大日蓮昭和四十九年十二月号掲載  
昭和四十九年十一月       日蓮正宗宗務院

元妙信講等処分の経過について

 本宗は、去る八月十二日付をもって、妙信講を解散処分に付し、更に、十一月上旬、浅井甚兵衛、浅井昭衛ら元幹部三十三名を順次除名いたしました。
又、これに関連して、本宗僧侶八木直道を十一月十五日付で攘斥に処し、松本日仁を十一月十八日付で妙縁寺住職を罷免にいたしました。
 右各処分に至る経過ならびに事情についてこれまで、浅井らが一方的な宣伝をしていますが、それらは事実を故意に歪曲、ねつ造して宗務院や信徒を非難中傷しており、まことに不都合千万であります。
そのために万が一にも誤解を招くようなことのないよう、ここに真相の概略を公表いたします。

一、昭和四十五年に至る経過

 妙信講は、昭和十六年に結成された講中であり、当初、妙光寺に所属していましたが、種種と問題があって妙国寺へ、法道院へ、更に妙縁寺へと所属がえになりました。その問、一時、法華講法道院支部に合流していた時期がありましたが、妙縁寺へ移ってから再び独自の講中として特別に許可され、去る八月十二日の解散まで存在していました。
 当然、法華講連合会の傘下にあって、その統制に服すべき講中ですが、独善的な、身勝手な行動が多かったため、いろいろとトラブルを生じて、昭和三十九年頃から五年間は、自ら連合会をはなれた形になり、登山もできない状態でありました。
 この経過をみても明らかなとおり、妙信講は、指導者の独善性、非協調性のため、宗内でとかく問題をおこして来た存在でありました。
 この妙信講が、昭和四十五年春頃より、にわかに正本堂の意義について猊下並びに宗門の決定にたてつき、尖鋭な行動をとりはじめました。

二、元妙信講の主張の誤り
 妙信講浅井父子の主張の要点は、
(一)事の戒壇は、国立戒壇である。

(一)事の戒壇は、本化聖天子(天皇)の発願による。 (一)事の戒壇は、天母山に立つべし。
というものでした。

この主張が誤りであることについては、すでに、宗務院より発行した「国立戒壇論の誤りについて」と題する論文に詳しく述べられているので、ここでは、国立戒壇の問題について要点を示します。
 まず、国立戒壇に関しては、御法主上人猊下が、公の席や御説法で何度も明確に否定されているということです。
その代表的なものとして、昭和四十五年五月三日、東京日大講堂における創価学会本部総会の席上で、次のように明言されています。
 「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対し、かつて、国立戒壇という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人人は世界の人々を救済するために『一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられておりません。

日本の国教でない仏法に国立戒壇などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。
明治時代には国立戒壇という名称が一般的には理解し易かったのでそういう名称を使用したにすぎません。
明治より前には、そういう名称はなかったのであります。
 今日では、国立戒壇という名称は世間の疑惑を招くし、かえって布教の邪魔にもなるため今後本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。」と。
これには、日連正宗を国教にしない、国立戒壇という考えはないという、猊下並びに宗門の意思が明確に表明されています。
 この講演内容は、管長の教義に関する裁定として責任役員会の議決を経て発表され、機関誌にも掲載されており、文字通り宗門の公式決定です。
 更に猊下は、昭和四十七年四月二十八日、正本堂落慶を半年後にひかえた、宗組立宗七百二十年の佳日をトして、訓諭を発せられ、「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宜流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と宣言されました。
 正本堂の意義については、すでに、昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会における御説法で「歴史上未曾有なる正本堂」と規定され、二箇の相承、百六箇抄等の文を引用され、「戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ」云々と規定され、正本堂が御遺命の戒壇堂となるべき建物であることが、あらあら示されておりました。
 その後、同年十月十七日の御説法で「宗祖日蓮大聖人の『富士山に本門寺の戒壇を建立せられるべきなり』のご遺言にまかせ、戒壇の大御本尊様御安置の正本堂建立」と仰せられ、更に、その意が明確になっております。
 そして、訓諭に先立つ昭和四十七年三月二十六日、全国宗務支院長、副支院長、宗会議員、法華講指導教師等に対し、「正本堂は一期弘法抄の意義を含む現時における事の戒壇である」との御指南があり、正本堂落慶を間近にひかえ、正本堂の意義が、一層明確に規定されたのであります。
 こうした段階をふまえた上で、正本堂落慶をいよいよ半年後にひかえた重要な時期に猊下は、おんみずから訓諭の中に述べられている如く、「後代の誠証となす」ために、先の訓諭を発せられたのであります。訓諭は、いうまでもなく、宗門における猊下の公式のしかも最も権威のある最重要御指南であり、宗門の僧俗はこぞってこれに従い、守るべきものであります。
 この訓諭により、正本堂の意義は明々嚇々とかがやきわたり、宗門一同、喜びいさんで正本堂落慶をめざし、宗会においても、全員賛同の意を表して、更に宗門の結束と異体同心の信心を固めたのでありました。
 妙信講浅井父子の主張は、このような猊下の御意、ならびに宗門の公式決定、更には、宗内の圧倒的多数の僧俗に真向から敵対するものであることはあきらかです。

次に、国立戒壇という主張自体について二三諭ずるならば、まず、国立戒壇という語は、御書のどこにもなく、明治時代に、国家主義的な風潮の中で、田中智学一派と論争が行われた際に使用されたのがはじまりで、次第に用いられるようになったものであります。
従って今日、国立戒壇の用語にこだわる事由は何もないばかりか、これを使用することはかえって大聖人の真意を誤解され、有害でありますので、公式決定をもって使用することをやめたのであります。
 叉、一期弘法抄の、「国主この法を立てらるれば」というところから、国立戒壇にしなければ、というかも知れませんが、国主とは、国の主権者と解すべきであり、主権在民の現在では、国王は国民一人一人であると考えるべきであります。
およそ、宗教教義の解釈にあたっては、時代、社会の背景に充分かつ注意深く考察を加えるべきであり、それを怠っていたずらに、文言にとらわれるならば、それこそ、鎌倉時代そのままの天皇制、幕府制を再現することなくしては、戒壇建立も不可能ということになります。宗教の本質からみても特定の時代、社会の産物である政治体制によって規定されるとすることは、法を下げることであります。
 国民主権、信教の自由、政教分離の原則が、単に現在の憲法で保障されているというのみならず、近代社会の大原則として、更に発展せられるであろう現状において、本質をはなれた時代錯誤な解釈論に固執することが、布教を決定的に妨げることになるばかりか、社会的にも、重大な問題となることは明白であります。
 何より、根本的なことは、世界宗教として全人類の救済を宣言されているという日蓮大聖人の仏法の原点に立って見るとき、戒壇建立を「国立戒壇」という、日本一国の国粋主義的主張のわくの中に押し込むことは、決して大聖人の御本意でないことが明々白々となるのであります。
 とにかく、例えば浅井らの″世界中に核戦争がおこって、人類は死滅にひんするが、国立戒壇を建てておけば、日本だけが生きのこれる″(顕正新聞昭和四十九年八月十日号) ″憲法を改正し、天皇制を復活し、正宗を国教化して信教の自由を否定する″(冨士四十七年八月号)等の主張をみても、彼らの言っていることがいかに現実ばなれした、狂気じみた論議であり、社会に責任ある立場として日蓮正宗がかかる論にとうていくみし得ないことも、御理解いただけることと思います。

三、昭和四十五年の経緯

 浅井父子らは、このような誤った、こっけいな論理を立てて、これを押しとおすためには、実力行使による宗内外のかく乱も辞さないという、横暴な態度をとりつづけました。これに対して、宗門としては、穏下をはじめ宗務院関係者で、いろいろと説得につとめました。
 しかしながら、浅井父子らは、考えを改めようとしないばかりか、猊下の御慈悲と宗門の恩情を追手にとって、こともあろうに、自分達の主張こそが猊下の御内意であり、御真意である、と主張するようになりました。
 まず、昭和四十五年四月三日にお目どおりしたとき、国立戒壇について特別の御内意の表明があった、といいふらしました。ところが、実際は、猊下はその直後の五月三日に、先のような国立戒壇を真向から否定される説法をなさっています。浅井のいうとおりなら猊下は天下に向って嘘をつき、日連正宗は世間をあざむいたことになります。
 そこで形勢利あらずとみたのか、浅井らは″猊下は、学会の圧力で御真意を曲げられた”という、とんでもない、いいがかりをつけてきました。 これは、猊下に直接たてつけば、処分をうけるおそれもあり、講中も動揺する、しかし、猊下の御指南に忠実な学会を攻撃すれば、信者同志のことであるし、そのことによって、間接的に猊下を動かせる上、信徒の間の主導的な立場がとれる、というまことにずるい打算にもとずく行動と思われます。
 しかし、考えてみれば、一面、これほど猊下に対する侮辱はありません。
 七百年間、いかなる迫害にもめげず、生命がけで法灯を守り抜いて来た不屈の伝統に輝く日蓮正宗の猊下の権威に対し、″圧力で言うことも言えない″とは、何という言いぐさでしょうか。六十六世日達上人猊下は歴代上人の中でもまれにみる英まい、剛毅な御資質であられることは、宗内で知らない人はありません。その不惜身命の御振舞いに対して、かかる言いがかりをつけることは、信徒として最大の諸法をおかしていると断じても、決して言いすぎではないでしょう。
 浅井らが、余り学会学会とさわぐので五月三日を前後して、創価学会の代表者が、浅井父子を説得するため、数回にわたり会談しました。
 この会談の趣旨は、信者同志の立場で話し合い誤解を解くというところにありました。故に、その過程において、猊下や宗門が正本堂や戒壇について、最終的な結論を下したことは一度もありません。
 その話し合いの結果、九月十一日に、学会を代表して、和泉理事長、森田、秋谷両副会長、妙信講を代表して、浅井父子の合計五名の名前で、猊下に報告書が提出されました。
 その内容は「御報告」という標題で「お互い信者の問で話し合いの結果、誤解がとけ、相互に友好的な理解と合意に達したので御報告を申し上げます」として「一、正本堂は三大秘法抄、一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは現時において断定はしたい」というものであり、同時に「今後異体同心にして広宜流布達成をめざして驀進することをお誓い申し上げます」との猊下に対する誓いでありました。
 この報告の趣旨は、″正本堂が、御遺命の戒壇であるか否かについては、信者の間で、その時点において、断定はしない″ということであり、決して、浅井父子のいうように「御遺命の戒壇でない」ということを確認したものではありません。ましてや、信者の猊下に対する御報告という体裁から見て、猊下のお立場を拘束するものでないことは、火を見るよりも明らかであります。そもそも正本堂の意義は、信徒同志で論争して決定するものではなく、猊下が重々の秘伝と御内証にもとづいて決定さるべきものであります。
このことを認め合って、お互い信者同志が勝手な主張をしない、というのが合意の内容だったのです。
 ところが浅井らは、これを、今日では「確認書」云々と,あたかも学会が、浅井らの言い分に従ったかの如く歪曲した宣伝をし、講員をあざむいてぎました。 そして、いち早く約束を破り、講中に対して、勝った勝ったと国立戒壇論を公言しました。その上「正本堂につき、宗務御当局に礼し訴う」 「正本堂につき、池田会長に糺し訴う」等の文書を家内に配布し、誤った主張を繰り返したのであります。

四、昭和四十七年の経緯 

浅井らは、昭和四十七年に入るや、再三、最終通告と称して、宗門の名において浅井らの主張する国立戒壇論を宗内に宣言せよ、さもなくば実力行動に移る、と脅迫してきました。又、創価学会に対して、勝手に公場対決の申し入れを行ったりしました。
四月二十八日の訓諭を給わった後においてもなお、浅井父子は己義に妄執して宗門を乱しつづけました。そこで、五月五日に至り、宗務当局は猊下の御指南を受け、浅井父子に対し、創価学会との公傷対決の申し入れを撤回することと併せ、今後、猊下の訓諭に反対したりせぬこと、教義について異議あらば、指導教師を通じて宗務院に文書をもって串し出ること等、文書をもって翻意をうながしたのであります。しかしながら、浅井父子は、これを無視した上、かえって、訓諭を真向から否定する態度に出ました。
 ついには、議員を組織的に動員し、「富士」二月号、同五月号、ならびに「正本堂につき池田会長に糺し訴う」等の文書を、家内の僧俗に配布し、猊下の訓諭に敵対し、宗門ならびに創価学会を誹膀中傷するという暴挙に出たのであります。
 そこで、宗務当局としては、やむなく宗制宗規にもとずいて書面により通告を発し、浅井父子の責任を問うと共に書面到達後、一週間以内に書面にて、宗務院に対し、弁疏するよう申し渡しました。
 これに対し、浅井父子より、六月二十二日付で宗務院に対し回答がありましたが、その内容は、依然として自らの非を改めないのみか、恐れ多くもこの期に及んで、まだ猊下の訓諭を投下の本意でないと断じているものでありました。そして、訓諭をあくまで違法と断じ、七月七日までの日限を限ってその訂正を求め、もし訂正しないならば「妙信講は非常手段を以てしても断じて御遺命を守り奉る。……さればその時、妙信講も斃るべし同時に猊下の御本意を覆う学会の暗雲心なし阿謨の御当局も除かる。」と宗務院を脅迫し、訂正を強要してきたのであります。
 更に、七月一日、直接猊下に対し、「男子精鋭二千の憤りは抑えがたく、仏法守護の刀杖を帯びるに至りました」「もし妙信講一死を賭して立つ時、流血の惨を見ること必至であります。」「この時、妙信講も斃れ、同時に学会の暗雲もなく、宗務当局の奸策もなし。」……「但し一万の命を以て供養にかえ」等々の脅迫文を送り、猊下より訓諭はまったく猊下の本意である旨伝えられるや、七月四日には、重ねて「この上は、大事出来して一国の耳目驚動の時」云々「さればその時小輩等早く霊山に詣で」云々との最接遇告文を追って来ました。
 これらの一連の文面を総合するならば″自分達の主張を通せ、さもなくば、非常手段に訴える。その時は流血の惨事がある。その対象は宗務当局と学会である。そして最後は自分達も死ぬ″ということであります。
 折から、妙信請員の中より、浅井父子や青年部幹部が、そのようなことをロにしているので、心配であるとの通知も再三ありました。
 これは、もはや議論ではなく脅迫です。何とか猊下り権威をかりて、自分達の偏見を通そうとし続け、それがかなわぬと見るや、今度は、脅迫にきたわけであります。これは全く狂気の沙汰としかいいようかおりません。ロでは、大聖人の御遺命を守るとか、猊下の御本意を実現するなどと言いながら、実際に行っていることは、自らの偏見を通すためには手段を選ばぬという、卑劣きわまりないものであります。
 「智者に我義やぶられずば用いじとなり」とは、日連大聖人の御金言でありますが、非常手段や流血の惨を用いて、己義を通せとは御書のどこにもいわれておりません。一体、このような手段に訴えることを、大聖人がお喜びになるはずがありましょうか。
 猊下は、大層御心痛あそばされました。浅井父子の横暴、非道は明らかであり、いかに脅迫されようと正義をまげてその主張を容れることはもとより出来ることではありません。
 しかし、宗門の統率者としての御立場から、信徒の手による流血の惨事などということは、なんとしても防がなくてはならないし、仏法者の良心として、どんな重要な意義のものであれ、建物のために尊い生命が失われるようなことはあってはならないとの崇高なお考えがありました。いろいろと考え抜かれた末、かかる上は、おんみずから一命を賭して説得に当る他ないと御決断になり、七月六日、妙縁寺にのぞまれて浅井父子にお目通りを許るされたのであります。
 従って、話し合いの内容も、猊下は、何とか浅井父子のかたくなな気持をほぐし、絶対に暴力行為等の非常手段をやめさせようとのお心から、誠心誠意説得をされました。猊下は、浅井父子に対し、″人を殺して気がすむなら払を殺しなさい″といって辞世の句を示され、一命にかけても戒壇の正義と宗門の公式決定を守る決意を示されたのであります。
 これに対し、両名は不届きにも相変らず自説をくりかえしてゆずらず、やむなく猊下は、あえてその場で決裂させないために、両名の言い分もよくきき、その場では争わず″考えよう″という形で包容されました。又、訓諭の趣旨をよくわからせるために、解釈を出すこともお考えになりました。もちろん、相手の云い分を認め「訓諭を訂正する」とか「正本堂は事の戒壇ではない」などとおおせになったことはないし、そのようなことが一宗の責任者としてなされるはずがありません。
 更に、七月十九日、八月十二日と猊下は同じ趣旨で浅井父子にお目通りを許され、ねばり強く説得を続けられました。
 このような猊下の慈悲深いおはからいにもかかわらず、浅井父子こおいては、その後も一向に感度を改めないばかりか、講員に対しては、八月中旬以後、非常手段に訴える旨あおりたてている様子さえうか、かわれました。
 そして、ついに猊下の御慈悲を逆手にとり、「富士」八月号において、お目通りの際の話をゆがめて、あたかも猊下がウソの訓諭を公布し、全信徒をあざむいているかのような記事を掲載したのです。又、猊下に対し、猊下が独自に下されるべき解釈の内容について、おそれおおくも干渉するという横暴な振舞に出ました。
 猊下は、このような浅井父子の猊下さえ利用してみずからの主張を宗門に押しつけようとする非常識な行為に痛く心を悩まされ、このまま放置しておいて、純真な多数の信徒がまどわされるようなことがあってはならないとのお考えから、浅井父子に対し、その非を厳しくいましめるとともに、内事部においても大日連誌上に、浅井らが富士八月号で主張していることが誤りであることを掲載しました。その上で、最後の手段として、学会に対し浅井父子らの説得を命じられたのであります。
 猊下におかれては、これ以上、猊下御自身でお目通りを許されても、そのことを歪曲して利用されるだけであること、昭和四十五年のとき学会幹部が説得して成功した事例もあるし、信徒同志ならば、自由な立場での説得も可能であろうとのお考えから最後の説得を学会に託されたのでした。

五、昭和四十七年九月の説得について

 猊下の意を体した宗務院の指示のもとに、昭和四十七年九月十三日から、九月二十八日までの間に前後七回にわたり、学会幹部が浅井父子を説得しました。
 学会側の必死の説得にもかかわらず、浅井父子は、自説を執拗にくりかえし、もし容れられなければ、妙信講の青年部を動員して、暴力で、御遷座を阻止し、正本堂落慶法要を血でよごすと脅迫をつづけました。しかし、学会側のこうした不当な暴力に対して一歩もひかない姿勢とねばり強い説得で浅井らは次第に折れてきました。
 結局、双方合意の上で次のような報告書を猊下に提出し、一応の解決をみたのであります。(この報告書は猊下のお手もとにあります。)

    
 「御報告」

 内事節句遠道こもとづいて、創価学会及び妙信講は去る九月十三日以来会談をつづけましたが、ここにその御報告をいたします。

                                     記 

(一)三大秘法抄 一期弘法抄の解釈については、双方に見解の相違があり一致するに至らなかったので、今後折を みて更に誠意をもって話し合う。

(二)広布達成、御遺命達成の如何については創価学会機関紙上に、未来にわたることである旨を明記した論文(但し、一の点については双方の意見の相違を考慮してふれない)を掲載する。

(三)正本堂落慶に伴う儀式については、総本山の行事であり、信徒としては干渉しない。

(四)この会談の内容については一切公表しない。

(五)今後双方一致して広宜流布をめざして戦う。


 以上の通りでございますので、総本山におかれましても私共の意中をおくみ戴き宜しくお取りはからい下さいますようお願い申し上げます。

   昭和田十七年九月二十八日
秋谷栄之助
浅井甚兵平


 既に、広布達成、完結ということが未来のことであるが、その時には、正本堂が、本門寺の戒壇堂、即ち、御遺命の戒壇たるべき大殿堂であることは、訓諭に示されており、御報告の第二項は、そのことを催認したのにすぎません。
 とにかく、宗門の公式決定も守られ、又、正本堂落慶法要も、大成功裏につつがなく終えられたことは幸いなことでありました。
 なお、浅井らは、この説得により、創価学会の総本山に対する忠誠をよく理解し、″今後戒壇論について教義上論議し合うことはつづけても、圧力をかけたとか、訓諭を曲げたとかいったような信徒相互に傷つけ合うような形のけんかは絶対にしない″と約束したという報告を受けております。
 又、次に話し合うときまで、混乱をさけるため互いに戒壇について主張をしないことを約束した上で″この報告書のような解決では、これまで講中をあおりつづけてここまで来だのに拍子抜けの感になり、ふり上げたこぶしの下し場所がなくて何とも説明かつかない。従って、一度だけ勝った勝ったという話しで講中に報告するので目をつむっていてほしい″という浅井からの申し出を、さわぎを起こさず解決するためにはやむを得ないということで、学会側は無視することにしたとのことです。
 この経過を見ても、明らかなとおり、学会側が涙を流して手をついて謝ったなどというのはウソであり、むしろ、浅井の方こそ、最後の段階で興奮して取りみだし、涙ぐんだりすることがあったということです。
 これらの経過は、互いに口外しない、という申し合わせでしたが、浅井の側において、信義をふみにじり、既に事実を曲げて話している約束違反があるので、それに対応する範囲で、学会側の当事者が公表を認められたものです。
いわゆる十月一日付の和泉理事長談話は、こうした経過の上でなされたもので、その内容は、一読すれば明らかなとおり、国立戒壇を認めたことでもなければ、訓諭に述べられた正本堂の意義を否定したものでもありません。これをみても、いかに浅井の云うことが、歪曲と欺隔にみちたものであるかが明らかであります。
 その後しばらく間、浅井らは、学会幹部と定期的に連絡会談をもつことにより、比較的平静にしておりました。

六、昭和四十七年十月〜四十九年五月

 昭和四十七年暮、浅井父子より、宗務院に対し、妙信講の本尊下付について、全国の寺院で取扱っていただきたい旨の申し出がありました。宗門としては、妙信講のこれまでの行動を考え、ことわるつもりでいましたが、仲に入った創価学会幹部の斡旋もあって、指導教師の紹介状をつけることを条件として、一応認めることにいたしました。
 ただ、浅井らは、国立戒壇の主張については機関紙等でくりかえし、一向に改める様子がみえませんでした。
 猊下も非常に苦々しく思っておられたところ、昭和四十八年五月頃に至り、たまたま、妙信講より指導教師をとおして、登山させてほしいこの申し入れがあったので″国立戒壇を文書等で主張し、宗門の公式決定に背いている間は、おことわりする″旨の回答を指導教師を通じて行ないました。
 その後、一年間を経過した昭和四十九年四月九日、再び文書をもって、登山させるよう申し入れかおりましたが、これに対しても、猊下の御意思により、″国立戒壇を、公論であるかの如く文書等で主張する問は許さない″旨の解答をいたしました。
 浅井父子は、これに対し、逆上し、宗務院ならびに、学会偏に対して″もし無条件で登山を認めなければ実力行使する。そうなれば何か起こるかわからないぞ”と傍若無人な態度で迫ってきました。
 事ここに至って、宗門では、もはや断固たる態度をとるしかないと覚悟を決めましたが、無用な騒ぎはできるだけさけたいとの学会側の配慮で学会幹部が浅井に会い再三再四”戒壇問題は、冷静に論議しよう。その間おろかな行為を慎しむべきである”と説得し、一時は、浅井もその気になって、具体的な話し合いのルールとスケジュールの段取りについて、三案が話題にのぼり、いよいよ五月二十四日には常在寺において最終的に煮つめて結論を出そうということになりました。
 ところが、五月二十四日、常在寺にあらわれた浅井は、今までの話を一切破棄して、一方的な内容の公開討論申し入れ書を読み上げ、「イエスかノーか」と迫りました。学会側は大いに驚き、その信義に違背する姿勢を非難したところ、浅井は「どのような無茶なこと、信義を無視した、ルールを無視したと云われてもかまわない」 「けしからんというのも一つの返事であるし、こんなもの受け取れるかというのも自由である」等と横暴な言辞をはき、文書を置いたまま逃げるようにして帰りました。
 学会側より、宗務院に対して早速右の次第の報告と、公開討論の申し入れを受けとるべきかどうかについて、照会かおり、猊下に御伺い申し上げたところ、猊下は「公開討論などの対決は信徒同志として決して行なってはならない。もしどうしても行なうというなら、本宗信徒を脱退してからにすべきである」との厳しいお達しでしたので、その旨、文書で四十九年五月二十九日付をもって宗務院より学会側に通告しました。

七、解散処分に至る経緯

 これに対し、浅井らは実力行使と称して、宗務院からの再三の制止にもかかわらず、国立戒壇を主張し、宗務院や創価学会を非難中傷する文書の街頭配布を始め、七月二十九日には、明治公園で約千名(妙信講は三千名と称しているが、警視庁調べ及び当方の確認では千百名程度であった)を集めて集会を行ない、引続き四谷駅までデモ行進等を行ないました。又、前記文書をマスコミ関係者、政治家等、宗門外にも送付することもあわせて行ないました。更に、寺院に押しかけ文書の配布や法談の強要等も行ないました。
かかる行為を放置しておいては、宗門の統制がとれず、わずか数干の講中のために、千六百万人の信徒の純真な信仰を傷つけてしまう結果になりかねません。又、放置しておけば、やがて、世問に誤解が生じるかも知れないことも明らかです。
 猊下は、かかる状況を御覧になり、いたく心痛されましたが、やむなく、処分をすることを御決意され、正規の手続を経て、去る八月十二日講中解散処分とたったものであります。しかし、猊下の御慈悲により、悪いのは誤った指導者であり、元請員は何等の差別を受けることなく信徒として過されるように指定の寺院(常泉寺、常在寺、妙光寺、蓮華寺)に帰属を申し出るように取り計られたのです。
 解散処分後毛、浅井ら元妙信講の幹部は徒党を組んで反抗的態度を一層明確に示し、文書の街頭配布、宣伝カーやハンドマイクによる街頭宣伝を行ない、あまつさえ、総本山大石寺境内、創価学会本部、各寺院に不法に押しかけて面会強要等を行ないました。又、あらゆる手段を用いて元講員が、宗務院の指示により指定の寺院に帰属することを阻止しました。
 猊下におかれては、かかる事態を深く憂慮され、再三、御説法等で元妙信講員らに対しさとされるとともに、二度にわたり、わざわざ御自筆で親書をお書きになり、浅井をはじめできるかぎりの元講員に送付する等、まことに異例なまでに、御慈悲あふれる御配慮を賜わったのであります。 しかるに、浅井等は、これを″どこのだれだか知らぬが、悪筆、悪文で″などとののしるなど(顕正新聞四十九年九月二十五日号、富上四十九年十月号)信徒としてこれ以上は考えられないほどの冒涜と反逆の態度に出ました。
 これをもっても、口先では、猊下をお守りするといいながら、それはあくまで口実であり、心中は猊下に対する尊敬心などみじんもなく、ただ、猊下の権威を利用して、宗門を態断し、自己の野心を遂げようとするみにくい本性が如実に表われているといわざるを得ません。
 そして、こうした説得をすべて無視して、浅井らは、昭和四十九年十月四日、元妙信講青年部を使嗾して、創価学会本部を襲撃させるという、言語同断の暴挙に出たのであります。

八、学会本部襲撃事件の真相

 この日午後六時頃、鉢巻姿のものものしい元妙信講青年が七〜八十名、学会本部の前に金網張りで武装した宣伝カーを押し立てて勢揃いし北条副会長に面会を強要しました。
 実は、これらの青年は、前夜から当日経にかけて、浅井昭衛はじめ元中心幹部に学会本部内に乱入する作戦をさずけられていたということです。
 学会本部では、紛争をさけるためただちに閉門し、四谷署に連絡をとり、間もなく三十名ばかりの警官が到着して警備につきました。警察からは学金側に対し ″絶対に挑発にのらないでほしい。我々で警備を引き受けるから建物の外に出ないでほしい″との要請があったので、学会側は、これに従い本部内に残っていた男子職員七十名ばかりで建物の中側で入口を固めていました。
 すると、突然、元妙信講青年のリーダーが、「会わないなら、実力で会うぞ」と叫び、これに呼応して、数名が塀や門扉を乗り越えて構内におどり込み、守衛の制止するのもきかず中からかんぬきをあけて開門し、同時に数十人の青年が不法になだれ込みました。
 警官も、まさかと思うすきをつかれてあっけにとられているうちに、青年達は二手に分かれ、一方はまっすぐ文化会館の入口にかけ上がり、館内に乱入しようとし、他は、案内所の裏側にまわりました。
 彼等は建物の入口に到着すると扉を引きあけようとし、中にいた本部職員に制止されましたが、再三あけて入ろうとするので、やむなく、数人で机をたてに押しかえし、そこで更に押し入ろうとする元妙信講青年が暴力をふるったため、もみ合いになりました。
やっとのことで大部分を門の外に押し出し扉をしめて、更に構内に残って暴れる十数人を制止しようとしたところ、外にいた青年達は、宣伝カーを三度にわたって門扉に衝突させ、かんぬきをへしまげて押しあけ、再度突入してきて、手当たり次第に暴力をふるい始め、やむなく制止に入った五〜六十名の本部職員ともみ合いになってしまいました。
 間もなく、青年達のほとんどが、警官と、急を聞いてかけつけてきた機動隊に検挙され、そのうち十人が現行犯で逮捕され、うち三人は、検事勾留されて取り調べを受け、建造物侵入、器物損壊罪で処罰されております。又、更に、礼拝所不敬、強要罪等の罪名で、引き続き取り調べを受けています。(学会側の逮拙者は一人もありませんでした)
 このように、まるで血迷ったような浅井らの暴拳でありましたが、一部始終、浅井らに非があることは誰が見ても明らかなのに、これについても、浅井らは″ 先に手を出しだのは学会だ″″わなをしかけられた″″五百人が待ちぶせしていた″等とまるで恥知らずに、見えすいた嘘を平然とついて、盲目にさせられた元講員が離れていくことを防ぐのに懸命であります。又、マスコミに対して、歪曲した事実を、さも真実のように話し同情を買おうと努めておりうっかりのせられた雑誌が浅井の云い分を記事にしたため、後に謝罪文を掲載するはめになり、迷惑しているということもあります。
 しかも、浅井らに煽動せられ、暴力行為に参加したものの、取り調べにあたってば、涙を流して後悔した純真な青年もいたということですが、余りにも可哀想であり、このような青年を背後であやつって、自己の野心を遂げようとする者こそ、仏法者の仮面をかぶった魔であると断ぜざるを得ないのであります。

九、除名処分及び其後の状況

 こうした事件を起こしては、宗門としてももはや放置しておけず、やむなく、首謀者三十三名を除名処分に付しました。
 これに対し、浅井らは、あくまで処分を不当として、法廷で争う構えをみせております。そして、浅井と腹を合わせ、ぐるになった元妙縁寺住職松本日仁と陰謀をめぐらし八百長裁判で、地位保全の仮処分をとり、これを足場に、舞台を妙縁寺に移して、宗門かく乱の策謀を続けています。
 こうした状況に、はじめは事情を知らずについていた元妙信講員も次第に愛想をつかしはじめ浅井らの支持者は次第に減少している一方、宗門の通遂に従って寺院の所属替えを申し出る者があらわれています。
 かつて″一ケ月以内に学会は音をたててくずれる″とか″大聖人の御遺命を実現する者は、妙信講以外にない″と大見得を切っていたのが、今や四百余ケ寺の中のただ一つに必死にとりついて、下劣な策謀をこらしているのですから笑止千万であります。浅井の予言はことごとくはずれて、あてにしていたマスコミものらず、焦りから出た暴力路線によってみずからの首をしめ、残るは法廷闘争とばかりさかんに意気ごんでいますが、浅井らの非道なことは、仏法上既に明らかであるのみならず、やがて、国法上でもはっきりすることであります。
 その間、浅井らの天才的な嘘に迷わされることなく、又、その暴力による威圧等に屈することもなく、あくまで猊下の御指南に従って異体同心し、純真な信仰の道を進まれんことを望んでやみません。

十、八木直道について

 元本宗僧侶八木直道は、僧侶として、猊下をお護りし、信者を教化育成するべき立場にありながら、数年来、元妙信講浅井昭衛らに組し、猊下にたてついて、宗門の公式決定に異議を述べたてていました。そして、去る十月十三日、解散処分を受け、かつ、暴力事件によって除名手続中の元妙信講員の招きに応じて元本部における彼等の会合に僧侶として袈裟を着て出席し、猊下に対する非難や教義上の公式決定に対する批判を行ないました。
 これに先立ち、宗務院は再三本人に注意をし、もったいなくも猊下みすがらお目どおりを許して、自制を要望されたのでしたが、八木直道は、これを振り切ってでかけたものです。
 八木は、又、昭和四十五年当時も、宗務院に対し、戒壇問題について異議を申し立て、質問状を発したことかあります。この時は、宗務院関係者の説得で質問状を徴回しましたが、その後、最近になって″宗務院から、国立戒壇が正しいとの回答を当時受け取っている″等と虚偽の発表をしております。しかし、宗務院において、八木宛にそのような回答を出したという事実はありません。こうした猊下ならびに宗門に対する反逆行為に対し、宗門としては、やむなく、本年十一月十五日付をもって攘斥処分に付したものです。
 八木は、これに対しても反抗し、もったいなくも、宗門、猊下を相手どって、訴訟をおこす構えをみせています。

十一、松本日仁について

元妙信講は、昭和三十一年頃より、妙縁寺に所属しており、松本日仁が指導教師でありました。
 松本日仁は、モの指導教師としての職責上浅井ら元妙信講員に対し正しく指導するべきであるのにこれを怠り、かえって彼等の説に迎合し、助長してきました。
 即ち、宗務院からの再三の指示があっだのに、浅井らに対する指導を怠るのみかかえって″国立戒壇が正しい、猊下は間違っている″等とかげであおっていました。
 松本日仁は、昨年十二月、浅井らが元妙信講の本部を建設した際、総代会(責任役員会)の議決を経ないで、妙録寺の重宝本尊を十万世帯達成までという約束で貸与する等の、住職としての重大な職務違反を犯しました。
 去る八月十二日、妙信講解散処分によって、十万達成ということも不可能になったことでもあり、総代からの訴えにもとづいて、宗務院から前記御本尊をすみやかに回復するようにとの命令を受けながら、これを怠り形ばかりの内容証明郵便で返還請求をしたものの、その都度″宗務院でむりやり書かされた″とか″総代会でやったことで自分の本意ではない″等と浅井に伝える始末でした。
  その間、宗務院の命令や総代会の決定に背いて、浅井らと内通し、毎日のように電話連絡をとり、叉、月に何回も密かに面談していました。
ついには、浅井らが、宗門の解散処分、除名処分を空文化すべく、妙縁寺を相手どって起こした地位保全仮処分に対して、十月三十日に、十一月三日裁判所に出頭するようにとの呼出状がとどいたのに、これを宗務院にも総代会にも内密にしておいて、浅井ら及びその代理人の弁護士と通謀打ち合わせをし、当日、裁判所に一人で密かに出頭し、浅井らの云い分どおりにしてほしい旨の認諾を行ない、そのために、地位保全の仮処分がとおって、当分の間、浅井らを妙縁寺信徒としての待遇をせざるを得ない形をつくってしまいました。
 こうした事態を憂慮された猊下は、何分、松本日仁が能化の立場にあり、老令でもあることをおもんばかって、円満に解決されようとして御苦心され、本人を総本山によんで、隠居をすすめたり、代務者を置くことを提案されたりしました。しかし、松本は、この御慈悲に応えようとしないのみか、その場では、従順に従うふりをみせたものの、寺に帰るや手のひらをかえし、″先日の話しは全部とり消す。宗務院に強制された″等と、猊下や宗務院をあざむきつづける卑劣な恥知らずな行動をとりました。
 これらの行動は、すべて浅井らとその弁護士と打ち合わせながらすすめてきたことが次第に明らかになり、又、松本が、浅井らと組んで何か法的な手続をたくらんでいることが明白になったので、宗門としては、やむなく住職罷免にふみ切り、去る十一月十八日早朝、阿部総監代務者、藤本庶務部長、高野文院長らが妙縁寺に出向き、罷免を申しわたした上でその場で、新住職に久保川法章師、副住職に石川秀頴師を任命しました。
 松本日仁は、その場ではおとなしくこれを受け、受書を書き、総代らの立合のもとて、事務引ぎつぎをはじめました。

 しかし、午後になって次第に態度を加え、ひそかに元妙信講と連絡をとって何事か企み、夕方から夜にかけて、元妙信講員百五十名を集めてその威力をかり、新住職らを暴力的に追い出すという暴挙に出たのであります。
 久保川、石川の画師と、かけつけた弁護士四名に対して、松本は浅井昭衛、その弁護士金子治男とともに、″即刻退去せよ、さもなくば実力で追い出す″と追まり押問答の結果、ついに、午前三時頃になり、騒ぎを起こさないためにひとまず久保川、石川の両師と所化二名は、妙縁寺から外出して常泉寺に宿泊しました。その際松本は、″猊下は間違っており浅井が正しい。貫主たりといえども云々の御遺戒置文を実行する。今まで私のいったことは全部ウソでこれから本当のことをいう″等とうそぶいていました。

 このように、先の仮処分事件の相手方である浅井と、その代理人である金子弁護士が、今度は、松本の代理人になってでてきたことで八百長裁判であったことは一層はっきりしましたが、それにしても暴力で住職の赴任を阻み、猊下に反逆するということは、本宗僧侶として最上の罪過を犯したことになります。
 なお、その後、久保川師より、東京他方裁判所に松本に対して、妨害排除の仮処分を提起し、申請どおり認められました。
 これに対し、松本、浅井らは、あくまで猊下にたてつく構えをみせており、陰険な策謀をこらしています。
 事情を知らない墓檀家や元妙信講員に、松本に対する同情を利用して署名集めを行なったりすることもその一つであります。
 今や彼らの本性は、はっきりとあらわれ、広宣流布を妨げんとする魔の働きであることが一層明確になったのであります。

       後記

 以上が経過の概要でありますが、客観的にみれば、一千六百万信徒の中で、ほんの一にがりの不心得な連中が空さわぎをしているにすぎないことも事実です。故に宗門として、これまで、まともにとり上げることすら、かえって増長させるのではないかと考え、特別に論評を加えませんでしたが、今日に至り、彼等の行動も先が見えてきたことでもあり、又、彼等がおびただしい部数のデマ宣伝の文書を配布しており、これが後世に誤解を残してはならないとの配慮から、あえてここにややくわしい経過を公表する次第であります。
 どうか、宗内各位におかれましては万が一にも魔に紛動されることかく、御法主上人猊下の御指南どおり、信行に邁進せられんことを祈って止みません。 
       
  以上
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