登用試験問題
 (平成21年度
(出題範囲「折伏理論解説書」)

問一 御本尊と、一念信解の功徳について述べた次文の[ ]を埋めなさい。
 
日蓮大聖人は一切衆生を[ ]せしめんと大[ ]悲を起こされ、御自身が証得された生命の極理たる一念[ ]の南無妙法蓮華経を、文字を以て[  ]に顕わし、一切衆生に[ ]し給うた。
 このことを大聖大は「一念[ ]を識らざる者には仏[ ]を起こし、[  ]の内に此の珠を裏み、末代[  ]の頻に懸けさしめ給う」(観心本尊抄)と。
また「日蓮が[ ]を墨にそめながして書きて候ぞ、[ ]じさせ給へ。(乃至)日蓮が[ ]は[ ]にすぎたるはなし](経王殿御返事)と仰せられている。
 末法の我ら凡夫は、ただこの御本尊を[ ]じて[ ]と唱え奉れば、たとえその義を識らなくても、御本尊の[ ]力・[ ]力により、自然と[  ]させて頂ける。
これか[ ]信解・信[ ]唱の功徳である。
ゆえに大聖大は「小児[ ]を含むに、其の[ ]を知らざれども自然に[ ]を益す。
耆婆(きば)が妙[ ]誰か弁えて之を[ ]せん」と仰せられている。
 実に御本尊こそ日蓮大聖大の大[ ]悲の結晶である。御本尊を[ ]じて南無妙法蓮華経と[ ]える修行なら、誰人にもできる。
この信[  ]唱の法術により、大聖人は全人類をお救い下さるのである。
 ゆえに報恩抄には「日本乃至[ ]土・[ ]氏・一閻[ ]提に、人ごとに有智・[ ]をきらはず、一同に[ ]をすてて南無妙法蓮華経と[ ]うべし」と仰せられる。

問二 幸福について論じた次文の□を埋めなさい。
 
真の幸福とは[ ]に崩れぬ[ ]ニ世にわたるものでなければならない。
この無上[ ]大の幸福境界を[ ]という。
されば人生の究極の目的はこの[ ]を得ることにある。
 人は幸福の条件として地位・財産・名誉等を求めるが、もしその人の[ ]が濁っていれば、求めて得たこれら幸福の条件は、かえって不幸の[ ]となる。
濁った[ ]命とは、貪[ ]・[ ]恚・[ ]癡・慢[ ]などに覆われた地[ ]・餓・[ ]生・修[ ]の四[ ]道の[ ]命をいう。
 所詮、主[ ]である[ ]が[ ]っていれば、幸福の条件と思われるものがかえって不[ ]の[ ]となり、また福[ ]が尽きれば、才能や努力も幸福をもたらさない。
 大聖人はこの道理を「夫れ[ ]きはまりぬれば兵[ ]もいらず、[ ]報つきぬれば所[ ]もしたがはず」と仰せられている。
 ゆえに幸福になるには、[ ]の条件を追い求めるのではなく、[ ]なる生命を見つめて、仏法を実践しなければいけない。
すなわち御本尊を[ ]じて[ ]と唱え奉り、随[ ]弘[ ]に励むことである。

問三 生命の永遠について述べた次文の[ ]を埋めなさい。

 生命は永遠であり、死によって[ ]するものではない。
生死という現象は、永遠の生命が[ ]相から[ ]相、[ ]相から[ ]相へと、その[ ]形態を変化させるにすぎない。
生命はこの生死を繰り返しながら、宇宙と共に[ ]住しているのである。
そして幸・不幸の囚[ ]も、鎖のごとく[ ]にわたって連続している。
ゆえに開目抄には「過去の[ ]を知らんと欲せば、其の現[ ]の果を見よ。未来の[ ]を知らんと欲せば、其の現在の[ ]を見よ」と仰せられている。
 もし生命の永遠を知り[ ]の因果を知れば、人として最も恐るべきは死後の堕[ ]であり、最も願うべきは一生[ ]である。
 堕獄あるいは成仏は、臨終の相に顕われる。
神国王御書には堕獄の相を「人[ ]して後、色の[ ]きは地[ ]に堕つ]と定められている。
 無間地獄の業因は五[ ]と謗[ ]である。
しかし父[ ]を殺す等の五[ ]でも、その堕獄の期間は一[ ]劫であるが、三大秘法を誹謗して無間地獄に堕した者は「展[ ]して[ ]劫に至る」と説かれている。
 御本尊を信ずる者は、現[ ]に宿命転換して幸せになり、臨終には[ ]の相を現じ、生々世々、大聖人の仏法に離れることなく自利[ ]他の楽しく崇高なる人生を永劫に繰り返すことができる。

問四 末法の仏道修行について述べた次文の[ ]を埋めなさい。
  
末法の仏道修行は[ ]と[ ]に尽きる。
 勤行とは[ ]を信じ南無妙法蓮華経と唱える信心口唱を正[ ]とし、方[ ]・[ ]量の両品を読誦するのを[ ]行とする。
そしてこれを人に[ ]めるのが折伏である。
 勤行は白身の修行であるから[ ]といい、折伏は他人を教化して教う修行であるから[ ]という。
広宣流布以前の謗[ ]充[ ]の世においては、この[ ]と[ ]が相俟って始めて時に適う仏道修行となる。
 ゆえに大聖人は「南無妙法蓮華経と[ ]も唱へ、他をも「[ ]めんのみこそ、今生[ ]の思出なるべき」(持妙法華問答抄)
 「[ ]もいたし、人をも[ ]候へ」(諸法実相抄)
 「唯我れ[ ]ずるのみに非ず、又[ ]の誤りを[ ]めんのみ」(立正安国論)
 「末法に入って今日蓮が唱うる所の題目は[ ]に異なり、[ ]に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法抄)と仰せられている。
 折伏は人のためであると共に、自身の成[ ]の修行である。謗[ ]充[ ]の国土においては、折伏を行じなければ知らず知らずのうちに自身が謗[ ]のリズムに同[ ]してしまう。
これを[ ]罪という。折伏は、大聖人の大[ ]たる広宣流布をお手伝いする行為であるから大利益がある。
すなわち一には御本仏の格別の守[ ]を頂き、二には御本仏の眷[ ]としての生[ ]力が湧き、三には過去の[ ]が消滅する等の功徳がある。

問五 権実・種脱を述べた次文の[ ]を埋めなさい。

 釈尊は一代[ ]年にわたって種々の説法をされたが、前[ ]年においては未だ[ ]実を顕わさない[ ]の権[ ]を説き、後[ ]年にいたって始めて[ ]実の[ ]経を説いた。
このことは「[ ]余年には未だ[ ]実を顕わさず」(無量義経)
「正直に[ ]を捨てて、但だ無上道を説く」(法華経方便品)等の経文に明らかである。
 しかるに念[ ]・真[ ]・禅等の諸宗は、[ ]たる[ ]余年の経々に固執して、釈尊出世の[ ]たる[ ]経を誹謗するから謗[ ]の邪宗というのである。
 しかしこの[ ]経も、舎利弗・日蓮等の釈尊在世の衆生にとっての[ ]益の教法であって、末法の衆生には利益がない。
 末法においては、ただ[ ]経の本門[ ]品の文[ ]に秘沈された、日蓮大聖人が弘通された下種の南無妙法蓮華経によってのみ成仏が叶う。
ゆえに「在世の本門と未[ ]の初は一同に純円なり。但し彼は[ ]、此れは[ ]なり。彼は一品二半、此れは但だ[ ]の五字なり」(観心の本尊抄)
「今末法に入りぬれぱ、[ ]経も[ ]経も詮なし。但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)等と仰せられる。
 ゆえに大聖人御在世の念仏等の諸宗は、釈尊と法[ ]経に背いたのみならず、実は下種の御[ ]仏と文[ ]深秘の[ ]に背き奉るという極重の謗[ ]を犯したのである。

問六 日蓮大聖人の出此の本懐について述べた次文の[ ]を埋めなさい。

 日蓮大聖人は、建長[ ]年[ ]月[ ]日の立宗より[ ]年目の弘安[ ]年[ ]月[ ]日に、本門戒壇の大御本尊を建立あそばし出世の本懐を遂げ給うた。
ゆえに「此の[ ]申しはじめて今に[ ]年・弘安[ ]年なり。[ ]は四十余年、[ ]大師は三十余年、[ ]大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。(乃至)余は[ ]年なり」(出世本懐成就御書)と仰せられている。
出世の本懐成就の機縁となったのは[ ]の法難である。
神[ ]・弥[ ]・弥[ ]等の[ ]衆は平[ ]の責めにも怖じず、大聖人に宿無し奉る不惜[ ]の信心を貫いた。
これ大聖大の[ ]王心に同心し奉ったゆえである。「[ ]王は百獣に怖ぢず、師子の[ ]又かくのごとし」とはこれである。
 名もなき[ ]が、集団として大聖人の[ ]王心に同心し奉ったこの[ ]同心こそ、未来[ ]流布の瑞相であり、[ ]建立の先序である。
ここにおいて大聖人は、[ ]等[ ]衆を本門戒壇の大御本尊の[ ]とし給うたのである。
 この大御本尊は、末法の全人類に[ ]じて授[ ]し給うたもので、広宜流布の暁には[ ]戒壇に奉安される。
この大御本尊こそ久遠[ ]の[ ]身たる日蓮大聖人の御[ ]体であられる。
 [ ]戒壇建立の時には、必ず一国に熱原の[ ]講衆のごとき信心が漲る。
そして日本国の国主たる[ ]も、国政を司る[ ]も、一同に三[ ]法を受持し、この大御本尊を守護するためには身命も惜しまぬという大[ ]心に立ち、仏法守護の国家[ ]志の表明がなされる、
このことを三大秘法抄には「王臣一同に本門の三大秘密の[ ]を持ちで、[ ]王・[ ]比丘の其の乃往を末法[ ]の未来に[ ]さん時、[ ]し並びに御[ ]を申し下して]等と仰せられている。


問七 信心口唱について述べた次文の[ ]を埋めなさい。

 信心口唄こそ、御本尊の無量無辺の[ ]徳を頂く[ ]術である。
これを薬の服用に譬えれば、薬を[ ]に取ることは御本尊を[ ]ずることに当り、薬を[ ]むことは南無妙法蓮華経と[ ]え奉るに当る。
 本門の題目について日寛上人は「但本門の[ ]を信じて[ ]と[ ]うるを、本門の題目と名づくるなり」「信[ ]具足を方本門の[ ]と名づくるなり」と定義されているが、まさしく信心□唱こそ、この本門の題目に当るのである。
ゆえに、信心かあっても[ ]に唱えなかったり、口に唱えても[ ]がないのは、いずれも本門の題目ではない。
まさに[ ]じ[ ]える信心口唱こそ、本門の題目なのである。
 大聖人はこの信心口唱を以て、[ ]夫を仏に成さしめ、全人類をお救い下さるのである。
ゆえに本因妙抄には「信心[ ]盛にして唯余[ ]無く南無妙法蓮華経と唱え泰れば、凡[ ]即仏[ ]なり」と仰せられまた日寛上人はこの信心口唱を「是れ吾が家の最[ ]、蓮祖[ ]導の[ ]事なり」と指南されている。



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