。(御言全集一
  六〇七ページ)
 「此の法門を用いらるるの時」即ち、この法を信心せ
られた時は、戒壇を建立する。その戒壇は富士山に建
てる。一跡門徒ですから、日興上人が御弟子に書かせ
たのですから、はっきりわかっておる。この時にも、
決して国立ということばは、少しもお使いにな。てお
りません。
 この戒壇を建立するということにおいて、国主の勅
宣とか御教書を頂戴するということは、これは許可を
得るということであります。
 なるほど平安朝時代においては、大きな寺は勅宣を
得て建った。しかし、勅宣を得て建ったといっても、国
立ではないのです。何回も何回も申し上げております。
 叡山の戒壇、即ち、今から言えば理の戒壇、これは
伝教大師の本来からの心である。それが申々許可にな
らない。即ち、南都の六宗とか、あらゆる謗法に対す
るために、叡山の戒壇も出来なかった。しかし伝散大
師が亡くなられたその時に、僅か一週間ばかりの間
に、今度は勅宣があったのである。義真の時に、嵯峨
天皇の勅宣を得た。これは勅宣を得たと言っても、援
助を与えられたのであって、必ずしも天皇が特別に国
家として、国立戒壇をお造りになったという意味では
ない。
 又、その後、この前にも申し上げたけれども、後、
三井寺、園城寺の方で、叡山の戒壇へ行くのがいや
で、ずっと後になってから、戒壇を造っております。
この時も勅宣を得て造っておる。決して国立等という
ことではない。
 太古においては、ことばは勅宣である。ところが幕
府時代においては、今度は許可。幕府の許可を得る。
大きな寺は皆そうです。徳川時代でも大きな寺を建て
ようとする時は、皆それぞれ幕府の許可を得て建てる
のです。
 或は、現在においても建築というものは、建築許可を
得なければならない。古今同一である。敢て国立でなけ
ればならんということは少しもないのでございます。
 これについて、戒法ということを、少々申し上げた
いと思います。三大秘法抄において
(26)

 事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人
  ・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も
  来下して踏給うべき戒壇なり。 (御書全集一〇二
  二ページ)
 この戒壇における戒法ですね。戒には四つあるわけ
でしょう。戒の四科といいましょうか。一に戒法。二
に戒体。三に戒行。四に戒相。こうあるわけです。こ
れが叡山と大聖人の戒壇とでは大きな異りがありま
す。伝教大師の時の比叡山の戒壇と、大聖人のそれと
の違いにおいて、理と事の違いがあるわけですね。こ
れは伝教大師は大乗菩薩戒。だから、即ち、これは梵
網経によるわけです。戒法は梵網経の戒法。即ち、戒
法というのは、今皆さんは御本尊を頭上に頂かして式
をします。その法ですね。その戒法は、梵網経によ
る。そして、その体は梵網菩薩戒、梵網の菩薩戒であ
る。それから、行は大乗の菩薩行、菩薩のための修行
である。菩薩行です。戒相は大乗の菩薩。

一、戒法―梵網経。
二、戒体―梵網菩薩戒。
三、戒行―大乗菩薩行。
四、戒相―大乗の菩薩。


 
これに対して大聖人は、
  一、戒法―久遠名字の本法の南無妙法蓮華経。
  二、戒体―当体蓮華の南無妙法蓮華経。
  三、戒行―寿量文底の南無妙法蓮華経。
  四、戒相―名字凡夫の当体蓮華仏。
 
こういうことになるわけですね。だから、伝教大師
は大乗菩薩戒ですから、即ち、理戒。大聖人、所謂本
門事の戒法。こういうことに、はっきり分かれるわけ
です。三大秘法に説くところの戒法ということばはで
すね。
 勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん
  最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ
  可きのみ事の戒法と申すは是なり。(御書全集一
  〇二二ページ)
 この事の戒壇において、南無妙法蓮華経と唱え、南
無妙法蓮華経と唱えるということは修行ですから、唱
えて、そして、当体蓮華を証得する。これが所謂事の
(27)

戒壇である。
 伝教の方は、唯菩薩としての修行をする、だから大
乗菩薩僧です。大乗の菩薩の僧となるわけです。この
事の戒壇からいけば、即ち、当体蓮華仏、名字凡夫即
当体蓮華仏、共に事と理の違いがは、きりとしている
わけです。
 だから、その中心は、南無妙法蓮華経の本尊、即
ち、戒壇の本尊を中心として、戒壇の本尊は即ち三大
秘法の本尊であるから、本尊のまします所において、
真実にそこにおいて南無妙法蓮華経を修行し、南無妙
法蓮華経の修行によって、信心修行によって、当体蓮
華仏となる。それが事の戒壇である。
 決して、建物を如何と論ずるのではない。そういう
事の戒壇を生ずるためには、皆広宣流布をする。国主
はじめ、全ての人が信心して、その戒壇を踏たてまつ
る。それが事の戒法であり、その場所が事の戒壇であ
ります。
 決して国立であるからどうというのではない。この
国主ということについては、時代によって、考えが違
ってきております。現代は、現代の国主において、考
えていかなければならないわけであります。
 戒壇の大御本尊は、広宣流布の根元とも、本門戒壇
の根元とも申し上げられるので、戒壇の御本尊ましま
す所が、即ち、本門事の戒壇であります。
 今日は、今の時局的な問題に対する事柄を少々、中
し上げました。

寛師二百五十遠忌大法要での御説法
            昭和五十年九月二十六日

 今回、日寛上人二百五十遠忌にあたりまして、宗門
といたしまして大法要を執行いたしましたるところ、
法華講総講頭、創価学会会長池田先生が参詣せられ、
      
また学会代表者、法華講代表者、みな御参詣ください
まして日寛上人の御報恩謝徳ができましたことを厚く
お礼申します。
             (28)

 日寛上人は、本宗に起きまして中興の祖と申し上げ
るお一人でございます。まず宗門では、日有上人(第
九世)とこの日寛上人を中興の祖と昔からあがめてお
るのでございます。日有上人は信行学のうちの信と行
を中心として、全国を布教せられた方でございます。
その残された書物というものはほとんど見当たりませ
んけれども、この日有上人の述べられたことは「化儀
抄」百二十一ケ条――。南条日住という人が書きとめ
られたのと、そのほか本是院日叶とかいう方々が、日
有上人の説法を聞かれて書きとめられたのが残ってお
るのでございます。
 この日寛上人は信行学のうちの、もちろん信行は当
然でありますが、学を中心とせられて宗門の行学の中
心をなされ、富士の教学の復興をし大成をせられた上
人として、我々はあがめ奉っておるのでございます。
幸いにして今回、二百五十年、ちょうど一昨日の秋の
彼岸の中日がこの日寛上人の御正当の当日にあたるの
でありました。きょうは旧暦の八月二十一日でござい
ますから、十九日が日寛上人の御正当の日でございま
す。
 幸いにして天気もよく大ぜい御参詣あって宗門もい
よいよ学会の力や得、あるいは法や講の援助を得て、
かくのごとく盛大になってきたことを私は常々、感謝
をもってありがたく存じておる次第でございます。
 日寛上人のことにつきまして今回、教学部で「日寛
上人伝」を細かく作って、きょうの記念として、あす
皆さまに差し上げることになっております。
 それにつきまして、今まで日寛上人は上州の館林
に、八月八日のお生まれということになっております
けれども、今回、日寛上人が御入滅なる十日ないし十
五日ぐらい前にお書きになった「口上書」というもの
が学林の図書館から見つかりました。それはお弟子の
日因上人がお写しになったのでございます。それによ
りますと、寛文五年乙巳八月七日ということでありま
して、またお生まれになったのは、厩橋、今の前橋。
前橋の酒井雅楽頭の家中だということに、はっきり決
定いたしました次第でございます。
 それは「口上書」にお書きになっておることをもっ
て、なおすのでございます。これは「口上書」では寛
文六年となって乙巳とな。ていますが、乙巳は五年の
(29)

間違いでございます。それは寛師が六年と書いたの
は、この乙已からいけば明らかに五年の間違いという
ことははっきりしております。だから寛文五年八月七
日にお生まれになっておるということは明らかでござ
います。
 日寛上人のことにつきまして、日寛上人がこの「報
恩抄文段」にこの富士天生原に戒壇を建立するという
ことがございます。それをもって、ある人は日寛上人
が国立戒壇を思っておるのだというふうに、考えてお
る人がございます。そういうことはちっともないので
ございまして、富士山天生原というのは今日、あそこ
に見える天母山と違うのでございます。そのずっと前
に第九世日有上人の末期になって、本是院日叶という
方が大石寺へまいりまして、日有上人のいろいろ説法
を聞かれ近所を歩いたのでございます。この方がはじ
めて天生原、富士山のふもとの天生原に六万坊を建て
るということを、理想とせられた言葉が残っておりま
す。
 そののち、またそれから百年ばかりのち、今から四
百年以上前ですが、日寛上人よりも百五十年ほど前に
なりますか、京都要法寺の出の日辰という人がこの富
士へまいりまして、この方は北山の本門寺を中心とし
てニ回ぐらいきております。長い間、そこにおりまし
て、東の天母山に登って、ここが戒壇の霊地である。
富士は戒壇の霊地ということは昔から富士系の人々は
考えておりまして、ただその場所の選定ということに
おいて、天生原である。あるいはこの日辰という人は
天母山であるということの違いがあるのでございま
す。
 天母山と天生原とは大変意味が違うのでございまし
て、わが大石寺の派においては天生原で、向こうの北
山系においては天母山という違いがございます。これ
は過日、昭和四十五年六月、この天生原について(大
石ケ原と天生原についての)私の一考察を発表してお
ります。それをご覧になると分かると思います。これ
はもっとはっきりいえば、「富士一跡門徒存知の事」
に「駿河の国・富士山は広博の地なり一には扶桑国な
り二には四神相応の勝地なり」とございます。四神相
応というのは、北は玄武、東は青竜、南は朱雀、西は
白虎という名前において、これはもと天の星からきた
(30)

そうでございますが、こういう風景の地がなくてはな
らない。天母山にはそういう血がないのである。わず
か小さな山であって、東には川が流れておりません。
青龍は川を表す。北・玄武というのはもちろん山で
ありますが、また西・白虎というのは道でございま
す。この相当した道もございませんが、この大石ケ原
はきちっと合っているのでございます。束はお塔ケ原
の川、西は白糸へ通ずるところの道、あるいは北は富
士山のふもとから、あるいは天子一帯にかけての山々
であります。南は、上野の南条家の南は湿地帯でござ
います。朱雀というのは湿地帯を表わしておるそうで
す。これらをもって、四神相応の地は、この大石ケ原
であるという理想のもとに、歴代の法主が大石ケ原を
天生原といっております。
 ただ、この広蔵日辰という人が天母山をもって景勝
の地である、そこに六万坊を建てるということをいわ
れたことにおいて、あの天母山に国立戒壇を造るんだ
ということをある人は言い出しております。
 この国立戒壇ということは、明治になって田中智学
という一般的日蓮宗の学者がおりました。この方が本
山へきたことがあるのでございまして、日霑上人の時
に本山へまいられてお話をしております。Lかし、彼
はこの日霑上人の話に飽き足らなかったのか知りませ
んが、戒壇ということを知ったうえで、三保に、今の
清水市の三保に最勝閣というものを建てて、そこに戒
壇を造る。いわゆる富士の国立戒壇はここであるとい
うことを言ったのでございまして、私ども若い小学校
四、五年の頃、その最勝閣へ、この辺でも評判になり
そこへ行った人もございます。
 しかし、それは、御本尊がない、何を、どの御本尊
をもって国立戒壇にしようかというところに難しい問
題があったのでございます。その当時、田中さんとい
う人が非常に知恵者でございまして、たくさん本も出
す。そのために、日本国中に田中さんの説が流布され
ました。わが宗においても、この田中さんの言葉を利
用して、この三保に国立戒壇を建てるならば、こちらに
この戒壇の御本尊があるんだから、大石寺こそ、戒壇
の御本尊の中心である。その言葉を借りて、国立戒壇
という言葉を使いました。しかし、この田中さんのい
う国立戒壇という意味と、大石寺の我々の方のいう意
(31)

味と少し意味が違ってくると思います。それは本山は
この戒壇の御本尊を中心とした戒壇である。どこまで
も。一応、国立とい。てもその根本は御本尊がなけれ
ばできない。末法総与の御本尊をもって戒壇の本尊、
これが事の戒壇の本尊であるというところに、この国
立ということを付加していったのでございます。
 しかし田中さんの方は本尊がない。ないけれども国
立戒壇という名義をとって、天皇から建ててくださる
という名義をとって、そこに今度は本尊をもってくれ
ば国立戒壇の立派なものになるという考えであったの
でございます。それもただ国立戒壇というのは、明治
に、そういう一つの波に乗って申されたことは事実で
あります。これは過日、昭和四十五年に、私は今後、宗
門として国立という言葉は使わない、国立戒壇ではな
いということを申し上げたのでございます。それは宗
門の公けの決定によって決めた言葉でございまして、
我々はどこまでも戒壇の御本尊を中心にし、戒壇の御
本尊ましますところは、いずくいずかたでも事の戒壇
であるというところから、申し上げておるのでござい
ます。で、今、日寛上人のことをこの「報恩抄文段」
にある「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に建立
する戒壇堂なり、御相承を引いて云く日蓮一期の弘法
 (中略)富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきな
り」とい。てこの御文を引いて戒壇は国立戒壇だと、
日寛上人も国立戒壇を思っているんだという人もござ
います。しかし、これは違うめであると、その日寛上
人の御入滅する前に、この御本尊の御供養のお金を貯
めて、それで御宝蔵にお金を納めております。この金
というのはただの金ではない。日寛上人は御本尊の冥
加料を集めて、それをもって戒壇のために、戒壇を造
るために納めた金である。
 日量上人がこのことを「日寛上人伝」にお書きにな
って「六月中旬師在職中授与せしむる所の御本尊の冥
加料金銀都合三百両なり、内二百両を金座後藤に遣し
人手に渡らざる吹立の小粒金に両替し筥に入れ封印し
て御宝蔵に納め置き以って事の広布の時に戒壇を造営
するの資糧に備ふ」とあります。
 それで二百両の金の粒八百粒を御宝蔵へ納めた。封
印して納めた。すなわち事の戒壇の造立のためであ
る。もし国立戒壇ならば、何も、貯める必要はないわ
(32)

けであります、やってくれるんですから。だけど自分         
たちがつくらなければならんというお考えがあったか
ら貯めて、御本尊の御供養を貯めて、ここに戒壇をつ
くろうという厚い遺志があったのでございます。これ
を日淳上人が同じ「日寛上人全伝」に戒壇造立資金の
準備であろとお書きになっております。「金座から吹
立ての二百両の小粒とともに残し置かれたる覚書には
 『長く寺附の金子と相定』とも『此の小がね変じて御
本尊と成らせ給う時此金を遣うべし』と意味深幽にな
っておる、明らかに戒壇資金とはないが量師が伝にそ
れが書き給えるのは詳師以来の言い伝えであったろう
と思う」と、はっきり堀猊下も戒壇を建てるための金で
あると、言い伝えにあるというふうにおときになって
おります。そうしてみると、国立戒壇ということが、
明治以前の方々には少しもない。明治中の人も一応そ
ういう言葉を使ったけれども、今でいう国立戒壇とは
大分ニュアンス、心において違いがあると思うのでご
ざいます。また更に日量上人が「本因妙得意抄」にこ
う書いてあると、日量上人の「本因妙得意抄」を引い
て事の戒壇は国立であるというようなことをいう人も
ございますが、それはまったく違うのである。
 事の戒壇とは、といって事の戒壇のことを述べられ
ておりますが、それもただ三大秘法の御書、一期弘法
抄の御書を引いてあるのであって、最も大切なことは
その最後に「法華本門宗要抄に云く我、日本無双の名
山富士山に隠寵せんと欲すといえども壇那の請によっ
て今この山に寵居す。我が弟子のうちにもし本門寺の
戒壇の勅を申し請けて戒壇を建てんと欲せばすべから
く富士山に築くべし」と「法華本門宗要抄」を引用さ
れております。ではこの「法華本門宗要抄」という御
言は、大聖人の御書と一応言われますけれども、それ
は大聖人の御書ではありません。それは日興上人が富
士へ移られてからの富士系の人の宗要抄ですからその
宗が建ったときのその要となるところの書き物でござ
います。富士系の人が作ったということは明らかであ
ります。しかも、日興上人御在世ごろに作られたとい
うことも想像することができます。
 それによりますと、今の「一期弘法抄」「三大秘法
抄」の「勅宣並に御教書」は決して国立ではないとい
うことは明らかである。なんとなればそれにある通り
(33)

に本門寺の戒壇の勅を申し請けて戒壇を建立せよとあ
ります。お許しを頂戴して造れということでございま
す。伝教大師が比叡山に迹門の戒壇を造ろうと思っ
て、あの嵯峨天皇の時に再三お願いしたけれども、天
皇から許可がなかった。伝教大師が入滅してわずか一
週間のときに嵯峨天皇がその弟子・義真に許された。
許されたので直ちに国立とはいえない。天皇から援助
は受けたけれども、やはり自分の力で建っている。こ
れを見ると今の勅を申し請けてとは、今の言葉で申請
です。明らかに申請という言葉を使っております。
 これが「三大秘法抄」並びに「一期弘法抄」の「勅
宣並に御教書」の解釈として最も古いと思われるので
ございます。そうすると明らかに申請である。今日も
そうである。今日も建築申請を出さなければ許可にな
らない。ここでは勅宣といっています。今でも同じこ
とです。ちゃんと総理大臣の決まったところから許さ
れなければ建築許可になりません。そこで本山の建
物、みな建築許可、申請をして申し請けてそして建っ
ている。してみると決して国立じゃない。どこに国立
という言葉があるか。近ごろ、ある人は国立というこ
とを国家的建築と書いておるようにも思われます。
 これは先代の日淳上人が国家的に建てるというよう
なことをおっしゃっております。だからそれをとって
国家的ということはすなわち国立だ、ということをい
っております。国立というのは国が建てて国によって
管理する。これが国立である、国家的というのは、国
にふさわしいという意味である。日本国にふさわしい
ということで、すなわち国家的という意味である。それ
は九世日有上人が「化儀抄」に「法華宗の御堂は日本
様に作るべし(日本の姿である)、唐様に作るべから
ず」ということをおっしゃっております。日本のお
寺を建築するなら日本式に建てなさい。唐様というの
はその当時、禅宗が盛んであった。禅宗の本堂の建て
方、ああいうのじゃいかんということをおっしゃって
いる。
 そうすると今の正本堂が外国式じゃないかという人
があるかも知れません。それは違う。それは建築が進歩
して日本の建築がそうなっている。そこに日本式の、
形は洋式であっても日本式である。そこに重大な意味
がある。しかもそれが我々の力、総講頭・池田先生が
(34)

皆さんの力を結集して、そしてつくった。どこに悪い
ところがあるか。これほど立派な荘重なるところの戒
壇はない。そしてまた私は、戒壇の大御本尊は富士山
本門寺の本堂ということを申したら、戒壇堂をすりか
えて本堂にしているということを言っている人があり
ます。それは違う。一番古い「百六箇抄」に三秘の本
尊を安置する場所を示して「三箇の秘法建立の勝地は
富士山本門寺本堂なり」とおっしゃっている。決して
戒壇堂といっていない。それを後で利用して、今度は
分かりやすく戒壇堂という方もありますが、その趣旨
は本堂である。今、正本堂にこの本門事の戒壇の御本
尊が安置まします、このところこそ事の戒壇であるこ
とは少しも間違いない。みなさまが安心してお参りに
行ってしかるべきと思うのである。
 また日寛上人が先程、天生原ということを言われた
ということに殊に力を入れて国立だと言うならば、こ
れは日寛上人の「寛師抜書雑々集」という本が残って
います。これは主なことをちょいちょいとお書きにな
ったんでございます。これには「相伝に云く富士山天
生原において戒壇を建つ、岩本実相寺のところにおい
て惣門を建つ云々。もししかれば戒壇の方面自ら分明
なり、何ぞ地形に従うべしといわんや更に検する」と
お書きになったものが残っております。
 これはもっと古い、日興上人御在世に三位日順とい
うお方が「本門心底抄」にお書きになった。「戒壇の
方面はI地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至ら
ば」国主が信伏するというのは国主が信心して、いよ
いよ建てるという時機がきたならば「智臣大徳宜しく
群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり、尺寸高
下注記する能はず」今、こういうふうに勝手に定めて
言うことはできないけれとも、これは地形によって智
臣大徳みなが相談して建てなさい。それは富士山であ
る。富士山といえば広い。広いからその一応天生原。
天生原とは大石ケ原のことであります。というふうに
はっきりお書き残されておって、少しも不思議はない
のでございます。国立戒壇じゃなければいけないと
か、いうようなことに惑わされないで、どこまでも戒
壇の御本尊を中心にして信心に励まれんことをお願い
致します。
 また、しょっ中、私のところに公開質問だとか、何
(35)

だかだといってきます。私は今後、そういうものを相
手にしないでおこうと思います。したってムダであ
る。不毛の論争でありますから。
 昔、舎利弗という人は、釈尊教団において最も知恵
の深い人であった。この人をやり込めようと思ってあ
る外道が大ぜいの人々の前で論争をふきかけました。
いろいろ難しい論争ばかりふきかける。しかし舎利弗
は一言も答えなかった。なぜなれば仏法というもの
は、我々の生死の問題である。いかにして我々の苦を
救い、悟を得て仏の世界に入るか。あるいは自ら仏に
なるかという重大なる問題である。それを単なる論争
にふけって、論争のための論争、脆弁のための脆弁を
繰り返して何の意味があるか、として舎利弗は一言
もそれに対して反ばくもしなければ答えもしなかっ
た。しかし周囲の人々は、それを見て舎利弗を決して
馬鹿にしなかった。舎利弗が黙っておっても、舎利弗
を馬鹿者とも思わない。舎利弗の偉大なることをみな
ともに知っておった故です。
 そういうふうな論争を今日もして、一生懸命にふっ
かけても、不毛なる論争をいくらしても役に立たな
い。もし国立戒壇が正しい、大聖人の教えが国立戒壇
であるというならば、その人は世間に向かって言えば
いいのです。新しく宗旨を立って国立戒壇宗というも
のを建ったんだ、といって世間をどんどん折伏して広
げてくだされば結構だと思います。
 どうか、今後ともそれらのくだらない論争に惑わさ
れず、本当の大聖人の教えに従い戒壇の御本尊を中心
として信心に励まれんことを、きょう、日寛上人の御正
当会にあたって、皆さまにお願いする次第でございま
す。よろしくお願いします。
(36)


宗会議員決議書

 
御法主日達上人猊下は、昭和四十七年四月二十八日の訓諭、その他機会あるごとに、戒
壇の意義を御説法遊ばされ、私共の進むべき道を御指南下されたのであります。
 御法主土人の御教示に絶対随従して信行学に励むのは、宗祖開山以末木宗の根本精神で
あり、私共は日達上人を中心として団結し、正法広布に精進しているのであります。
 然るに近来法主上人の再々の御指南にもかかわらず異義を唱える者がありますが、これ
こそ大謗法と断ぜざるを得ません。
 私共はますます法主上人に対する信伏随従の念を強くし、広宣流布に邁進することを決
議いたします。

  昭和五十年十月四日

宗会議長 野村学道

宗会副議長 阿部法胤

宗会議員 早瀬義舜

仝    大村寿顕

仝 豊田広栄

仝    管野慈雲

仝 早瀬義寛

仝    佐藤正英

  仝    内藤寿学

 仝    早瀬義雄

  仝 細井珪道

仝    鈴木秀喜

仝    川辺慈篤

仝    向島秀浩

仝    佐野知道
        (39)

  創価学会副会長室決議

 日蓮正宗第六十六世日達上人猊下は「戒壇」について、未来永遠に亘り誤つことなきよ
う、あらゆる機会を通じ、宗門全体に対して御説法遊ばされている。かくして「戒壇」の
意義は、雲一点なき晴天の如く、瞭々として明白であり、我等創価学会は、猊下の御芳旨
を仰ぎ奉り、広宣流布に、いやまして不惜身命の実践を貫く決意である。もはや、これほ
どまでに大慈大悲を垂れ給い、再三再四に亘り御指南遊ばされたにもかかわらず、これに
背き、宗門を撹乱する徒輩は、師敵対の大謗法の者であることは疑う余地がない。茲に創
価学会を代表し、猊下の御決定を遵守し奉ることを誓い、決議とする。
  
   昭和五十年十月八日

法華講総講頭・
創価学会会長 池田大作
理事長    北條 浩
副会長    秋谷栄之助
       森田一哉
       和泉 覚
       辻 武寿
       青木 亨
       山崎尚見
       福島源次郎
       柳原延行
       上田雅一

        (38)


日蓮正宗法華講連合会役員会決議

 
日蓮正宗第六十六世御法主日達上人猊下

昭和四十七年四月二十八日  御訓諭

昭和四十五年五月 三日   第三十三回創価学会での御講演

昭和四十七年三月二十六日  正本堂に関する御指南

昭和四十九年六月 十八日  戒壇についての補足 学林研究科 於大講堂

昭和五十年七月 五日    法華講青年部お目通りの際の御説法

昭和五十年八月二十九日   戒壇について

昭和五十年九月二十六日   日寛上人二百五十遠忌大法要での御説法

 日蓮正宗第六十六世御法主日達上人猊下に於かせられましては「戒壇」に関しまして宗
内僧俗に右表題の如く御説法を賜り全国法華請員一同感激致して居ります。
 私共法華講員は篤く三宝を敬い御法主上人猊下に信伏随従致しまして不自惜身命の実践
を御誓い奉ります。
 御法主上人猊下再三に渉り御指南下さる大慈悲に背く輩は師敵対の大謗法者だと存じま
す。茲に法華講連合会は御法主日達上人猊下の御決定を遵守致します事を決議致します。

    昭和五十年十月五日

日蓮正宗法華講連合会  委員長 佐藤悦三郎
 同 理事  北海道地方部部長 田中一雄
 同 理事   東北地方部部長 大塚万九朗
 同 理事   東海地方部部長 村松賢二
 同 理事   中部地方部部長 清水 賢
 同 理事   関西地方部部長 中野 功
 同 理事   九州地方部部長 藤野与平
 同 理事   四国地方部部長 石井 茂
 同 幹事   連合会総務部長 田島孝之
 同 幹事 登山部長・渉外部長 小島富五郎  
 同 幹事      庶務部長 渡部俊雄
 同 幹事      会計部長 井上市郎 
 同 幹事      文化部長 平澤幹夫
 同 幹事     副登山部長 篠田泰夫 
 同 幹事 東京地方部総務部長 岩瀬正勝
 同 幹事 関西地方部総務部長 住中信和
 同 幹事     大白法主幹 松島晃靖
 同 幹事 教学常任幹事室主任 西山幸一

           (40)
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