昭和11年1月   妙光院機関紙「顕正(後に「顕正の光」に改名)」新春号
創刊、発行人浅井甚兵衛。

昭和12年夏以降 浅井甚兵衛、機関紙論調を支那(中国)への敵愾心高揚と戦争賛美、肯定へ偏向。
曰く「我皇軍は妙国の大慈悲を持ち、破邪顕正の剣を打ち振り、南無妙法蓮華経より出たる日章旗を押し立ててこそ、皇軍の天にかわりて不義を打つの軍歌もハッキリ認識する事が出来るのである」(昭和12年9月13日号「顕正の光」)

昭和16年8月   妙信講誕生、世帯数15。(「冨士」昭和四十五年二月号、
当時青年部参謀・石原康一氏証言「妙信講の誕生は昭和十六年八月、当時僅か十五世帯を率いられた講頭先生の手によって進軍が開始された」)。

昭和23年     浅井甚兵衛、日連正宗宗報に「客殿建立と焼失した信心建立」寄稿。曰く「日本敗戦は正に我が宗門の敗戦であつた。
今を去る昭和廿年大客殿大書院六壷の焼失は、我等僧俗の懈怠誘法罪たる事は遺憾ながら諸賢と共に確認せざるを得ないのである。
敗戰常時を今茲に回顧して見れば、宗祖の御訓戒に悉く背き、國家諫暁の重責を果したとは言へない。」

昭和26年9月  
浅井甚兵衛、宗旨建立七百年慶祝記念出版「仏教手保登記(てほどき)」の印刷に携わる。
同書では「其時の主権者が戒壇堂を御建立せられ」として「国主=其時の主権者説」をとった。
顕正会(妙信講)裏歴史。

顕正会では、発足が昭和32年となってますが、それ以前の知られざる歴史を、ここでは掲載していきます。
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