講義録・総幹部会講演(抜粋)兼録

【佐渡御書を拝し奉る】 冨士大石寺顕正会 会長 浅井昭衛

《本書は、浅井先生が平成二十一年二月五日に行われた「佐渡御書」要文講義と、同月総幹部会において佐渡御書に言及された部分を、併せ収録したものであります。(編集部》

「佐渡御書 講義録」

 本日は、大聖人様が御年五十一歳の文永九年三月、佐渡において著わされた佐渡御書を拝読いたします。

 【御述作の背景】

 大聖人様は、あの竜の口火法難に引き続きそのまま佐渡に流罪となった。そして佐渡にお着きになってから、直ちに著わされた重大御書が開目抄であります。
 この開目抄はまことに膨大長文の御書であります。この開目抄において大聖人様は何を顕わし給うたのかといえば――
  「いま佐渡雪中にまします日蓮大聖人こそ、末法の全人類をお救い下さる久遠元初(くおんがんしょ)の自受用身・末法下種の本仏であられる」という大事をお示し下さった。
ゆえに下種本仏成道御言には、大聖入御自ら開目抄の文意を「この文の心は、日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と明かし給うている。
そしてこの開目抄を、竜の口で追い腹を切らんとした不惜身命の弟子・四条金吾に送り給うたのであります。
 思うに、四条金吾に本抄を託されたということは、これを後世に長く保存せしむる御聖意があられたものと拝察される。
このことは富木殿に託された観心本尊抄また然りであります。
 で、開目抄はまことに長文のうえ、文底下種の主・師・親、すなわち末法下種の人の本尊開顕という深義は、日寛上人も「此の義、幽微(ゆうび)にして彰(あら)わし難し」と仰せられているごとく、容易(たやす)くは拝し得ない。
 よって、開目抄と同趣旨を、その翌月、平易・簡略にして改めて門下一同に下されたのが、この佐渡御書なのであります。

   【全門下への御教令】

 ですから、本抄の宛て書きは「日蓮弟子檀那等御中(にちれんでしだんなおんちゅう)」とある。まさに全門下に下された有難い御書です。そして文末の追而書(おってがき)にはこう仰せられている。
「佐渡国(さどのくに)は紙(かみ)候はぬ上、面々に申せば煩(わずら)いあり、一人ももるれば恨(うら)みありぬべし。
此の文を、心ざしあらん人々は寄り合うて御覧じ料簡(りょうけん)候いて、心なぐさませ給へ」――佐渡の国は紙がないうえ、一人ひとりに書けば煩いがあり、一人でも洩(も)れれば「なぜ自分には・・・」との恨みも出よう。よってこの文を、心ざしあらん人々は寄りあって読み、よくよく道理をわきまえ、さらに強き信心に立ってほしい――と仰せられる。
 いいですか。鎌倉にいる弟子檀那らはみな安全な所にいるのです。大聖人様こそ「今日切る、明日切る」という生命(いのち)の危機の中、しかも飢えと極寒の中におられる。しかるに御自身の身は顧みず、鎌倉の弟子一同の信心をご心配下さり、これを励まし仏果を得さしめんとの大慈悲、何とも有難いことであります。

【信心薄き者、続々と退転】

 あの竜の口の大法難のとき、信心薄き者は続々と退転していった。それは、弟子・檀那の中にも逮捕され追放された者もあったので、いつ我が身にもその難が及ぶかと、肝(きも)を消して信心を破ったのです。
 そして自身が退転しただけではない、小賢しくも大聖人を批判する者まで現われた。佐渡御書の文末にありますが「日蓮御房(ごぼう)は師匠にてはおはせども余(あま)りに剛(こわ)し。我等は柔(やわら)かに法華経を弘むべし」――大聖人は師匠ではあるが、あまりにその折伏が強すぎる。自分たちは柔かに法華経を弘めていきたい――と。
 つまり法華経は有難いが、大聖人の折伏の仕方が間違っているのだ。自分たちは柔かに諸宗と妥協しながら弘めていこう、ということです。
 この輩には、大聖人様の折伏の大精神が全くわからなかった、大慈大悲がわからなかった、御本仏の大境界がわからなかったのです。
 この小賢しい批判に対し、大聖人様は「蛍火(ほたるび)が日月をわらうなるべし」と仰せられている。

【なぜ一国の大怨嫉が起きたのか】

 いいですか。よーく考えてごらんなさい。
 大聖人様ほどの立派な御方が、なぜ日本国中から、あのように怨(あだ)まれ、憎まれたのでしょうか。
 それは、当時日本国の上下一同が信じていた念仏・禅・真言等の諸宗を、「人を不幸にする邪法、堕地獄の根源」と折伏され、「成仏の叶う大法は、ただ法華経の肝心たる南無妙法蓮華経のみである」と強くお勧め下されたからです。
 もし大聖人が世間受けを良くするために「念仏も結構、その上で法華経を信ずればなお結構」と勧めたら、迫害など起きるわけがない。いや起きないどころか、大聖人のご人格に接すれば人々は忽ち大聖人を尊敬し、国主も師として用いたに違いない。

 だが、それでは一切衆生の成仏は叶わない。毒を捨てて薬を服(の)まなければ、成仏できないのです。この「一切衆生の成仏」こそ、大聖人様の唯一の大願であられた。
 ゆえに憎まれようと、身命に及ぶ迫害があろうと、「念仏の毒を捨て、南無妙法蓮華経の薬を服(の)みなさい」とお勤め下された。これこそ本当の大慈大悲なのであります。
 たとえば、悪徳の医者たちがカネ儲けのために、毒を薬と偽(いちわ)って民衆に服ませていたとする。このとき慈悲ある名医がいて「みんなが薬と思って服んでいるのは実は毒なのだ。
早く毒を捨てて本当の薬を服みなさい」と告げたら、悪徳の医者たちはこの名医を憎み、民衆を煽動して迫害するに違いない。しかし迫害を恐れてこれを言わなければ、その名医は無慈悲ということになる。迫害を恐れずに教えることこそ大慈悲なのです。

 これと同じように、念仏・真言・禅・律等の諸宗は、当時の人々は有難がっていたが、実はこれ、釈尊の本懐たる法華経に背いている謗法の宗、地獄に堕つる悪法なのです。だから当時、強き念仏者たちの臨終はみな悪かったのです。
 では、末法における成仏の大法は何かといえば――ただ法華経の本門寿量品の文底に秘し沈められた、久遠元初の下種の南無妙法蓮華経以外にはない。このことを大聖人様は日本国でただ御一人知り給うた。
 ここに大聖人様は重大な御決意をあそばした。このことを開目抄には「日本国に此れをしれる者、但(ただ)日蓮一人なり。これを一言も申し出(いだ)すならば、父母(ふも)・兄弟(けいてい)・師匠・国主の王難必ず来るべし。いわずば慈悲なきににたり。乃至、今度強盛(ごうじょう)の菩提心(ぼだいしん)ををこして退転せじと願じぬ」と。
 このように、一切衆生を成仏せしむるために、身命にも及ぶ大難をご覚悟の上で、大聖人様はお立ちになった。これが立宗のときのご決意であられた。

 一万、念仏・真言等の坊主たちはどうであったかといえば、彼らには最初から成仏・不成仏などを思う道念はなかった。彼等はただ民衆をたぶらかして尊敬を受け、権力者に取り入って地位と利権を得ることしか考えていなかった。これを「禿人(とくにん)」職業坊主というのです。
 そこで彼等は、大聖人の破析によって自宗の邪法たることが露見し、己れの地位を失うことだけを恐れていた。
 大聖人の破折には明確な道理と文証と現証がある。彼等にはとうてい歯が立たない。法論などできるわけがない。そこで彼等は大聖人を亡き者にしようとしたのです。
 かくて邪宗の僧たちは手を結び、一同して民衆を煽動した。「日蓮房は阿弥陀仏の敵だ」と。さらに国主には「日蓮房は国が亡ぶなどと言って日本国を睨阻(じゅそ)している。
謀叛(むほん)の心がある」などと讒言(ざんげん)した。そして一国上下はこれを信じてしまった。

   【波のごとき大難】

 ここに大聖人様の御身に、波のごとく迫害が押し寄せてきたのです。
 まず立正安国論による御諌暁の直後、松葉ヶ谷(まつばがやつ)の草庵(そうあん)に数千人の念仏者が押し寄せ、襲撃した。
 ついで伊豆の流罪。これは国主による流罪です。
 次に小松原の剣難、地頭・東条景信が数百人の武装兵士を小松原に待ち伏せさせ、大聖人を殺害せんとした。このとき大聖人様は恐れ多くも、眉間(みけん)に三寸(九センチ)の傷を負われ、左の手を打ち祈られ給うている。
 そしてついには、国家権力による絶体絶命の死刑が竜の目で執行された。
 そのすべては、問答無用の理不尽さで行なわれている。まさに日本国中が寄ってたかって、一人の大聖人の御命(おんいのち)を奪わんとしたのであります。

   【異常な憎しみこそ天魔の障礙】

 この憎しみ、まことに異常でしょう。
 もし大聖人様の主張が間違っているというのなら、法義上の対決をして破祈すればいい。まして大聖人様は「公場対決せよ」と幾たびも仰せられているのです。しかるに公場対決はなく、理不尽そして問答無用の弾圧だけがあった。
 この異常さこそ、御本仏が出現して全人類成仏の大法をお弘めになる時、必ず起きる第六天の魔王による障礙(しょうげ)なのであります。
 すなわち第六天の魔王はまず邪宗の僧侶たちの身に入り、次に国主・民衆の身に入る。かくて日本国中が寄ってたかって、大慈大悲の大聖人を殺害せんとしたのであります。
 だが、大聖人様は絶体絶命の頸(くび)の座において、ついに成道を遂げ給うた。すなわち、立宗以来の身命も惜しまぬ御修行ここに成就して、ついに竜の口において、法界を我が身と開く、久遠元初の自受用身のお覚(さと)りを証得し給うたのであります。
 
  【金剛不壊の大法悦】

 この御本仏の法悦の大境界を、大聖人様は次のごとく仰せられている。
  「我等は流人(るにん)なれども、身心共にうれしく候なり。大事の法門をば昼夜(ちゅうや)に沙汰し、成仏の理(ことわり)をば時々刻々(じじこっこく)にあぢはう」と。
 佐渡の極寒も、飢えも、また「今日切る、明日切る」の危難も、この大法悦を壊わせない。これが金剛不壊(こんごうふえ)の御本仏の大境界なのであります。

 だが信心うすき者には、大聖人様のこの大境界がわからない。そして我が身を惜しむあまり、かえって大聖人様を批判した。大聖人様はこれら退転者の堕獄を不憫(ふびん)とされ「日蓮を信ずるやうなりし者どもが、日蓮がかくなれば疑いををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我れ賢(かしこ)しと思はん僻人(びゃくにん)等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事、不便(ふびん)とも申す計(ばか)りなし」と仰せられている。このような退転者続出の中で、命かけて大聖人様を信じ奉る弟子・檀那一同に対し、御自身の身読(しんどく)・体験を鑑(かがみ)として「仏法のために命を惜しまぬ者、必ず仏に成る」という大事をお教え下されたのが、この佐渡御書であります。
 本日拝読の御文は、全体の約三分の一にあたる、冒頭の最も大事なところであります。
 それでは本文を拝読いたします。

【仏法に身命を惜しまぬ人必ず仏に成る】

 世間に人の恐るヽ者は火炎(ほのお)の中と、刀剣(つるぎ)の影(かげ)と、此(こ)の身の死するとなるべし。牛馬猶(ぎゅうばなお)身を惜(お)しむ、況(いわ)んや人身(にんしん)をや。癩人猶命(らいにんなおいのち)を惜(お)しむ、何(いか)に況(いわ)んや壮人(そうにん)をや。仏説(ほとけと)いて云(いわ)く「七宝(しっぱう)を以(もっ)て三千大千世界(だいせんせかい)に布(し)き満(み)つるとも、手の小指(こゆび)を以て仏経(ぶっきょう)に供養(くよう)せんには如(し)かず」取意。

雪山童子(せっせんどうじ)の身をなげし、楽法梵志(ぎょうぽうぼんじ)が身の皮をはぎし、身命(しんみょう)に過(す)ぎたる惜しき者のなければ、是(こ)れを布施(ふせ)として仏法を習(なら)へば必ず仏となる。身命を拾(す)つる人、他の宝(たから)を仏法に惜しむべしや。又財宝(またざいほう)を仏法におしまん物(もの)、まさる身命を拾つべきや。
 この一段は、人にとって命ほど大事なものはない。だがその命をも、仏法のために惜しまぬ人は必ず仏に或る――ということをお示し下されている。

 人間誰もが恐れるものは、火炎(ほのお)に包まれることと、刀剣(つるぎ)の影(かげ)と、此(こ)の身が死ぬことであると。人が本能的に火炎を恐れ、刀剣の影を恐れるのも、それが我が身の死に結びつくからです。ゆえに詮じつめれば、死こそ、人間にとって究極の恐怖なのであります。
 感覚の鈍(にぶ)い牛馬すらなお身を惜しむ。いわんや敏感な人間においてをや。また癩病(らいびょう)は不治の病(やまい)といわれ人にも嫌われるが、この絶望的な病(やまい)にかかった人さえもなお命を惜しむ、いわんや健康な者においてをや――と。

 このように、人が最も惜しみ大事に思うのは、我が命なのです。ゆえに経文には「七宝(しっぽう)を以(もっ)て三千大千世界(だいせんせかい)に布(し)き満(み)つるとも、手の小指(こゆび)を以て仏経(ぶっきょう)に供養(くよう)せんには如(し)かず」と。
 宇宙に満つるほどの金・銀・宝石を以て仏と経に供養しても、手の小指を供養する功徳には及ばない、と説かれている。
 昔、雪山童子が我が身を鬼神(きじん)に与えて仏法を求めたのも、楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)が紙のない時に身の皮を剥(は)いで経文を写そうとしたのも、身命にまさる大事なものはないゆえ、これを布施として仏法を習えば、必ず仏に成るのである――と。
 この「身命に過ぎたる惜しき者のなければ、是れを布施として仏法を習へば必ず仏となる」との御文こそ、この段の肝要であります。
 
  【雪山童子の故事】

 ついでに、雪山童子の故事を少し説明しておきます。
 雪山童子とは、釈尊が過去世において、成仏を求めて修行していた時の名ですね。
 雪山とはヒマラヤです。ここに住んでいたから雪山童子と呼ばれた。この人は仏法を求める道念がたいへん強く、常に思っていたことは「人の一生はわずか数十年であり、生まれた者は必ず死ぬ。
このはかなき人生において、いかに地位や財産を求めても、そのような幸福はすぐ崩れてしまう。何としても生死を乗り越えた永遠に崩れぬ幸福を得たいものである」と仏法を求めていた。しかしこの時はまだ仏が出現していなかった。よって求めても仏法を得られなかったのです。

 ところがある時、雪山童子の耳に「諸行無常(しょぎょうむじょう)・是生滅法(ぜしょうめっぽう)」(諸行は無常であり、是(こ)れ生滅の法なり) という、仏の教えを誦(じゅ)する声がほのかに聞こえてきた。
 童子は驚いて四方を見たが誰もいない。ただ鬼神がそばに立っていた。
 その鬼神の形相(ぎょうそう)は険(けわ)しく恐しく、歯は剣(つるぎ)のごとく、怒(いか)りの眼(まなこ)で童子を睨(にら)んでいた。
しかし童子は恐れなかった。それは仏法を得たいという思いのほうが強かったからです。

 童子は、この賎(いや)しい鬼神がこのような尊い教えを説くはずがないとは思ったが、ほかに人もいないので「いまの言葉はお前が説いたのか」と尋ねた。
すると鬼神は「俺はもう何日も物を食べてない。飢えで頭がボーッとしている。何をしゃべったのかわからない」と言った。
童子は「いや、いまの言葉はたしかにお前の言葉だ。しかし半分しか聞けなかった。残りの半偈(はんげ)があるはずだ。どうか残りの偈(げ)を説いてほしい」と頼んだ。
鬼神は「俺は腹が減(へ)って何もしゃべれない。もう俺に何も言うな」と突っぱねた。
童子はなお「物を食べたら説いてくれるか」と問うた。
鬼神は「うん、食べたら説こう」と。
童子は悦び「では、お前はいったい何を食べたいのか」と聞いた。
鬼神は「もうそれ以上聞くな。それを聞いたら、必ず恐(こわ)がるに違いない。またお前が調達できるものでもない」 童子はなおも食い下がった。
「その食べ物を云ってくれ。何としても持って来る」
 すると鬼神は「俺は、人の柔かな肉を食べ、温かい血を飲んでいる」と答えた。
 このとき雪山童子は「自分は法のために身を捨て、残りの半偈を聞かせてもらおう」と心に決め、鬼神に言った。
  「お前の食物はここにある。私の肉は柔かく、血は温かい。この身を汝に与えるから、どうか残りの偈を説いて頂きたい」と。

 鬼神は瞋(いか)った。「そんなこと、誰が信用できるか。いったい誰を証人とするのか」
 雪山童子は云った。「いずれこの身はついには死ぬ。虚(むな)しく死ぬこの命を法のために捨てるならば、後生は必ず覚(さと)りを開き仏と成れるであろう。これ土器(どき)を捨てて宝器(ほうき)に替えるようなものである。私は決して嘘はつかない。証人には梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・十方の諸仏等を立てよう」
 鬼神は少し和(やわら)ぎ「もしお前の言うのが本当なら、偈(げ)を説こう」と言った。
 童子は大いに悦び、自分の着ている鹿の皮を大地に敷いて法座とし、鬼神に頭を下げて手を合わせ、師弟の礼をとって「どうか残りの偈(げ)をお説き下さい」と願った。
 鬼神は法座にのぼり、残りの偈を説いた。
  「生滅滅已(しょうめつめっち)・寂滅為楽(じゃくめついらく)」(生滅(しょうめつ)を滅(めっ)し已(おわ)って、寂滅(じゃくめつ)を楽(らく)と為(な)す)と。

 このとき雪山童子は限りなく悦び、後世まで忘れじと、何度も誦(ず)しては心に染め、さらに自分が聞いただけでは申しわけない、人々に伝えなければと、回わりの石や壁や木々にこの偈(げ)を書きつけ、「後(のち)に来る人は必ずこの文を見て実(まこと)の道に入れ」と言い終わるや、そばにあった高い木に登り、鬼神の前に身を投げた。
 ところが、大地に落ちる寸前、鬼神の姿は俄(にわか)に帝釈となって雪山童子の身を受け止めた。
そして詫(わ)びて云うには「実は、あなたの求道心を試(ため)すために、私はこのような鬼神に身を現じたのです。まことに申しわけない。願わくは、あなたが将来仏に成ったとき、必ず我を救い給え」と述べたという。
これが雪山童子の故事です。このように雪山童子は仏法を求めて、わずか小乗経の半偈(はんげ)のためにも、身命を惜しまなかったという。ところがいま私たちは、一生成仏の叶う最大深秘の大法に値い奉っているのです。
 ここに大聖人様は「身命(しんみょう)に過(す)ぎたる惜しき者のなければ、是(こ)れを布施(ふせ)として仏法を習(なら)へば必ず仏となる」とお教え下されたのであります。

  【世間の浅き事には命を捨てるが 大事の仏法のためには捨てない】



 【世間の法にも、重恩(じゅうおん)をば命(いのち)を捨て報(ほう)ずるなるべし。又主君(しゅくん)の為(ため)に命を捨つる人はすくなきようなれども其の数(かず)多し。男子(なんし)ははじに命をすて、女人(にょにん)は男の為に命をすつ。魚(うお)は命を惜しむ故に、他にすむに池の浅き事を歎(なげ)きて他の底に穴をほりてすむ、しかれどもゑにばかされて釣(つり)をのむ。鳥は本にすむ、木のひひきヽ事をおじて木の上枝(ほつえ)にすむ、しかれどもゑにばかされて網(あみ)にかゝる。人も又是(か)くの如(ごと)し、世間の浅き事には身命(しんみょう)を失(うしな)へども、大事の仏法なんどには捨つる事難(がた)し。故(ゆえ)に仏になる人もなかるべし。】


 この一段は、仏法に命を惜しまぬというと、凡夫にはとうていできそうにもないように思えるが、よくよく見れば人はつまらぬことには簡単に命を捨てている。だが大事の仏法に命を捨てることは難しい。ゆえに仏に成る人もないのである――ということをお示し下されている。
 ここで大聖人様は、人がそれぞれの境界にしたがって、何かに命をかけ、命を捨てている実相を明かされているのです。
 まず「世間の法にも、重恩をば命を捨て報ずるなるべし」と。
 世間においても、重恩(じゅうおん)を受けた人のために、命を捨ててその恩に報ずるということは、よく見るところであります。

  【主君の為に命を捨てる】

次に「主君の為に命を捨つる人は、すくなきようなれども其の数(かず)多し」と。
歴史上、その例は至るところにありますね。
 赤松浪士(あこうろうし)などはその典型です。主君の無念を晴らすため、赤穂浪士四十七人は大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に、三年間の辛苦に耐えたのち、ついに吉良上野介(きらこうずけのすけ)の首を打ち取った。
この仇討(あだうち)は失敗しても死、成功しても死ですよ。最初から命を捨てる覚悟で四十七上が団結したのです。
 私は大石内蔵前というのは相当な人物だと思う。もし彼がいなかったら、たとえ一人ひとりに忠義の心があっても、あるいは暴発したり分裂したりして、事は成らなかったに違いない。大石内蔵前の人格と統率力により、三年間の団結が保(たも)てたのだと思う。

 毎年、年末になると忠臣蔵が上演されますが、筋がわかっていても涙が出てくる。
それは、自分の欲や私情ではなくて、身を捨てて主君に報ぜんとする、その一途のけなげさに胸が打たれるのです。
 赤穂浪士だけではない。幕末には会津若松で白虎隊(びゃっこたい)が主君のために命を捨てている。上野の山に立てこもった彰義隊(しょうぎたい)もそうです。みな少年ですよ。
新撰組なども俄(にわか)作りの隊ではあったが、幕臣たちがみな逃げ出した中において、わずかな恩顧(おんこ)しか受けてない新撰組が、徳川のために命を捨てているのです。

 わずか六十数年前のあの戦争においても、多くの若者が「お国のため、天皇陛下のため」ということで命を捨てている。今日では考えられないことが、六十数年前にはあったのです。
 先日、顕正会の成人式がありましたが、新成人の顔をみながら私は思った。「あー、戦争中だったら、みんな兵隊に取られていたな」と。それがいま三大秘法をたもって自他の成仏のために戦えるとは、何と良き時に生まれてきたものかと思いました。

   【学徒出陣】

 戦時中「学徒出陣」というのがあった。本来、大学生は卒業までは兵役免除だったが、戦争も末期になるとそんなことは言ってられなくなった。そこで「大学生も銃を持って戦場に赴け」ということになり、学業半ばにして戦場に送られた。これが学徒出陣です。
 その出陣式が昭和十八年十月、明治神宮外苑競技場で挙行された。この日は豪雨でしたが、その中を勇壮なマーチが流れ、角帽をかぶった大学生が、隊列を組み木銃を肩にかけ、大学別に次々と行進をしたのです。
その数、二万五千人。
 この学徒出陣を何万という人々が見送った。
その中に女子学生も何千人と集まり見送った。
杉本苑子(そのこ)さんという歴史家がいますが、この人も女子学生の一人としてこの日、見送ったという。この人がいつかテレビで涙をにじませ語っておりました。
「この大学生たちはこれから死地に赴くのだ。この若さで死地に赴くのだと思うと、涙があふれ、思わずみな柵(さく)を乗り越え一歩・二歩と出て、全員が行進の傍(そば)まで行ってしまった。しかし一人として脇目をふる学生もいない。みんな正面を向いたまま行進していった」と。

 その後、敗戦までの間にこの学徒出陣は、総数十三万人にも及んだのです。まことに痛ましいですね。「お国のため」ということで、誰ひとり逃げることもなく、若い命を散らしていったのです。
 特攻隊などは、飛行機に爆弾を積んで敵艦に体当りしたのです。当時はガソリンが不足していたので、帰りのガソリンは積んでいかない。これまた成功しても失敗しても、死ですよ。
 そして、この特攻隊員を見送った司令官たちも、終戦ののち「多くの若者を死なせ、生きていられない」といって自決している。
 あの戦争は、昭和天皇の「聖断(せいだん)」といわれている大決断によって終結したのです。
これ以上戦争を続けたら日本民族が滅亡すると判断され、昭和天皇は「この身はどうなろうとも」との思いで決断されたのです。

 そのときの御前会議で、阿南惟幾(あなみこれちか)という陸軍大臣は最後まで「本土決戦」を主張していたが、陛下の「聖断」をお聞きしてこれに従った。
 阿南惟幾はそのあと一室にこもって、敗戦の全責任は自分にあるとして、「一死以て大罪を謝す」との一紙を認(したた)め、その前で割腹自殺して昭和天皇にお詫びをしている。
 これらはみな私利・私欲ではない。すべて「国のため、主君のため」ですよ。歴史を尋ねれば、その事例は枚挙にいとまがない。まさに「主君の為に命を捨つる人は、すくなきようなれども其の数(かず)多し」 との仰せのとおりであります。

【男子は恥に命を捨てる】

 
次に「男子(なんし)ははじに命をすて、女人(にょにん)は男の為に命をすつ」と。
 これは男子と女子、それぞれの特性を見抜かれたお言葉ですね。男はとかく社会的体面を重んずる。だから恥を濯(そそ)ぐためには命も捨てる。
 赤穂藩主の浅野内匠頭(たくみのかみ)は吉良上野介(きらこうずけのすけ)にさんざん恥をかかされたうえ、松の廊下で「臆病者」と罵しられ、ついに刀を抜いて恥をそそいだ。その結果、赤穂六万石と我が命を抛ってしまった。短慮といえば短慮ですが、まさに「男子は恥のために命を捨つ」の典型です。
 武士はことに恥を重くみた。だから武士は町人からカネ借りるとき、証文を書かずに「違約の節はお笑い下さい」と言ったという。笑い者にされる恥辱に堪えないから腹を切る、武士に二言はないということです。そしてそれが当時は信じられたのです。

 今の世にそんなことしたら、ぜんぶ踏み倒されちゃう(大笑)。政治家などは厚顔無恥でなければ務まらない。今は全く恥しらずの世の中になってしまった。しかし本来は、男は恥を重く見るものなのであります。
また「女人(にょにん)は男の為に命をすつ」と。
女性が恋に命を捨てることは、「八百屋お七」の昔から珍(めずら)しいことではないですね。

   【欲のために命を捨てる】

 次は、欲(よく)のために命を捨てる例です。
  「魚(うお)は命を惜しむ故に、他にすむに他の浅き事を歎(なげ)きて他の底に穴をほりてすむ、しかれどもゑにばかされて釣(つり)をのむ」と。
 魚は自分の命を守るために、少しでも安全な場所に棲(す)もうと他の底に穴を掘って潜(ひそ)む。だが目の前に餌(えさ)があれば、だまされて釣り針を呑(の)んでしまう。
 鳥もそうです。木の低いことを恐れて人の手のおよばぬ上枝(うわえだ)に棲むが、やはり餌にだまされて網にかかってしまう――と。
 この魚や鳥と同じように、人間も常には臆病で我が命を惜しむくせに、欲につられれば大事な命を筒単に捨ててしまうものです。

 そうでしょ。うまい儲け話があると、欲につられて前後がわからなくなる。そこで虎の子のおカネを出して引っかかり、自殺するなんていう例はいくらもある。
 あるいは、一時の快楽を求めて覚醒剤や麻薬をやり、人生を台なしにする者もある。
 あるいは喧嘩で頭に血がのぼれば、臆病なくせに命を捨ててしまう者もいる。
 このように、人間は元来(がんらい)臆病で、命を失うことを最も恐れるのに、世間のつまらぬことには簡単に命を捨てている。これが世間の実相なのです。しかし、大事の仏法に命を惜しまぬという大理性の人、大道心の人はいない。ゆえに「世間の浅き事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨つる事難し。故に仏になる人もなかるべし」と仰せられるのであります。

  【人は必ず死ぬ】

では、もし用心深く常に命を惜しみながら暮らしていれば、命を失わないで済むかといえば、そうはいかない。
 自分で命を捨てるつもりはなくとも、天変・地夭・飢餓・疫病(やくびょう)、さらに大戦争に巻き込まれて死ぬ人は無数です。
 たとえそれを逃(のが)れたとしても、人は生まれた以上は必ず死ぬ。死は一定です。しかも人生はわずか数十年。宇宙の永遠に比べれば、一生は瞬間のように短くはかない。そして死ねば悪道に堕するのです。
 このことを思えば、短い一生のうちに、身命も惜しまず仏法を行じて永遠の仏果を得ることがいかに大事か、またいかに有難いことか。

 ゆえに大聖人様は熱原の大法難の時、上野殿に「願わくは、我が弟子等大願ををこせ。去年(こぞ)・去々年(おととし)の疫病(やくびょう)に死にし人々の数(かず)にも入らず、又当時蒙古の責(せ)めに免(まぬが)るべしともみへず。とにかくに死は一定なり。……同じくは仮(か)りにも、法華経のゆへに命をすてよ」と仰せ給うのであります。


【仏法は摂受・折伏時によるべし 時に叶わなければ得道なし】

【仏法は摂受(しょうじゅ)・折伏(しゃくぶく)時によるべし。警(たと)へば世間の文武(もんむ)二道の如し。
されば昔の大聖(だいしょう)は時によりて法を行(ぎょう)ず。雪山童子(せっせんどうじ)・薩《土+垂》王子(さつたおうじ)は身を布施(ふせ)とせば法を救(おし)へん菩薩(ぼさつ)の行(ぎょう)となるべしと責(せ)めしかば、身をすつ。
肉をほしがらざる時、身を拾つべきや。紙なからん世には身の皮を紙とし、筆(ふで)なからん時は骨を筆とすべし。破戒(はかい)・無戒(むかい)を毀(そし)り持戒(じかい)・正法(しょうぼう)を用いん世には、諸戒(しょかい)を堅く持(たも)つべし。
儒教(じゅきょう)・道教(どうきょう)を以(も)て釈教(しゃっきょう)を制止(せいし)せん日には、道安法師(どうあんほっし)・慧遠(えおん)法師・法道三蔵等(ほうどうさんぞうとう)の如く、王と論じて命を軽(かろ)うすべし。釈教(しゃっきょう)の申に小乗(しょうじょう)・大乗(だいじょう)・権経(ごんきょう)・実経雑乱(じっきょうぞうらん)して、明珠(みょうじゅ)と瓦礫(がりゃく)と牛(ご)・驢(ろ)の二乳(ににゅう)を弁(わきま)えざる時は、天台(てんだい)大師・伝教(でんぎょう)大師の如く、大小(だいしょう)・権実(ごんじつ)・顕密(けんみつ)を強盛(ごうじょう)に分別(ふんべつ)すべし。】


 この一段は、仏法の修行は時に叶わなければ成仏が叶わないということを「仏法は摂受・折伏時によるべし」とお教え下されている。すなわち、正像二千年は摂受でよいが、末法は折伏でなければいけないということであります。

  【摂受と折伏】

 摂受・折伏というのは、仏法の弘め方(かた)についての二大潮流です。
ゆえに如説修行抄には「凡(およ)そ仏法を修行せん者は摂折二門を知るべきなり。一切の経論此の二(ふたつ)を出(い)でざるなり」
またこれがいかに重大なことであるかは開目抄に「摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき」とまで仰せられている。

 では、摂受・折伏とはどのようなものかといえば――
 摂受とは摂引容受(しょういんようじゅ)の義で、相手が劣っている法を信じていても一往は認め、次第にこれを誘引して正法に入らしめるという柔かい弘通の方法。
 折伏とは破折屈伏(はしゃくくっぷく)の義で、相手の邪義を破折し、正法に帰伏させるという強い弘通方法です。
 では、どういう時に摂受を行じ、どういう時に折伏を行ずべきかといえば釈尊滅後の二千年間、すなわち正像二千年は摂受であり、末法は一向に折伏でなければいけない。
なぜかといえば――

 正像二千年の間に生まれて来る衆生は「本已有善(ほんいうぜん)」《本已(もとすで)に善有(せんあ)り》といって、過去においてすでに下種を受けている。
よって小乗経・権大乗経を縁として法華経に入って得脱する機根であるから、一往、小乗・権大乗をも認めて、次第に法華経に誘引するのです。

 しかし末法に入ると「本末有善(ほんみうぜん)」(本未善有(もといまだぜんあ)らず)といって、過去に下種を受けている衆生は一人もいなくなる。久遠元初と全く同じ状況が再現するのです。
 この時は、久還元初の名字の妙法、すなわち法華経本門寿量品の文底に秘沈された下種の南無妙法蓮華経以外に成仏の大法はない。しかもこの時は、権(ごん)経を依拠(えきょう)としている念仏・真言・禅等の諸宗は、ことごとく南無妙法蓮華経の大法に背く謗法(ほうぼう)の宗となる。

 よって、毒である一切の邪法を捨てて南無妙法蓮華経の薬を服みなさい、というのが末法の折伏なのです。
 このように摂受は柔、折伏は剛(ごう)です。しかし強いといっても、荒々しい言葉や強引さをいうのではない。「成仏の法は三大秘法以外にはない。他は一切邪法である」と立て分ける精神の純粋さ強靫(きょうじん)さをいうのです。この折伏こそ、相手の不幸の因を除き、幸福を得さしめる最大の慈悲行なのです。

   【時に叶う修行の先例】

 以下、大聖人様は仏法の修行は時に叶うべきことを、四つの例をここに挙げておられる。
 まず雪山童子・薩《土+垂》(さった)王子。これは釈尊が過去世において菩薩の行していた時の姿ですね。
 先に述べたように、雪山童子は肉を欲しがる鬼神に我が身を与えて仏法を得たが、肉を欲しがらない時に身を捨てて何になろうか。もし紙のない時には薩た王子のごとく身の皮を剥(は)いで紙とし、筆のない時には骨を筆とすることこそ、時に叶う修行なのである、と仰せられる。

 次に、釈尊滅後最初の五百年を「解脱堅固(げだつけんご)」というが、この時代の人々は小東経の戒律を堅く持(た)って解脱(げだつ)を得た。このような時には「諸戒を堅く持(たも)つべし」と。これが時に叶う修行なのです。

 次いで、仏法がインドから中国に渡ったときのことです。中国には儒教・道教などが仏教渡来以前からあり、これに固執する者たちが仏教に反対し、これを制止しようとした。このような時には、道安法師・慧遠法師・法道三蔵のごとく、たとえ迫害を受けようとも王と論じて仏法を立てることが、時に叶う修行であると。

 次に「釈教(しゃっきょう)の中に小乗(しょうじょう)・大乗(だいじょう)・権経(ごんきょう)・実経雑乱(じっきょうぞうらん)して、明珠(みょうじゅ)と瓦礫(がりゃく)と牛(ご)・驢(ろ)の二乳(ににゅう)を弁(わきま)えざる時は、天台(てんだい)大師・伝教(でんぎょう)大師等の如く、大小(だいしょう)・権実(ごんじつ)・顕密(けんみつ)を強盛(ごうじょう)に分別(ふんべつ)すべし」と。

 これは、仏教が流布されたのちの中国あるいは日本において、経々の勝劣の立て分けが混乱して、衆生の得道が失われた時のことです。
 すなわち、小東経と大乗経、あるいは権経と実経等の勝劣が混乱して、いずれが勝れた経なのか見分けが付かない時には、天台大師・伝教大師のごとく、一代諸経の勝劣を強く立て分け、「法華経最第一」の正義を衆生に教えなければいけない――と仰せられる。
 天台・伝教の時はまだ末法以前の像法時代ではあるが、「教」に約すれば法華経は折伏の教法であるから、天台・伝教は強くこれを立て分けたのです。
 そしていよいよ次の一段で、末法の時に叶った、日蓮大聖人の御振舞が明かされる。


【御本仏の師子王心を拝せよ 竜の口においてついに御成道】

 【畜生(ちくしょう)の心は弱きをおどし強きをおそる。当世(せい)の学者等(とう)は畜生の如し、智者(ちしゃ)の弱きをあなづリ王法(おうぼう)の邪(じゃ)をおそる。諛臣(ゆしん)と申すは是(こ)れなり。強敵(ごうてき)を伏(ふく)して始めて力士(りきし)をしる。悪王の正法(しょうぼう)を破るに、邪法(じゃほう)の僧等(そうとう)が方人(かとうど)をなして智者を失わん時は、節子王(ししおう)の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし。
例せば日蓮が如し。これおごれるにはあらず、正法(しょうぼう)を惜しむ心の強盛(ごうじょう)なるべし。おごる者は必ず強敵(ごうてき)に値うておそるヽ心出来(しゅったい)するなり。例せば修羅(しゅら)のおごり、帝釈(たいしゃく)にせめられて無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身(しょうしん)と成(な)リて隠(かく)れしが如し。
 正法は一字一句(いちじいっく)なれども、時機(じき)に叶(かな)いぬれば必ず得道(とくどう)なるべし。千経万論(せんきょうばんろん)を習孚すれども、時機に相違(そうい)すれば叶うべからず。】


 この一段こそ、佐渡御書の肝要です。
すなわち日蓮大聖人の師子王のごとき御振舞こそ、末法の時に叶った修行であり、この不惜身命の御修行により、ついに久遠元初の自受用身の成道を遂げられ末法下種の本仏と顕われ給うた、との深意をここにお示し下されている。
 いいですか。大聖人様の崇高(すうこう)なる不惜身命の御振舞いを理解せしめんがために、まず天台宗の学者たちの非(ひ)を挙げられている。
  「畜生(ちくしょう)の心は弱きをおどし強きをおそる。当世(せい)の学者等(とう)は畜生の如し、智者(ちしゃ)の弱きをあなづり王法(おうぼう)の邪(じゃ)をおそる。諛臣(ゆしん)と申すは是(こ)れなり」と。

 天台宗というのは、そもそも天台大師の後身たる伝敦大師が、「法華経最第一」の正義を立てて日本国の諸宗を統一した、像法時代における唯一の法華経の正統門家ですよ。
 ならば、大聖人様が念仏・真言・禅・律等の、法華経に背く諸宗を責めて大難にあわれているのを見れば、大聖人のお味方して、共に諸法を呵責するのが当然です。
 しかるに彼等は、畜生が弱きを威(おど)し強きを恐れるように、流罪の身の大聖人の弱きを蔑(あなず)り、権力者の邪を恐れてこれに諂(へつら)った。この無道心・卑劣・臆病を、「諛臣(ゆしん)と申すは是(こ)れなり」とお叱りになっておられるのです。

 そして
  「強敵を伏して始めて力士をしる」と。
 天台宗の学者どもの「畜生の心」と比べ、日蓮大聖人の御振舞がいかに崇高で御威徳に満ち満ちておられるか。その師子王心を、いよいよ次文に明かされて「悪王の正法(しょうぼう)を破るに、邪法(じゃほう)の僧等(そうとう)が方人(かとうど)をなして智者を失わん時は、師子王(ししおう)の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し」と。
  「悪王」とは、国家権力者。とりわけ鎌倉幕府内で権勢を誇った平左衛門(へいのさえもん)です。この男は、ことに大聖人を強く憎嫉(ぞうしつ)していた。
  「邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は」とは、良観・道隆(どうりゅう)などの「生き仏」たちをはじめ、諸宗の僧等が権力者に讒奏(ざんそう)して「頸を切れ」と訴え出たこと。

そのさまは「良観聖人折紙(おりがみ)をささげて上(かみ)へ訴え、建長寺の道隆聖人は輿(こし)に乗りて奉行人(ぶぎょうにん)にひざまづく」(妙法比丘尼御返事)
 また
 「禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人、或(あるい)は奉行(ぶぎょう)につき、或はきり人につき、或はきり女房につき、或は後家尼(ごけあま)御前等について無尽(むじん)のざんげんをなせし程に、最後は天下第一の大事、日本国を失わんと呪(じゅ)そする法師なり。乃至、御尋ねあるまでもなし、但須臾(ただしゅゆ)に頸をめせ」(報恩抄)と。
 このような「悪玉」と「邪法の僧等」の結託による理不尽な死罪に対し、大聖人様は臆して命乞(いのちご)いをされたでしょうか。凡夫ならばそういうこともあるかも知れない。
 だが大聖人様は師子王のごとき御心で、竜の口の頸の座に臨み結うたのであります。これ、御自身の身命は惜しまず、ただ法を惜しみ結うお姿であられる。
 その御振舞を、もう少し詳しく拝します。

  【竜の口における師子王の御振舞】

あの竜の口のとき、平左衛門は数百人の武装兵士を引き連れて、大聖人様を召し捕(と)りに来た。これは謀叛人を逮捕する構えですよ。成道御書には
  「其の時の御勘気(ごかんき)のやうも常ならず、法にすぎてみゆ。了行(りょうこう)が謀反ををこし、大夫(たいう)の律師(りっし)が世をみださんとせしを、めしとられしにもこえたり」と。
 なぜこのような大仰(おおぎょう)な召し捕りが行われたのか。これ、大聖人を謀叛人のごとく世間に思わせ、直ちに首を刎ねる心算があったからです。

 庵室に乱入して来た平左衛門に対し、大聖人様は大音声で「平左衛門尉がものに狂うを見よ。とのばら、但今(ただいま)ぞ日本国の柱を倒す」と叱咤(しった)された。
このお叱りを受けて平左衛門は顔面蒼白(そうはく)になり、棒のごとく突っ立ったままだった。兵士たちは、逮捕される大聖人が自若(じじゃく)とし、召し取りに来た大将が臆している姿に、「これはどうしたことか」と思ったという。
 その日の深夜、大聖人様は馬に乗られ、刑場へと向われた。回わりを囲む警護の兵士は数百人。
 途中、若宮小路(わかみやこうじ)の八幡宮にいたると、大聖人は馬を止めさせた。「何ごとか」と驚く兵士たちに大聖人は「各々、さわがさせ給うな、べちの事はなし。八幡大菩薩に最後に申すべき事あり」とて、馬より下りて高声に叫ばれた。
 「いかに八幡大菩薩はまことの神か。……今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。其の上、身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を謗(ぼう)じて無間大城(むげんだいじょう)におつべきを、たすけんがために申す法門なり」と。
 さらに日本国における仏法守護の善神たる天照太神・八幡大菩薩が、釈迦仏の法華経の会座(えざ)において末法の法華経の行者を必ず守護する旨の誓状を立てながら、その誓いを果さぬ不実を強く責められたのち「痛(いた)しとおぼさば、いそぎいそぎ御計(みはから)いあるべし」と命じ給い、再び馬に乗り給うた。

 やがてご一行は刑場に着く。知らせを受け、馬のくつわを取ってお供申し上げていた四条金吾は、顕の座を眼前にして「只今(ただいま)なり」と泣き伏した。
 大聖人様は「不覚(ふかく)のとのばらかな。これはどの悦(よろこ)びをば笑(わら)へかし」と仰せられ、従容(しょうよう)として頸(くび)の座に着き給うた。

 太刀取(たちと)り傍(かたわ)らに立つ。そして、大刀まさに振り下(おろ)されんとしたその刹那(せつな)、突如、月のごとくなる光り物が出現して光り輝いた。
 その光がいかに強烈であったか。太刀取りは眼(まなこ)くらんでその場に倒れ伏し、兵士たちは恐怖のあまり一斉に逃げ出し、ことごとく大地にひれ伏してしまった。

 大聖人様はひとり高声(こうしょう)に叫ばれた。
  「いかにとのばら、かかる大禍(だいか)ある召人(めしうど)には遠のくぞ、近く打ちよれや、打ちよれや」と。
 だが、一人として近寄る者とてない。さらに叫び給うた。
 「頸(くび)切るべくわ急(いそ)ぎ切るべし、夜明(よあ)けなば見ぐるしかりなん」死刑を催促(さいそく)あそばしたのである。
だが返事をする者とてない。ことごとく腰が抜け、ひれ伏してしまったのである。
 まさに国家権力が、一人(いちにん)の大聖人の御威徳の前にひれ伏してしまったのです。
このような不思議・荘厳な光景は、人類史上に末だかってない。
 このとき大聖人様は宇宙法界を自身と開き、久還元初の自受用身の成道を遂げ給い、末法下種の本仏と成り給うた。この御本仏の成道を、佐渡御書に
  「師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し」と仰せ給うのであります。
  「これおごれるにはあらず、正法を惜しむ心の強盛なるべし。おごる者は必ず強敵に値うておそるる心出来(しゅったい)するなり。例せば修羅のおごり、帝釈にせめられて無熱池の蓮(はちす)の中に小身と成りて隠れしが如し」これ、驕(おご)って言うのではない。唯一の成仏の大法を惜しむ心の強きによる――と。

 この「正法を惜しむ心の強盛」こそが、開目抄の「詮ずるところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期(ご)とせん。……父母の首を刎(は)ねん念仏申さずば、なんどの種々の大難出来(しゅったい)すとも、智者に我が義やぶられずば用いじとなり。
其の外の大難風の前の塵(ちり)なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」との、まさに言葉を失うほどの、大慈大悲の大誓願となっているのであります。
 驕(おご)っている者は、自分より強い者に値(あ)えば恐れる心が出てくる。たとえば、おごる修羅が、帝釈に責められて無熱池の蓮(はちす)の中に身を縮めて隠れたようなものである――と。
 「正法は一字一句なれども、時機(じき)に叶いぬれば必ず得道成(な)るべし。千経万論を習学すれども、時機に相違すれば叶うべからず」とは大聖人様はただ「妙法蓮華経」の五字を、身命も惜しまず弘通あそばし、この御修行により下種御本仏の成道を遂げ給うたのであります。

 そしてこれを鑑(かがみ)として、我等末弟に「時に叶う修行をせよ」と仰せられる。
もし時に叶う修行をしなければ、いかに経論を学び御書をそらんじたとしても、成仏は叶わないのであります。

 いいですか。
 一人(いちにん)の御本仏が成道あそばしたということは、一切衆生の成仏の道も開かれたということです。
 すなわち大聖人様は竜の口のご成道ののち、一切衆生のために大慈悲を起こされ、御白身が証得された生命の極理を戒壇の大御本尊に顕わされ、全人類に授与あそばされたのです。
 もし私たちが、この御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、大聖人様は御自身が積み給うたすべての功徳を我等に譲り与えて下さる。
 ここにおいて、我等凡夫の成仏の道も聞かれたのであります。

  【いま時に叶う修行とは】

 では、いま私たちの時に叶う修行とは何か。
それは「信心□唱と広宣流布のお手伝い」であります。
すなわち戒壇の大御本尊を一筋に信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る、これが信心口唱。そしてこの信心口唱を人にも勧める、これが広宣流布のお手伝いです。この時に叶った修行により、いかなる人も必ず一生成仏の大果報が頂けるのであります。

 ただし、フラフラしている弱々しい信心ではダメです。
 いいですか。尊い大聖人様が、頸(くび)の座にまでお坐(すわ)りになり、命をかけて顕わして下さった御本尊様であれば、私たちも命かけて信じ奉らなければ申しわけない。
 もし我が人生において、たとえ重病により命(いのち)終わるようなことがあろうとも、あるいは迫害により身命に及ぶことあろうとも、命ある限り、信心だけは破らない、大聖人様だけは裏切らない、命のかよわんほどは南無妙法蓮華経と唱え奉る。この透徹の大信心に立たなければいけない。
 このとき大聖人様は、御自身が積み給うたすべての功徳を譲り与えて下さる。ここに凡夫が仏に戒らせて頂ける、即身成仏の仏果が叶うのであります。
   
 【「あと十有余年」】

 そして今、大聖人様が「時を待つべきのみ」と仰せられた広宣流布も、いよいよ最終段階になって来ました。
その現われとして、他国侵逼の歯車はいまギリギリと回わりつつある。
 日本を制圧せんとする中国の航空母艦の建造も本年から開始される。その完成は二〇一五年といわれるが、実戦配備はいつごろなのか。

 このことを私は心に懸(か)けていたが、昨日、中国軍事評論家の平松茂雄さんのレポートが新聞に掲載されておりました。それによれば「中国の空母が実戦化されるのは二〇二〇年以降であろう。この時点で、中国は台湾を統一し、海車力を西太平洋に展開するであろう」と。

 二〇二〇年といえば、あと十一年後です。それ以降、いつでも危険水域に入る。まさしく「あと十有余年」であります。
 顕正会の前進が、この他国侵逼のテンポに遅れてなるものか。
 今この御奉公を申し上げるのは、御遺命を守護して解散処分まで受けた顕正会以外には、断じてあるべくもない。
 さあ、勇躍歓喜して、大聖人様のお待ちあそばす大法戦場に、全員で馳せ参じようではありませんか。以上。(大拍手)


平成21年2月度総幹部会講演(抜粋)
【佐渡御書を心肝に染めよ】「摂受・折伏時によるべし」について


 先般、佐渡御言を全顕正会員で拝読をいたしましたが、この御言は竜の口火法難の直後、極寒の佐渡から全門下に与えられた重要御言であります。
  いま御遺命成就の時に生まれ合わせ、大事な御奉公を貫く顕正会員こそ心肝に染めるべきと思い、拝読したわけであります。
 この講義録が顕正新聞二月二十五日号に掲載されるので、どうか全員がよーく心肝に染めてほしい。そして共に感激を語り合い、「時に叶う御奉公」を全員で一筋に貫きたいと思っております。

   【佐渡御書の大意】

 この佐渡御書の大意を、一言でいわせて頂けば―
 日蓮大聖人の師子王(ししおう)のごとき御振舞を通して、「仏法のために身命を惜しまぬ者、必ず仏に或る」ということを、我ら末弟(まってい)にお教え下さった御書であります。
 ゆえにまず第一段において人にとって最も惜しいものは命であるが、その命すら仏法のために惜しまぬ者は必ず仏に或る―ということを示されている。

 第二段では、人は何より我が命を惜しむが、つまらぬことには簡単に命を捨てているとして、その例を多く挙げられた上で、「世間の浅き事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨つる事難し。故に仏になる人もなかるべし」と示されている。

 第三段では、「仏法は摂受・折伏時によるべし」と仰せられ、仏法の修行は時に叶わなければ成仏が叶わないことを示されている。

 そしていよいよ第四段において、日蓮大聖人の師子王のごとき御振舞こそ末法の時に叶った御修行であり、この御修行により久遠元初(くおんがんじょ)の自受用身(じじゅうじん)・末法下種御本仏としての成道を遂げ給うたことをお示し下されている。
 かくて大聖人様は大慈悲を起こされ、一切衆生のために御自身のお覚りの全体を戒壇の大御本尊に顕わされ、全人類に授与あそばされたのであります。

   【いま時に叶う修行とは】

 では、いま私たちの時に叶う修行とはどのようなものかといえば、先般申したごとく、それは信心口唱と広宣流布のお手伝いであります。
 信心は薄っぺらではいけない。たとえ重病で命終わるとも、迫害で身命に及ぶようなことあろうとも、命ある限り御本尊を信ずる、信心は断じて破らない、大聖人様は絶対に裏切らない―これが身命も惜しまぬ信心であります。
 この透徹の信心に立ち、信心口唱し広宣流布のお手伝いをする。これが時に叶う修行です。この時に叶う修行により、必ず一生成仏を遂げさせて頂けるのであります。
 この佐渡御書の御意(みこころ)を、どうか全顕正会員が命に刻んでほしいと念願しております。

【信心不純になれば似非(えせ)摂受に】

 そしてこの佐渡御書には、いま時に当って、たいへん大事な御法門がお示し下されている。それは「摂受(しょうじゅ)・折伏時によるべし」との御法門です。
 摂受・折伏の立て分けがいかに大事かは、如説修行抄の「凡そ仏法を修行せん者は摂折二門を知るべきなり。一切の経論此の二(ふたつ)を出(い)でざるなり」

 また開目抄の
 「摂受・折伏と申す法門は水火のごとし。火は水をいとう、水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう、折伏の者は摂受をかなしむ」 「摂・折の二門を弁(わきま)へずば、いかでか生死を離るべき」等の仰せによっても明らかです。

 このように摂受と折伏は、実に仏法を弘める上での二大方軌(ほうき)で、それが時に適(かな)って行われなければいけない。すなわち正像二千年は摂受の時、そして末法は折伏でなければいけないのです。
 ところが、信心が不純になる、つまり大聖人に対し奉る忠誠心がなくなると、末法に摂受を持ち込んでしまう。これは臆病と保身から発する似非(えせ)摂受ともいうべきものです。

  【摂受と折伏】

 まず摂受・折伏について、先般の御書講義でも申しましたが、重ねて説明いたします。
 正像二千年すなわち釈尊滅後二千年の問は、過去に下種を受けている者が生まれてくる。これらの衆生は小乗経あるいは権(ごん)大乗経を縁として法華経の覚りに入る機根である。よってこの時代には、小乗経・権大乗経をも一往(いちおう)認め、だんだんと法華経に誘引(ゆういん)する。これが正像二千年の摂受の修行です。
 だが末法に入ると過去に下種を受けた者は一人もない。三毒強盛(ごうじょう)の荒凡夫ばかりとなる。久遠元初に立ち戻るのです。

この時は、根源の大法たる下種の南無妙法蓮華経以外に成仏の法はない。
しかも末法には、権大乗を依拠とする念仏・真言・禅・律等の諸宗は、ことごとく南無妙法蓮華経の大法に敵対する諸法の邪宗になる。
 よってこれらの邪法を捨て、ただ南無妙法蓮華経の大法を信ぜよというのが、末法の折伏であります。

   【御在世にも似非(えせ)摂受の弟子が】

 ところが大聖人御在世の門下でも、信心薄く、臆病で、自己保身の者たちは、難にあえば忽ち折伏の大精神が吹っ飛び、摂受、それも不純なエセ摂受に陥った。
それが、あの竜の口大法難のとき「日蓮御房(ごぼう)は師匠にてはおはせども余りに剛(こわ)し。我等は柔(やわら)かに法華経を弘むべし」 などと小賢しい批判をした者たちであります。
 
 【五老僧も似非摂受】

また大聖人御入滅後の日昭(にっしょう)・日朗(にちろう)等の五老僧を見てごらんなさい。彼らは高位の僧とはいえ、忽ちエセ摂受に陥ってしまったでしょ。その姿を見てごらんなさい。
 まず五人は「天台沙門」と名乗って、日蓮大聖人の御徳を隠した。これは「日蓮大聖人の弟子」と名乗れば迫害がある。これを恐れたからです。
 また五人は「如法経(にょほうぎょう)」とか「一日経」とか言って、法華経二十八品を書写したり読誦したりして、それが「法華経の修行だ」と主張した。

 これに対し日興上人は「如法(にょほう)・一日(いちにち)の両経は法華の真文(しんもん)たりと雖も、正像転時(てんじ)の往古(おうこ)・平等(びょうどう)摂受の修行なり。今末法の代(よ)を迎えて折伏の相を論ずれば、一部読誦を専(もっぱ)らとせず但(ただ)五字の題目を唱えて、三類の強敵を受くと雖(いえど)も諸師の邪義を責むべき者か。此れ則(すなわ)ち勧持(かんじ)・不軽(ふきょう)の明文、上行弘通の現証なり。何ぞ必ずしも折伏の時、摂受の行を修すべけんや」と。
 日興上人は―折伏を行ずべき末法の時に、正像時代の真似事(まねごと)をして法華経二十八品の読誦・書写などして何になる。いま末法は二十八品の読誦などせず、ただ南無妙法蓮華経と唱え、たとえ三類の強敵を受けるとも折伏を行ずべきではないか―と破折されているのです。

 また五老僧は幕府に諂(へつら)って、国家安泰の祈祷(きとう)を、何と念仏・真言等の邪僧たちと肩を並べて行なった。
 これに対して日興上人は「文永免許(めんきょう)の古(いにしえ)、先師素意(せんしそい)の分(ぶん)、既に以て顕われ畢(おわ)んぬ。何ぞ僣聖(せんしょう)・道門(どうもん)の怨敵(おんでき)に交わり坐して、鎮(とこしなえ)に天長地久(てんちょうちきゅう)の御願を祈らんや」とお叱りになっておられる。

  「文永免許の古、先師素意の分」とはどういうことかと言うと―
 幕府は文永十一年三月に大聖人の佐渡流罪を許しているが、このとき幕府は大聖人を懐柔しようとしていたのです。というのも、大聖人様がただならぬ御方であるということも、その御威徳も、いやというほど分っている。
そして蒙古襲来の危機も追っていた。そこで大聖人に、なんとか諸宗と共に蒙古調伏を祷(いの)ってほしいと思っていたのです。

 だから幕府は赦免に際して"布教も許す" "広大な領地に坊を作って寄進し、帰依せん"とまで申し出た。ただし念仏・真言・禅宗等と仲良く共存し、国家の祈りを共にしてほしい、と言ったのです。
 この懐柔に対し大聖人様は、平左衛門に対し改めて諸宗の謗法を示され、ことに真言宗こそ亡国の悪法であり、もし蒙古調伏に真言師を用いるならば「いよいよ急いで此の国ほろぶべし」と強く仰せられた。

 そしてこのとき平左衛門の「蒙古はいつごろ襲来するか」との問いに対し「よも今年はすごし候はじ」とご断言され、身延に入山あそばした。これが「文永免許の古、先師素意の分」ということです。
 日興上人は「かくのごとく明確な大聖人様の御心に背いて、なぜ僣聖(せんしょう)増上慢・進門(どうもん)増上慢の怨敵(おんてき)と肩を並べて国家の祈りなどをするのか」と、五人を強く破祈あそばしたのです。
 まことに、大聖人に対し奉る忠誠心を失って保身に走れば、忽ちに折伏の精神は消え失せ邪法とも交わるようになる。これが魔の入った姿なのであります。

   【池田大作も似非摂受に陥る】

 いま広宣流布の前夜、池田大作がそうなってしまった。これは時に当ってまことに重大であるから、よく心腑に染めてほしい。
 彼は信心薄く、臆病で、名利つよきゆえに、折伏の精神を失い、ついに国立戒壇の御遺命まで捨ててしまったのです。

   【国立戒壇こそ一国折伏の終着点】

 いいですか。
 そもそも国立戒壇というのは、日本一同が邪法を捨てて日蓮大聖人に帰依した時に建てられるものです。
まさしく国立戒壇こそ一国折伏の終着点であり、折伏行の究極の姿なのです。
 ゆえに如説修行抄には
  「法華折伏・破権門理(はもんごんり)の金言なれば、終(つい)に権(ごん)教・権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人(けにん)となし、天下万民・諸乗(しょじょう)一仏乗と成(な)りて妙法独(ひと)り繁昌(はんじょう)せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば・・・」と。

 これが広宣流布の姿ですよ。そしてこのとき「勅宣並びに御教書」すなわち国家意志の表明を以て国立戒壇を建立せよ、というのが大聖人様の御遺命なのであります。
 いいですか。「一人もなくせめをとして法王の家人となし」ですよ。折伏がしんしんと進んで、日本一同が日蓮大聖人の弟子となったとき、始めて国立戒壇が建立される。だからこそ国中の邪法の輩は、国立戒壇をもっとも嫌うのです。
 彼等にもし道念があれば、日蓮大聖人に帰依して自身の成仏を願うべきであるが、商売根性であれば国立戒壇は何より憎い。だから大反対する。これに煽動されて政治家も評論家も反対する。
 池田大作はこの抵抗を恐れたのです。そしてこのような大反対が起これば選挙にも不利になるとして、「国立戒壇」を放棄し偽戒壇・正本堂を建てた、というわけであります。

   【邪宗と平和共存】

 そして、折伏の精神がなくなれば、邪宗との平和共存を必ず図(はか)るようになる。
 見てごらんなさい。彼は自身の名誉称号の数は自慢するが、日蓮大聖人の御名・御徳を隠(かく)すでしょう。これは、大聖人を僧んでいる邪宗にへつらっているからです。

 だから池田大作は、「日蓮大聖人に帰依せよ」とは叫ばない。「戒壇の大御本尊だけが成仏の大法」とも言わない。
 かえって「板曼荼羅(いたまんだら)に偏狭にこだわらない」などと述べて、邪法の者から誉められている。この「邪法の者」とは、バチカン信徒評議会・評議員で、上智大学名誉教授の安斉仲です。池田大作はこの高位のカトリック信徒と対談したとき、前述のごとく述べ、それを安斉からほめられたことを誇らしげに聖教新聞に掲載している。

 その延長として正本堂の完工式に、わざわざローマ法王庁特使の神父を招いて、共に世界平和を折っているのです。まさに五老僧と全く同じです。
 さらに池田は、公明党前代表の神崎武法に、日本の全宗数団体に宛(あ)てた、友好を求める文書をも届けさせている。
 かくて今や、公明党代表の太田昭宏などは、自身の選挙区で神輿(みこし)までかついでいる有様です。ここまで堕落するのです。


   【広宣流布の定義を変更】

 振り返ってごらんなさい。邪宗との平和共存を図るために池田大作が最初に打った手は、広宣流布の定義を変更した「舎衛(しゃえ)の三億」のたばかりでしたね。
 これは「日本の三分の一が入信すれば広宣流布」というまやかしで、正本堂の建設計画を開始した昭和四十年一月に、池田は宗門の細井日達管長にこれを言わせている。
 その後、顕正会の諌暁に遇(あ)ってしばらくはこれを引っこめ、顕正会を解散せしめた三月後の昭和四九年十一月に開催した学会総会に、細井管長を招いて改めてこれを言わせている。
このとき細井日達は学会にへつらい「日本民衆の三分の一が入信すれば広宣流布であり、このとき、大石寺を本門寺と改称する」(取意)

 などと、御遺命に背く己義(こぎ)を公言した。
 これを承(う)けて、当時宗門の総監代務者だった阿部日顕は、この「三分の一で広宣流布」の意義をこう解説した。
 「国中の三分の一に満ちたとき、他の宗教や政治に対する圧力は微塵(みじん)もなく・・・幸福な社会が顕われる」と。
 つまり「三分の一で広宣流布」ということは、まさしく邪宗との平和共存を謳(うた)い上げたものだったのです。
  
 【正本堂の正体】

 まさに学会と宗門は一体になって、国中の邪法との平和共存を前提にしての戒壇建立を企んでいたのです。これが「民衆立」と称する偽戒壇・正本堂の正体だったのであります。
 そして正本堂が崩壊し、醜悪な争いに陥った今になっても、宗門・学会は共に、国立戒壇だけは顧(かたく)なにこれを否定している。完全にこれを捨ててしまった。まさに大聖人様の唯一の御遺命に背き続けているのであります。
  
 【大罰の時代】

 正系門家がこのように御本仏の最大事の御遺命に背いて、日本が保つわけがない。
 ここにいま時来たって、「大罰の時代」に突入したのです。
 その兆(しるし)として、昨年からまず世界規模の経済崩壊が起きてきた。アメリカはいま、オバマ大統領の「チェンジ」が民衆に幻想を与えているが、米国経済はそんな生易しいものではない。底なしの泥沼ですよ。やがて幻想は必ず幻滅となるに違いない。
   (中略)
 しかし今の世界恐慌も、やがて起こる世界大闘諍(だいとうじょう)の序に過ぎないのです。
 この大闘諍(とうじょう)の渦の中で、自ら国を守る力も意志もなく、ひたすらアメリカだけを頼りにしている日本は、いったいどうなるのか。
 やがて必ず日本は、太平洋の四半分を支配せんとする中国によって侵される。この中国の逼(せ)めは、諸天の怒りによるものであるから、絶対に避けられない。すでに航空母艦の建造も開始されているのであります。
  
 【日蓮大聖人こそ日本国の柱】

 いいですか。アメリカだけを頼りにしている日本ではダメです。
 日本が拠りどころとするのは、この国に御出現あそばした日蓮大聖人でなくてはならない。
 日蓮大聖人を日本人の魂(たましい)とし、日本国の柱とするとき、諸天は始めてこの国を守る。それが広宣流布・国立戒壇建立なのであります。
 中国の逼(せ)めまで「あと十有余年」――。
 顕正会は大聖人様の待たせ給う大法戦場に、断じて遅れてはならない。
 さあ、迎える三・四月法戦、二月に勝る力強さで一万四千を大きく突破し、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。以上。(大拍手)


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