『創価学会員による脱講運動』撃退法

    【目 次】

1、創価学会員が押しかける目的
(1)三十万総登山を妨害するため 1
(2)「攻撃は最大の防御」を実行するため 1
(3)池田大作の指令を忠実に実践するため 2
(4)正本堂の解体を利用し、法華講員を動揺させるため 2
 [1]池田大作は正本堂を利用して日蓮正宗の支配を画策し、大聖人様の教えをゆがめようとしたため 3
 [2]邪教の教祖となった池田が発願主である正本堂は、清浄な大聖人様の
ご法魂である本門戒壇の大御本尊様を奉安するにはふさわしくないため 3
 [3]正本堂は池田の宗教的権威の象徽てあり、慢心の源であるため 3
(5)クロウ裁判を利用して宗門不信をつのらせるため
(6)学会内部にくすぶる「自公保連立」への不審から、学会員の目をそらすため 5
(7)法華講主体の広布への幕開けに出現する魔の働きとして 6

2、撃退法
(1)学会員の訪問パターン7
(2)まじめに対応する必要はない7
(3)門前払いしよう(油断すると勝手に家の中へ入り込むので要注意)7
(4)必ず来訪者全員の名前・主所・電話番号を尋ねる8
(5)警察へ通報しよう8
(6)署名・押印は絶対にしない8
(7)法華講の情報は絶対に教えない9
(8)どんな約束もしない9
(9)必ずお土産を渡そう9

3、破折の一例
(1)会話の主導権を握る 10
(2)学会員への質問 10
(3)離脱僧への質問 21

4、創価学会の疑難を破す
(1)「河邊メモ」について

1、創価学会員が押しかける目的

 これまで創価学会が組織を挙げて法華満員宅を回ったことは何度かありましたが、今回ほど執拗(しつよう)なことはありませんでした。
そこに、最近の学会員のせっぱ詰(つ)まった焦りが感じられます。
ともあれ、執拗に来訪する理由を考えてみましょう。


(1)三十万総登山を妨害(ぼうがい)するため

 今宗門は僧俗一致(そうぞくいっち)して、平成14年の三十万総登山に向かって大前進をしています。
正法(しょうほう)が興隆(こうりゅう)するときには必ず魔が現れる、と大聖人様はお示しですが、第六天の魔王の化身・池田大作が学会員を操(あやつ)り、我らの宿願(しゅくがん)たる三十万総登山を阻止(そし)しようとしているのです。
 この本質を見抜くことができれば、学会員が使う「救済」という言葉は、まったくの偽(いつわ)りであることが一目瞭然(いちもくりょうぜん)です。
 脱講運動の最大の目的は三十万総登山の阻止、この一点につきると言っても過言ではありません。


(2)「攻撃は最大の防御」を実行するため

 真の功徳を失った学会員が、信心の喜びで結束することは、もはや不可能となりました。
唯一、彼らが結束できるとすれば、それは架空の敵を作って攻撃することしか残されていません。
 日蓮正宗は常に正法を厳護(げんご)し、信徒の善導(ぜんどう)をはかってきました。
池田大作等の学会幹部が、正宗の各末寺に所属していた信徒を道連れにして本字から退転していったのです。
その時点で、創価学会は立正佼成会等と同じく、折伏対象の団体となりました。
 角度を変えて見れば、学会が執拗に宗門を攻撃し続けるのは、私たちの折伏を恐れている証拠にほかなりません。
まさに「攻撃は最大の防御」を地(じ)でいく哀(あわれ)れな姿なのです。


(3)池田大作の指令を忠実に実践するため

創価学会と公明党が、池田大作の意のままに操(あやつ)られていることは周知(しゅうち)の事実です。
 池田が「宗門を攻撃しろ」と命令すれば、学会員はあらゆる手段を駆使(くし)して、老人や子供にまで攻撃(こうげき)を加えます。「俺(おれ)を守れ」と言えば、「先生を守ることが正義」と洗脳された愚(おろ)かな学会員は、法を犯(おか)してでも池田を守ろうとするのです。
 池田大作は『聖教新聞』において、
   「庶民を見下す悪人だちと戦ってこそ『強者』」〔H10・5・30付]
   「邪悪と戦わずして、なんの知性か」〔H116・30付]
   「極悪と戦え」〔H11・9・3付]
などと、連日のように、宗門づ去華講攻撃を煽(あお)る過激な発言を繰(く)り返しています。
宗教団体が発行する新聞とはとても思えない、恐ろしい内容です。
このような低次元のものでも「聖教新聞は池田先生からの手紙」だそうですから、この檄文(げきぶん)を池田の命令と受け止めた学会員は、魔の手先となって宗門・法華講を攻撃しようとするのです。


(4)正本堂解体を利用し、法華講員を動揺(どうよう)させるため

 今回の正本堂解体(かいたい)に際して、学会では「800万信徒の真心を踏(ふ)みにじる行為」などと騒(さわ)いでいます。
 私たちも、解体の経緯(けいい)を正しく理解できていなかったり、「私たちが大変な思いて御供養した壮大(そうだい)な殿堂(でんどう)を、今なぜ壊さなければならないのか」等と感情的になっていると、その心に学会は魔の手を延ばそうそうとします。
 正法を信ずる者にとって最も大切なことは、
   「仏法と申すは道理なり」〔新編1179〕
と大聖人様がお示しのように、自分の感情よりも道理です。
 学会員の行動は「池田先生の首を切った」という感情がその元となっていますが、これは事実と違います。
池田自身が信徒除名(じょめい)になるような言動を繰(く)り返し宗門を挑発(ちょうはつ)し続けたのです。
あまりにもひどい言動に対して、平成4年8月、宗門は正規の手続きを経(へ)て、池田を信徒除名に付(ふ)しました。
けっして池田を憎(にく)いとか、、嫉(ねた)むなどという感情で処分したのではありません。
 私たちは感情に流されることなく、あくまでも正法(しょうぼう)の道理を根本として唱題を重ね、信心で受け止めていくことが大切てす。
 なお、正本堂建設のために奉呈(ほうてい)された浄財(じょうざい)は、御本尊様への御供養てあ、本人の信心が清浄(しょうじょう)である限り、絶大な功徳が具(そな)わることに変わりはありません。
つまり、当時の御供養や正本堂の建立自体は、けっして謗法でちなんでもないのです。
 建立後、発願主(ほつがんしゅ)である池田が宗門に圧力をかけ、私たちの真心を悪用して、正本堂の意義が失われるほどの謗法行為を犯(おか)したのです。
これが解体の最大理由です。

 念のため、以下に正本堂が解体された理由を簡単に述べます。

[1]池田大作は正本堂を利用して日蓮正宗の支配を画策(かくさく)し、大聖人様の教えをゆがめようとしたため
 
 莫大(ばくだい)な正本堂建設御供養を手に入れた池田大作は、「我こそ広言流布の中心者」という慢心(まんしん)を持つようになりました。
その結果、「学会が主(しゅ)、宗門が従(と)」との本末転倒の考えが首をもたげ、宗門支配を画策しました。
そして、御法主上人猊下や僧侶を侮辱し、さらには「正本堂こそ、広宣流布達成の戒壇である」などの邪説(じゃせつ)を吐(は)いたのです。
                                     
[2]邪教(じゃきょう)の教祖となった池田が発願主(はつがんしゅ)である正本堂は、清浄(しょうじょう)な大聖人様のご法魂(ほうこん)である本門戒壇の大御本尊様を奉安(ほうあん)するにはふさわしくないため
 
 このことに関して、「池田が発願主(ほつがんしょ)となっているから解体するならば、
学会が寄進した末寺を返せ」などと、難(なん)クセをつける学会員がいます。
しかし、本門戒壇の大御本尊様は大聖人様の出世のご本懐(ほんかい)にして、広宣流布の暁(あかつき)までは秘仏として恪護(かくご)するのであり、これを奉安する建物と末寺とては、仏法上の意義が根本的に異なります。
 実際、戒壇の大御本尊様をご安置する建物には、これまでも末入居者の立ち入りは一切許されておりません。
しかし末寺は、布教と宗教活動の実践が中心の場ですから、祭儀や法事・婚礼などで末入信者が入堂(にゅうどう)することになんら問題はありません。
この一点を見ても、末寺と大御本尊様を奉安(ほうあん)する殿堂(でんどう)との意義の違いは一目瞭然(いちもくりょうぜん)です。
 大聖人様が9年間住まれた身延を第二祖日興上人様が離山(りざん)されたのも、地頭(じとう)・波水井実長(はきりさねなが)の謗法の汚(けが)れから大御本尊様をお護(まも)りするためでした。
今回の正本堂からのご遷座(せんざ)も、その発願主・池田の大論法の汚れから、一刻も早く大御本尊様を清浄な場所へお遷(うつ)し申しあげることが必要不可欠と、御法日顕上人猊下が判断されたからです。

[3]正本堂は池田の宗数的権威の象徴であり、慢心の源であるため

 池田大作による大謗法行為が露骨に行なわれるようになったのは、正本堂建立が契機となっています。
つまり、正本堂建立は池田の宗教的権威の象徽(しょうちょう)であり、同時に慢心(まんしん)の源となっていたのです。
 正本堂を解体することは、油田の慢心と野望を打ち破(やぶ)って、いまだ騙(だま)されている学会員を覚醒(かくせい)せしめる意義があり、さらに宗門としては創価学会と永遠に決別(けつべつ)したことを広く世間に示すためでもあります。
 私たちが第一に考えるべきは、かつて日達上人が
  「戒壇の御本尊まします所は事(じ)の戒壇(かいだん)であります。建物はどうでもいいのです。戒壇の大御本尊こそ即身成仏の本懐である。これが正宗の信心である」[S49・6・18 富士学林(ふじがくりん)研究科における御指南]
とご指南されたように、正本堂という「建物」を守り続けることではなく、大聖人様のご法魂(ほうこん)である「戒壇の大御本尊様」を清浄(しょうじょう)にお護(まも)り申しあげることです。
 なお、「解体せずとも、別の用途(ようと)があるはず」との意見もあるようですが、池田の慢心の象徴と化(か)し、宗門支配の道具に利用したことが明白となった以上、ただちに戒壇の大御本尊様をご遷座(せんざ)申しあげたことは当然の措置(そち)です。
同時に、大御本尊様をご安置できなくなった正本堂は無用(むよう)の長物(ちょうぶつ)となったばかりか、大聖人様の謗法厳誠(ほうぼうげんかい)のご精神からすれば、即刻、根本霊場(こんぽんれいじょう)からは排除(はいじょ)しなければならなかったのです。
 創価学会に籍がある者は、平成9年12月1日をもって大石寺へ登山できなくなりました。
同時に、学会では登山したいと願う会員の気持ちをなだめるために、幹部がしきりに「そのうち、良い猊下が現れれば、また大石寺に登山できる」と言って誤魔化(ごまか)していましたが、これも通用しなくなったのです。

(5)クロウ裁判を利用して宗門不信をつのらせるため

 平成12年3月21日、クロウ事件に対する判決が言い渡され、東京地方裁判所の下田文男裁判長は宗門の請求(せいきゅう)を棄却(きゃく)しました。
 スプリンクル元警察官が、いわゆる「クロウ事件」当時には、アメリカ空軍に招集(しょうしゅう)されており、シアトル警察を休職中であったことは重要でないとされ、またスプリンクルが月当たり4,000ドルの手当てを支給されていたことも無視しています。
 そもそも、クロウは「連絡を受けて駆(か)けつけ、現場にいた警察官・スプリンクルから事件のことを聞いた」と法廷(ほうてい)で話しています。
しかし、スブリンクルは「クロウにそういう話はしていない。売春婦の取り調べもしていない」と証言しているのです。
このクロウ証言とスプリンクル証言との矛盾(むじゅん)を無視し、しかも警察の実務(じつむ)に合わない荒唐無稽(こうとうむけい)な手続き内容までも供述(きょうじつ)したクロウ証言を、そのまま採用したのです。
そればかりではありません。
スプリンクル証言の、学会にとって都合(つごう)の良い部分だけを採(と)って、クロウの話を補完(ほかん)までして、判決を下したのです。
 実に不可解(ふかかい)、理不尽極(りふじんきわまり)まりない判決と言わざるを得ません。
 しかも、学会が当初(とうしょ)大騒(さわ)ぎしていた裁判とは、ヒロエ・クロウが原告となり、日顕上人に60億円もの慰謝料を求めた、アメリカでの裁判だったはずです。
しかし、そのアメリカの裁判所で、「ヒロエ・クロウの後ろには創価学会がいる。しかも、これは宗門・御法主上人猊下を陥(おとしい)れるためのワナである」(要旨)との的確な判断により、その訴えは却下されました。
つまり、アメリカでの裁判は宗門側の完全勝利で、すでに終わっているのです。
 創価学会はこうした事実には一切触れず、宗門が提訴(ていそ)した日本での裁判を、いつの間にか学会が訴(うった)えているかのように錯覚(さっかく)させ、学会員を騙(だま)しているのです。
さらに、今回の不当判決をもとに、複数(ふくすう)で講員宅を訪問し、さまざまな嫌がらせをしています。
 こうした動きに対しては、私たちはこれまでの経過(けいか)をはっきりと示して、断固(だんこ)たる姿勢で破折(はしゃく)していきましょう。

(6)学会内部にくすぶる「自公保連立」への不審から、学会員の目をそらすため

 平成11年5月、自衛隊の他国に対する武力行使(ぶりょくこうし)を容認(ようにん)しかねない「新ガイドライン関連法案(かんれんほうあん)」が、自自公連立に基づく公明党の賛成によって可決(かけつ)・成立しました。
さらに、「盗聴法」「国民総背番号制」という、戦時中の「治安維持法(ちあんいじほう)」の復活を彷彿(ほうふつ)とさせるような法律の成立にも、公明党は次々と加担(かたん)しました。
 平成12年4月、小渕総理の突然の発病により新政権が発足するにあたっても、公明党の賛成がなければ、森内閣は成立しませんでした。
その後、「自自公」は「自公保」と名称を変え、公明党は以前よりも強力に、政権に影響(えいきょう)を及ぼすようになっています。
 「平和と文化」「戦争反対」が謳(うた)い文句の公明党=創価学会が、このように180度の路線変更(ろせんへんこう)をしたことは、多くの会員に動揺(どうよう)を招(まね)きました。
事実、内部から多くの反発の声が巻き起こっています。
 こうした内部批判をかわすことも、法華講に対する攻撃理由のひとつと言えます。


(7)法華講主体の広布への幕開けに出現する魔の働きとして

 大聖人様が、
   「魔競(まきそ)はずば正法(しょうぼう)と知るべからず」〔新編986]と仰せのように、正法興隆(しょうぼうこうりゅう)のときには必ず魔が競ってきます。
 もとより私たちは、間もなく平成14年に宗旨建立七百五十年という千載一遇(せんざいいちぐう)の大佳節(かせつ)を迎えます。
このときに、三十万総登山を成就(じょうじゅ)してご報恩申しあげることこそ、私たち一人ひとりの人生における最大の喜びになることはまちがいありません。
 この一大目標を達成していく上で、創価学会からの妨害(ぼうがい)を受けるのは、避(さ)けては通れないことです。
なぜならば、これが魔の働きそのものだからです。
 今こそ私たちは、罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)と功徳善根(くどくぜんこん)を積む絶好の機会ととらえて、魔を魔と見抜き、彼らの蠢動(しゅんどう)を断固粉砕(だんこふんさい)してまいりましょう。

2、撃退法

 (1)学会員の訪問パターン

 学会員が近づいてくる手□には、おおむね次のようなパターンがあります。
 最初は「なつかしいね」等と、笑顔で接近してきます。
ときには菓子折りや花束を持ってきて、私たちの歓心(かんしん)を買おうとすることでしょう。
 これを拒絶(きょぜつ)すると、特に婦人部員などが急に泣き出して「昔は一緒に学会で頑張ったじゃないの」などと情(じょう)に訴(うった)えようとします。
 それも通用しないと分かると、一転して恐ろしい形相(ぎょうそう)となり、「地獄へ堕(お)ちるぞ」などと、容赦(ようしゃ)なく脅迫(きょうはく)するのです。

(2)まじめに対応する必要はない

 脱講運動は学会上層部からの指令であり、完全にマニュアル化されています。[資料1−1,2]に明らかなように、学会員が来訪(らいほう)する目的は、私たちを法華講から抜(ぬ)けさせるため、つまり正しい信心から退転させることです。
ですから、まじめに対応する必要はありません。
 たとえ「話がある」「聞きたいことがある」と言ってきても、もともと私たちの言うことを耳や心に入れようとはしないのですから、まじめに対応しても無駄骨(むだぼね)を折るだけです。『報恩抄送文』に、
  「法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候(そうろう)ぞ」[新編1037]
と仰(おお)せられているとおりです。

(3)門前払いしよう (油断すると勝手に家の中へ入り込むので要注意)

 聞くところによると、現在の創価学会では点数制を導入しているそうです。
たとえば、講員宅の玄関に入ったら同点、座敷にあがったら同点と、彼らの活動をポイントで競(きそ)わせているのです。
 もしも学会員が玄関先にやってきたら、「あなたにはポイントをあげません」とても言って、追い返しましょう。

(4)必ず来訪者全員の名前・住所・電話番号を尋ねる

 押しかけてきた学会員全員の名前・主所・電話番号を尋(たず)ねて、記録しておくことが大切です。
また、寺院や支部役員に学会員が来訪したことを報告しましょう。
 自分の氏名を明かさない、あるいは明かせないような人と話す必要は、世間の常識から考えてもまったくありません。

(5)警察へ通報しよう

名前を名乗れない人間と話をする必要はないのですから、即刻(そっこく)帰るよう言うべきです。
それでもしつこく帰らなければ、寺院や支部役員に連絡し、応援を要請(ようせい)することもよいでしょう。
 また、「今、創価学会の人が家の前をうろつき、身の危険を感じている」と警察へ通報するのも、ひとつの方法です。


(6)署名(しょめい)・押印(なついん)は絶対にしない

 
なかには「脱講届」という文面を隠(かく)して、「名前だけ書いてくれ。書いてくれたら、すぐに帰る」などと、詐欺(さぎ)まがいの行為に出る学会員もいます。
 また、「登山には、行きません」「寺院には、行きませんj「塔婆供養(とうばくよう)は、いたしません」「法華講を、やめます」[資料(2)]と書かれた文書に、無理やり押印(おういん)させようとする場合もあります。
 ですから、学会員の持参する用紙ににに絶対に署名したり押印したりしてはいけません。



(7)法華講の情報は絶対に教えない

 
学会の内部文書に「救済報告書」[資料(3)]・「名簿」[資料(4)]などという脱講運動の報告書があります。
これは、学会員が私だちとの会話から得た情報を記入して、以降の脱講運動に悪用するためのものです。
ですから、寺院や支部内の情報を、不用意に□にしないようにしましょう。
「行事予定表」や「三十万総登山参加決意書」「支部連絡網]「役員名簿」「支部の機関紙]などは、絶対に見せたり渡したりしてはいけません。

  
(8)どんな約束もしない

 学会員は「今度、、離脱僧(りだつそう)と会ってほしい」とか「裁判で負けたら、学会に戻れ」などの約束事(やくそくごと)をとりつけようとします。
私たちが誠意をもって対応しても、結局、悪用されるだけですから、彼らの口車に乗ったり、安易(あんい)な約束をしないようにしましょう。


(9)必ずお土産(みやげ)を渡そう

 
私たちが話し合いに応じなければ、学会員は『聖教新聞』『創価新報』怪文書などを手渡して「読んてね」と言うことでしょう。
本来、受け取る必要もありませんが、こちらの方から『大白法』や『慧妙』『*1○○○○」などを学会員に渡してあげましょう。
(*1、地域が限定できるおそれがあるので、伏せさせてもらいました。)

3、破折の一例

(1)会話の主導権を握る

 
「撃退法」で説明したとおり、学会員が押しかけてきても追い返すべきですが、仮に彼らと対話をすることになった場合こは、以下の点に注意しましょう。

◆会話の主導権(しゅどうけん)を握(にぎ)るため、私たちが学会員の質問に答えるのではなく、私たちから学会の矛盾点(むじゅんてん)を質問しましょう。

◆私たちの質問に対する返事に困(こま)って、学会員が黙(だま)り込(こ)んだら、同じ質問を繰(く)り返しましょう。
それても答えなければ、「分かりません」「勉強不足でした」等と認めさせましょう。

◆旗色(はたいろ)が悪くなると、学会員はすぐに話題を変えようとします。
しかし、すぐに元の話に引き戻し、徹底的に追及しましょう。

(2)学会員への質問


○学会は、牧日常三郎氏と戸田城聖氏が、日蓮正宗の信徒団体として作った組織です。
『創価学会規則』に「日蓮正宗の教義に則り…」とあるとおりです。
日蓮正宗の教義を信じて、日蓮正宗の仏法を広言流布することがその使命だったはずですが、どうなのてすか。

《解説》もともと学会には、独自の本尊も教義も修行もありません。
すべて日蓮正宗の信徒となってから、宗門に代々伝わる唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈(けちみゃく)を基盤(きばん)とした御本尊・教義を信受し正宗信徒としての修行を実践してきたのです。
 たとえ、彼らが「日蓮正宗」を「大聖大」と置き換えて云々(うんぬん)しても、大聖人様の仏法は日蓮正宗のみに伝わっているのですから、所詮(しょせん)同じことです。
こういうことを世間では「詭弁(きべん)」と称するのです。


○平成3年11月に学会が破門された際、秋谷会長は「魂の独立」と発表し会員も喜んでいました。
しかし、学会員は「宗門から切られた」と恨みごとを言っており、矛盾しています。
破門されてうれしいのですか、それとも悔しいと思っているのですか。

《解説》宗門の学会破門(はもん)は、学会側か仕かけてきたことに対して取られた措置(そち)です。
 学会には昭和52年以前から、宗門を支配下に置くか、それとも独立するか、という邪悪な魂胆(こんたん)が存したことは、山崎・八尋(やひろ)文書、北条文書などに明らかです。
この悪だくみを一般会員の目から隠(かく)しつつ、平成2年に突然、むき出しにしてきたのです。
しかも、その一方で「池田先生を嫉妬するあまり、宗門が一方的に切った」と、すべての学会員に被害者意識を殖えつけました。
ウソも甚(はなは)だしいとは、このことです。
 隠(かく)していた悪意は、いずれ白日(はくじつ)のもとにさらされます。
特に、日蓮正宗が存在する限り、彼らは「いつかは学会員が正義(しょうぎ)に目覚(めざ)める」とおびえ続けなければなりません。
 ここにも、異常なほどに宗門攻撃を続ける理由があるのです。


○学会の「ニセ本尊」は日寛(にちかん)上人ご書写の御本尊様のコピーですが、日寛上人は総本山大石寺の御歴代上人です。
 「大聖人直結」を主張するならば、第二祖日興上人以下の御歴代上人から完全に手を切るべきではありませんか。

《解説》大聖大→日興上人→日目上大…日寛上大…日達上人→日額上人と続く御歴代(ごれきだい)上人に流れる伝法をもって、富士門流(ふじもんりゅう)・大石寺門流・日蓮正宗と称するのです。
 総本山に伝わる大聖人様よりの血脈を否定する者は、必ず「大聖大直結(ちょっけつ)」を主張します。
しかし、大聖人様は『身延山付嘱書』(みのぶさんふぞくしょ)に
  「釈尊五十年の説法、白蓮阿闇梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家其の輩は非法の衆たるべきなり」〔新編1675〕
と仰せられています。
日興上人も『佐渡国法華講衆御返事』に重ねて、「たれはしやう人のぢきの御でしと申やからおほく候。これらの人はうぼうにて候也」[歴代法主全書1− 1 8 4 ]

と仰せになり、唯授万人の血脈から離れて「大聖人直結」を唱えることは、諦法であると誠(いまし)められているのです。


○学会では恨(うら)み・呪(のろ)いの唱題をしているそうですが、他人の不幸を願うような祈りは大聖人様の教えに反します。一般的に見ても、それは宗教とは言えません。このような団体を、世間ではカルト(狂信集団)と称して危険視しています。
 学会の考え方は、「オウムを批判する人は、ポアしてあげた方が幸せ
だ」という、オウム真理教の姿とまったく変わらないではありませんか。

《解説》学会では組織をあげて、御法主日顕上人猊下が地方へ出向かれる際に、呪
いの唱題を実施(じっし)しています。たとえば、茨城県では「九・二六御祈念 目頭撲滅悪の○○寺に天の裁きを! 大雨・大風 黒雲 熱風 雷」〔資料5−1,2〕と、栃木県では「私たちの題目で、天魔日顕の不法侵入を、断固阻止しよう!魔巣、○○寺
上空に天変地夭」との文言を記した唱題表〔資料6〕を配布して、呪いの唱題をさせていました。
また、中部でも〔資料7〕等を配布して、日常的に学会員に呪いの題目をあげさせているのです。
 表向きは平和・文化・教育を主張しながら、実際には呪いの題目をあげるとは、仏教者にあるまじき二面性です。
いな、すでに現罰による「頭破作七分」の悩乱の姿を露呈していると言えます。


○『創価新報』で、「導師部本尊(葬儀の際に奉掲する御本尊様)はニセモノだ」と主張し、導師部本尊様をご書写された日顕上人を「謗法のニセ法主」と誹謗しています。
ならば、導師御本尊様をご書写された御歴代の御法主上人はすべてニセ法主となるのですか。
 学会が認めている日寛上人も導師御本尊様をご書写されています。
すると、日寛上人も「謗法のニセ法主」ということになります。
にもかかわらず、目寛上人がご書写された御本尊様をコピーして販売し、会員に拝ませていることは、矛盾しないのですか。

《解説》御法主上人を誹謗しようという悪だくみをもって、その場限りのいい加減な考えで御本尊様のことに□出しすると、自分で自分を否定することになってしまうのです。
 そもそも、御本尊様に関する事柄は唯授一人のご相承に基づく大事であって、私たち一般僧俗に論じられるわけがありません。
その資格もなければ、知識さえもないのです。
 実際、御本尊様のことを得意げに論じていた学会の新階某(しんかいなにがし)も、授与書きと添え書きの区別を知らず、御法主日顕上人猊下から完膚無きまで破折されました。
ですから、御本尊様のことに関しては、一般僧俗がとやかく口出しをすべき問題ではありません。
第二祖日興上人をはじめ御歴代上人が、大聖人様よりの血脈相承を基として、時代にかなった御指南をされるのてあり、私たちはひたすらその御指南を仰いで信心をしていくことが大切なのです。


○戸田会長夫人が平成12年3月6日にお亡くなりになりました。
葬儀は日蓮正宗の僧侶の導師で、日蓮正宗の化儀にしたがって厳かに執り行なわれました。
その際、知人として参列していた秋谷会長・森田理事長・池田博正(大作の長男)・和泉覚・辻武寿などの学会最高幹部たちは、日顕上人ご書写の導師御本尊様に向かって読経唱題をしていました。
 みすがら謗法・ニセモノ呼ばわりした日顕上人ご書写の導師御本尊様を拝む、彼らの言行不一致の姿を、どのように思いますか。

《解説》戸田会長はご家族に「ご僧侶を大切にすること、そして朝夕の勤行は必ず行なうように」と遺言されたそうです。
戸田家ではずっとこの遺言を守って、現在でも日運正宗の信徒としての信仰を続けられています。
 日蓮正宗の化儀に則って行なわれた葬儀に参列し、念珠を手にかけて一生懸命に読経唱題をしていた秋谷以下の大幹部たちは、もしかすると内心では日蓮正宗の葬儀で自分ち送ってほしいと願っているのかもしれません。
 私たち法華講員が、どうしても「学会葬」に参列しなければならないときには、謗法与同罪を嫌って、絶対にニセ本尊に向かって合掌したり、エセ導師に合わせて読経唱題はするようなことはしません。


○学会では「ニセ本尊」をコピー・販売していますが、いったい誰が許可したのですか。
誰の許可もいらないのであれば、大聖人様を信じている人はいつでも御本尊様をコピーして配付してもよいのですか。
 日蓮宗などでは大聖人様ご真筆の御本尊様のコピーを土産物として売っていますが、それと学会の行為とは、いったいどこが違うのですか。

《解説》勝手に御本尊様をコピーしたり、販売してよいという立証は、御書はもちろんのこと、御歴代上人の御指南のどこにもありません。
以前に宗門から破門された顕正会(元妙信講)は、第55世日布上人の御本尊様を30以上の会館・事務所に掲げているそうです。
顕正会では日布上人の御本尊様を1〜2体持っているだけて、元本部職員の手記によれば、同上人の御形木御本尊様を数多く保持しているとは発表されておらず、顕正会もニセ本尊を作ったのではないかとの疑惑が持ちあがっています。
 所詮、学会と顕正会は同類であり、学会に顕正会を批判する資格はありません。
 あくまでも御法主上人猊下がご認可された御本尊様でなければ、戒壇の大御本尊様からの功徳は絶対に流れ通(かよ)わないのです。


○学会では「宗門は勝手に正本堂を解体した。
建立のときに出した御供養を返せ」などと言っています。
これは御供養の意義を理解した上での言葉ですか。

《解説》まず最初に明らかにしておきたいことは、正本堂御供養に参加したのは学会員だけではないということです。
当時の学会員と法華講員・僧侶・寺族が真心から御供養を行ないました。
つまり、すでに脱会して法華講員となっている私たちも、御供養申しあげたのです。
もとより御供養とは、純粋な心から御本尊様・大聖人様をひたすら敬い尊ぶ気持ちを金品にこめて、お供え申しあげるものです。
その真心を御本尊様・大聖人様がお受けくださり、そこにおのずと絶大な功徳が具わるのです。
 ところが、御供養したあとの事柄を云々することは、御供養申しあげたときの純粋な心をみすがら否宅することになります。
卑近(ひきん)な例ですが、「あなたに、これだけのお金をあげるから、自由に使ってください」と言いながら、あとになって「私のあげたお金をそんなことに使って、とんでもない」と怒ることと同じことです。
世間でも、とても通用することではありません。
 まして池田大作は、自分ひとりが正本堂建立の大功労者であると偽り、また宗門乗っ取りや数え切れない謗法行為を犯して、大御本尊様に敵対する大謗法者となったのです。
ですから、その悪の根源を絶つために正本堂を解体したのです。
したがって、この解体によって御供養された方々の真心が踏みにじられたわけではありません。
むしろ、宗門は御供養された方々の尊い信心を活かすため、そして大法護持のための措置として、正本堂を解体したのです。
学会員に対して、「解体せざるを得ない状態にした池田大作に、責任をとってもらいなさい」と追及するのも、ひとつの方法です。
 そもそも学会員は、今回の問題が始まって以来、ずっと「登山しなくてもよい」と言って、戒壇の大御本尊様に背を向けていました。
今さら何を言いたいのでしょうか。


○平成3年当初、学会員は口をそろえて「3年間がまんすれば、猊下が替わる。
必ず良い猊下が出て、また大石寺へ参詣できる」と言っていました。
あれから随分、年月が経っていますが、学会員としてまた登山できる日が来ると、本当に思っているのですか。

《解説》学今では、今回の問題が起こった当初、「絶対、会員を総本山や寺院に参詣させない」と画策しあらゆるデマを流しました。
この他にも「日顕上大は病気で歩けない」とか「総本山には暴力団や野大がうろついている」「登山したら、大石寺から数万円の請求書が届いた」というような、子供だましのウソが全国・全世界の学会組織にばらまかれたのです。
実に卑劣な行為ですが、ウソをつかなければ組織を維持できないとは、なんとも情けない話です。
 しかし実際に総本山へ登山して、学会のウソに気づき、組織に愛想をつかして脱会した多くの講員がいることを思えば、学会がデマを流せば流すほど、それが法華講の発展に繋がっていくのです。


○学会では「大石寺は桜を伐った」と誹謗しています。
ところで、三重県の「中部池田記念墓地公園」を造成するときに、学会はいったい何本の本を伐ったのですか。

《解説》総本山の桜が一部伐採されたのは、寺地城整備のためにやむをえず行なわれたものです。
しかも、これによって整った総本山の景観は、以前にも増してすばらしい壮観さを備えました。
桜の季節に登山された方々が、実際に見聞しているとおりです。
 一方、学会では各地の山林を切り開き、巨大墓園を造成して学会員に販売しています。
しかも、必要最小限の開発をするならまだしも、2〜3基と学会員に購入させた例もあることから、営利目的で乱開発をしたことが明らかです。
指弾されるべきは学会の方なのです。


○学会は「猊下が福島の禅寺に阿部宗の墓を造ったから謗法だ」と言いますが、村の共同墓地にある阿部宗本家の墓地に、お題目が刻まれた墓石を建立したのです。
現在でも、お塔婆を建てて、しきみが供えられています。
いったい、どこが謗法なのですか。

《解説》本宗僧侶が認めたお題目が刻まれている墓は、どのような場所にあろうとも、謗法とはなりません。
しかち、福島の阿部家の墓は宗派を問わない場所に建立されているのですから、なおさらです。
 まったく謗法を犯されていない御法主日顕上人猊下に対して「謗法の法主」などと悪□を言うのは、十四誹謗のすべてに該当します。


○学会は、『日興遺誡置文』の
  「時の貫主たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事」〔新編1885〕との御文を引いて「謗法を犯した猊下には従ってはならない」などと言っています。
しかし、回書には、「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を催くべき事」という御文もあります。
このことを、どのように考えるのですか。

《解説》『日興遺誡置文』には「時の貫主たりと雖も…」に続けて、「衆義たりと雖も、已法に相違有らば貫首之を摧くべき事」との御文が並記されています。
現在の状況にあてはめてみると、「たとえ全国何百万人の学会員の総意であっても、それが仏法に背くと御法主日頭上人猊下が判断されたならば、その意見を御法主上人が排除すべきである」という意味になります。
 また、ふたつの固文における述語が「用ふべからざる」と「摧くべき」とに使い分けられており、この意味の違いにも注目すべきです。
 ともあれ、このように一見すると相反するようにもとれる条項かおることは、そこに重要な事柄を暗示されている証左です。
これは読めば誰にでもわかる、というものではありません。
『遺誡置文』自体、日興上人が日目上人をはじめとする未来の御法主上人・僧侶に対して訓戒として遺されたものであり、なぜこの書を留め置かれたのか、その理由を考えるべきです。
ですから、これらの文言をもって、時の御法主上人を批判するのは大きな誤りとなるのです。
 まして日興上人の『遺誡置文』をもって、日興上人以来の血脈を承け継がれる御法主日顕上人猊下の退座を求めるなどは、すでに悩乱している姿てあり、大謗法の輩となりはてた証拠にほかなりません。


○学会が訴えていたアメリカでのクロウ事件の裁判ては、学会側か負けたことを知っていますか。
しかも、日顕上人が「アメリカ大使館で事情聴取を受ける」と『創価新報』で報道していましたが、日顕上人が大使館に出頭されたニとはありません。
これらの結果をどう思いますか。

《解説》学会が裁判を起こすと、すぐに『創価新報』などで大々的に報道します。
しかも、裁判の経過や勝ち負けはどうでもよく、ただ宗門のイメージダウンをはかることが目的なのです。
つまり、裁判が起こされれば、ほとんどの人が「訴えた人は被害者、訴えられた人は悪人」と受け取りがちになることを悪用しているのです。
 その証拠に、学会はおびただしい数にのぼる裁判を起こしましたが、その一つひとつの経過や最終判決を、詳細に記事にしたことはありません。
まして、宗門則の主張をそのまま載せたことは一度もありません。
新聞とは名ばかりで、不公平・不平等のプロパガンダ紙(=宣伝紙)、それが『創価新報』です。
 また、学会員が鬼の首でも取ったかのように、日本での一審の不当判決を持ち出してきたときは、アメリカでの学会側(ヒロエ・クロウ)の訴えはすでに却下されている。
つまり学会則の完全な敗北で終結していることを教えてあげましょう。
同時に、学会の大本営的な報道に踊らされていることも指摘しましょう。


○広言流布とは三大秘法の南無妙法蓮華教を弘めることです。
しかし、学会には大御本尊様がありません。
よって、事の戒壇の意義が具わらな、いのですから、いくら題目を唱えても、それは本門の題目になりません。 
結局、三大秘法が整足していないのです。
 学会ではいったい何を広言流布していくのですか。
また学会流の広布が成就したとしても、その暁の戒壇には何を祀るのですか。

《解説》学会がどんなに理屈をつけようとも、彼らには本門戒壇の大御本尊様はありません。
会員の家庭に祀られた学会配布の本尊さえ、ニセものです。
 そもそも、宗教法人「日蓮正宗」と宗教法人「創価学会」とは、すでに関係がなくなった、まったく別の教団です。
つまり、学会は霊友会や天理教等となんら変わらないのです。
 百歩譲って学会のニセ本尊を認めたとしても、それは日寛上人が本門戒壇の大御本尊様をお写し申しあげた御本尊様がその元であり、本体はあくまで日蓮正宗総本山大石寺にまします大御本尊様です。
このことを絶対に忘れてはいけません。
 ですから、学会が日蓮正宗の御本尊様のお写しを拝んでいるという現在の状況は、霊友会や天理教の信者が日蓮正宗の御本尊様を拝んでいることと同じです。
 また、所詮彼らが広言流布と言っても、池田大作の狂った考えを弘めることしかできません。
戸田会長は、「広言流布を思いちがいしている人がいるのです。広宣流布は、日本じゅうだいたいの人が信心しても、本門戒壇を建立しなければ、広宣流布の目的は達せられません」(戸田城西聖全集4-123)と指導しています。
 大聖人様の「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」〔新編1675〕との御文と、日興上人の「弘安二年の大御本尊は、・・・本門寺に懸け奉るべし」〔新編1883]という御指南をあわせて拝すれば、広布の暁には富士に本門寺の戒壇を建立し、
そこに戒壇の大御本尊様をご安置することが、宗開両祖のご遺命であると分かります。


○私たちが学会員を破折すると、「他の宗教のところへ行け」と言う人がいます。
もしあなた方が、天理教の信者から「天理教の信者を折伏するのはやめろ」と言われたら、そのとおりにするのですか。

《解説》日蓮正宗から破門されたとき、「魂の独立」と喜んでいたのは、ほかならぬ学会員自身です。
にもかかわらず、「他の宗教のところへ行け」と言うのは、あまりにも独立したという自覚がなさすぎます。
 彼らの言う「独立」の実際の意味は、生命の上で日蓮正宗とはまったく関係がなくなった、ということです。
つまり、学会はすでに真言宗やオウム真理教と同様に、折伏される側に成り下がったのです。
これは現前たる事実です。
 しかも、学会は現在も大御本尊様と血脈付法の御法主上人を攻撃し続けているのですから、どの団体をおいても最優先で折伏をすべきは創価学会なのです。


○『創価新報』では、日淳上人はこれまでずっと「日淳上人」と呼称されていますが、日達上人は最近になって「日達法主」と言い換えているようです。
この変更は何を意味するのですか。
ひょっとすると、ついに日達上人ご書写の御本尊様までニセ本尊と交換させるのですか。

《解説》学会がニセ本尊を作製した当初、「日達上人は学会を守った良い猊下。日顕上人は悪い猊下」として、日顕上人ご書写の御本尊様を、半ば強制的にニセ本尊と交換させました。
ところが最近になって、日達上人の「日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広言流布とは言えないのであります」〔S49・6・18〕等の御指南があったことを知らされ、これが鼻につき始めたのか、それとち日顕上人
ご書写の御本尊様の交換をほぼ終えて、次の段階へ進む手始めとしたいのか、日達上人を「日達法主」と呼ぶように変えています。
 そういえば、ニセ本尊が出回った早い時期から、一般会員には御本尊様を交換させていながら、大幹部たちは「うちは日達上人の御本尊だから、そのままでいい」と言って、必死に交換を断り続けていました。
彼らがニセ本尊に交換することも、いよいよ時間の問題となってきたようです。
所詮大幹部や古参学会員といえども、池田の商魂に勝てるわけがなにのです。


○幹部から「日蓮正宗より他の宗派の方がましだ」と言われて、葬儀を念仏宗で出した学会員がいます。
 大聖人様は「念仏無間」と仰せですが、大御本尊様を護持している日蓮正宗よりも、無間地獄に堕ちる「念仏宗の方がまし」とは、どういうことですか。
これは大聖人様に対する師敵対ではありませんか。

《解説》学会では、これまで正宗寺院に葬儀を依頼させないように「僧侶はいらない。真心から同志が送ってあげれば成仏てきる。大切なのは本人の生前の信心」と主張し、学会葬(友人葬・同志葬)を強力に推進してきました。
 しかし、僧侶憎しの一念から「日蓮正宗よりは念仏宗の方がまし」と指導することは、一般会員の成仏などどうでちょいと、白状したようなものです。
そして、とにかく寺院へ行かせないために、友人葬なるものを適当に作りあげたことを、暴露していることにもなるのです。


○学会では昔から「総本山の大御本尊様が根本中の根本」と指導し、実際、多くの会員が幾度となく登山してきました。
 ところが、現在では「自宅の御本尊も大御本尊も同じ」と指導しています。
このことに疑問を持ちませんか。
 もし今までの指導がまちがっていたならば、指導してきた池田大作自身が正式に謝罪し訂正すべきと思いますが、いかがですか。

《解説》『折伏教典』には、明確に「御書には、ただ題目だけ唱えていれば本尊はなんでもよいとは、どこにも書かれていない。
日連大聖人の仏法は三大秘法である。
三大秘法とは、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇のことである。
この三秘整足しない宗派は邪宗邪義である」〔改訂32版336]と書かれています。
戸田会長も「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない」[戸田城聖全集3-490]と指導しています。
 学会が日本最大の宗教団体に成長することがてきたのは、組織をあげて登山会を運営し、戒壇の大御本尊様まします総本山へ登山参詣をしてきたことに、大きな要因があります。
学会員が口では「大御本尊様を根本にしている」と言っても、実際に登山参詣しなければ、大御本尊様を外護していることにはなりません。
それどころか、現在の姿は明らかに、大御本尊様に背を向けているのです。
 大御本尊根本の信心を持続しなければ、やがて功徳は尽き、学会組織は崩壊の道をたどることでしょう。


○「自宅の御本尊に勤行唱題をすればよい。登山したり寺院へ行く必要はない」と言うならば、学会の会館や拠点へ行く必要もないでしょう。
 ですから、学会の会合に集まるように指導することは、矛盾していませんか。

《解説》池田大作らは、学会員が末寺に近づくことによって、やがて真実を知り、学会の謗法に目覚めることが恐ろしくて仕方がないのです。
ですから、自分たちの主張が矛盾していようが、無理があろうが、とにかく寺院へ近づけないために、あらゆる手段と手□を用いて学会員を洗脳しています。
 寺院は「信心修行の道場」として、きわめて重要な意義を持っています。
法華経の『勧発品』には、「この人はまちなく、まさに道場に詣でて多くの魔界の衆生を破し、仏の悟りを得るであろう」〔趣旨・新編法華経605〕と説かれています。
また大聖人様も、藤九郎(とうくろう)が父・阿仏房(あぶつぼう)の遺骨を首にかけて身遠山へ参詣されたとき、「法華経の道場に此をおさめ、…」〔千日尼御返事・新編1478〕と仰せられて、
当時の身延山大遠寺を「法華経の道場」と規定された上で、藤九郎の行為の功徳深重なることをご教示されています。
 御法主日顕上人猊下も、これらの意義を踏まえて、つねづね、「この寺を帰命依止(きみょうえし)の道場として常に御参詣になり、また折伏弘教の法城としていただきたい」〔大日蓮S60・12−51〕等とご指南されているのです。
 これらの文証を拝しても、寺院に参詣することがそのまま、成仏の境地を開く大功徳につながることは明らかです。


(3)離脱僧への質問

○あなたは日蓮正宗から離脱したそうですが、いったい何宗の僧侶になったのですか。
本来、宗門から離れたならば、袈裟と衣を御法主上人へお返しするのが筋てはないのですか。
今、身につけている袈裟・衣はいったい誰のお許しを得ているのですか。

《解説》離脱した寺院では、住職(代表役員)員外の責任役員に学会幹部が名前を連ねています。
しかも住職に任期制が導入されており、任期満了のときに役員である学会幹部から好感を持たれていなければ、離脱僧は寺院を追い出されると、容易に推測できます。
つまり、離脱僧は学会に操られ、実質的には学会に雇われていると言っても過言ではないのです。
 離脱僧たちが学会系の新聞に登場し、いろいろと宗門の悪口を並べ立てているのは、それをしなければ、いつでも首を切られる立場にあるからです。
みずから選択した道とはいえ、実に哀れな姿です。


○あなた方は「日蓮正宗を改革する」と言っていますが、もし改革が必要ならば、どうして宗門の外へ出てしまったのですか。
離脱する前に、宗内でなんらかの提言を行なってみたのですか。

《解説》離脱僧の多くは離脱する直前まで、法華講員や他の僧侶を前にして、公然と学会批判を行なっていました。
 このことからも分かるとおり、彼らは「日蓮正宗を改革するために命をかけている」わけてはないのです。
所詮、保身のためにコロコロ主張が変わる、無節操極まりない人間なのです。
 なかには、宗内にいるときから宗門の情報を学会に流し、いよいよ自分がいられなくなってから学会へ身を寄せて、きれいごとを並べているだけの者もいます。


○学会では「僧侶は必要ない」と言っています。
その上うな学会に身を置く自分に、矛盾を感じませんか。

《解説》700年伝統の教義や化儀をことごとく否定した以上、今さら宗門と学会が元の関係に戻れるわけがないことは、離脱僧も百も承知でしょう。
にもかかわらず、「出家は必要はない」と主張する学会に身を置き、池田大作の指示のもとに、学会員洗脳の手助けをしているのです。
 いわば、「僧侶のなかにも、学会に同調する人がいる」とアピールするために、学会に袈裟・衣を着けた人形として学会に利用されているだけで、実際は自分の首をみすがら絞めているようなものです。


○学今では「寺院での行事は、江戸時代の檀家制度の弊害」と断定していますが、あなた方は寺院で学会員の塔婆供養や法事を受け付けているそうですね。
無節操そのものではありませんか。

《解説》「どうしても僧侶の導師が必要」という学会員のために、離脱寺院では葬儀や法事などを行なっているそうです。
近くに離脱寺院がない地域には「会館寺院」という、寺院なのか会館なのか、わけの分からないものを新設し、管理人のように離脱僧を置いて法事等を執行しているようです。
 学会員からの塔婆供養を受け付け、法事を行なったのちに、離脱憎が「本来はお寺に来る必要はないし、塔婆供養も必要ない」という挨拶をしていたと、聞きました。
まさに頭破作七分の姿そのものです。
 これらの状況から、学会からその場しのぎに悪用され、利用価値がなくなれば捨てられる、という離脱僧の運命が予測できます。
 以上は質問の一例です。
こうした内容に沿って、とにか引言心の基本、創価学生の信仰の狂いについて、とことん追及することが大切です。

4、創価学会の疑難を破す
    
(1)「河邊メモ」について
 メモとは本来、本人の主観に基づいて断片的に書かれるものです。
自分が分かればよいのですから、「誰が」といった主語や「どうした」という述語が省略されることは、よくあります。
 このメモでも「大御本尊のは偽物」と表記されており、誰がそのように主張したのか主語は記されていませんし、「のは」というおかしな表現になっています。
これは、御法主日顕上人猊下と河邊師が言われているように、当時、あるいはこれから起こるであろう「大御本尊は偽物」という他宗からの疑難に対して、「そうした疑い自体がまちがい」として
日顕上人が話されたものを、河邊師がメモに記したというのが真相です。
 本宗に籍を置く僧侶が、まして当時教学部長という要職にあった日顕上人が、大御本尊様はニセモノであるなどと発言する理由も動機もまったく見当たりません。
 今回の一連の騒動で判明したことは、かつて池田大作が「板御本尊、何だ! ただのモノです」と発言しながら、今なお「本門戒壇の大御本尊なしこは、創価学会の信仰が成り立だない」と暗に認めたことです。


                 【おわりに】

 現在の創価学会は、、オウム真理教と大差なく、自分たちに対して批判的な者には大量のマスメディアと口コミ、つまりペンと数の暴力で抹殺しようとしています。
 しかし、オウム真理教がそうであったように、こうした創価学会の邪悪・反社会的な体質が、国民の反発を招かないはずはありません。
しかも創価学会内にあっては、執行部に疑いを持つ人が増加しており、巨大組織は確実に崩壊の道をたどっているのです。
 現に、一般会員の証言によると、平成2年以前には常時30人は集まっていた地区の会合が、今では3〜4人しか集まらず、会合そのものが開けない状態になっているそうです。
 謗法厳誠という視点から見ても、日蓮正宗を離れ、大御本尊様を誹謗する者の末路として、頭破作七分の現罰を蒙っていることは明白です。
 平成9年2月11日寸『聖教新聞』〔資料8〕で、秋谷栄之肋は「謗法払いしてからでないと御本尊を安置してはいけないという考え方を変え、もっと幅広く、まず御本尊を安置し、拝み始める。…したがって、神棚(かみだな)や仏具等は取り除く必要はありません」と指導しています。
また、、平成11年9月9日付『聖教新聞』には「友の質問に答えて一秋谷会長と語る」〔資料9〕と題して「地方の『祭り』の考え方」について述べています。
そのなかで、秋谷は「祭りにおいて御輿を担がざるを得ない場面があったとしても、…それをもってただちに謗法とは言えません」などと指導していますが、このような指導を目にしても、誰もおかしいと思わないほどに、創価学会全体が完全に謗法化してしまったのです。
 平成11年10月10日に執り行なわれた立正佼成会の創立者・庭野日敬(にわのにっきょう)の葬儀に、創価学会から西口・正木副会長が、公明党からは鶴岡洋副代表が、それぞれ出席〔資料10『○○新聞』『○○新聞』〕しています。
その目的は新聞報道のとおりです。
「関係改善を図る」との言い逃れは「今まては折伏して、申しわけなかった。
これからは折伏をせずに、友好・協調をめざすので、よろしくお願いしたい」と言っていることと同じです。
 祭りへの参加を認めたり、邪宗教に媚を売る彼らの狙いは、ひとえに選挙対策にあります。
組織が弱体化し、これ以上の会員増加が見込めない以上、池田大作の権威・権力を維持するために選挙で勝つには、他宗教に門戸を開かざるを得ないのです。
 また、学会は組織に危険を感じたときほど、会員の目をそらすために、架空の敵を想定して攻撃をあおります。
今回の宗門・法華講への攻撃・謙がらせが長期化しているのは、それほど学会上層部があせっている証拠にほかなりません。
 以上のように、創価学会のいわゆる「脱講運動」とは、私たちを退転させ無間地獄に導く魔の所為であることが明白です。
 魔を魔と見技くには、私たちに充分な智慧がなければなりません。
「以信代慧」(いしんだいえ)と大聖人様がご指南されているように、その智慧は揺るぎない信心を基とした唱題によってのみ得られるのです。
御法主日顕上人猊下は、「唱題行こそ、身心の病の良薬であり、その境界をしっかり掴むことが大切であります。
そして、今度は世の中の人々を見ると、そこには色々な面での謗法罪障、あるいは邪宗教その他のところから様々な心の病、身体の病にかかっておる人が非常に多いのであります。
その人々をなんとか正しく救っていこうというところに、化他行である折伏の振る舞いが顕れてまいります」[大日蓮H12 ・ 2−34]と仰せです。
 ○○布教区の法華講のみなさまには、常に唱題を根本に、邪宗教、特に創価学会の害毒に犯された人々の哀れな姿を見抜き、それら魔の蠢動に動ずることなく、三十万総登山に向かって破邪顕正の闘いに、ますますご精進されんことを念願いたします。

  以上


『創価学会員による脱講運動』撃退法


発 行 日 平成12年4月22目
編集・発行 *2○○布教区法華講三十万総登山推進僧俗協議会 有志
(注・*2は、地域が特定されるので、伏せさせていただきました。)

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