顕正新聞・平成4年8月15日・25日合併号

「近代宗門の歴史と今日の問題」特別講習会開催
【大石寺の清濁が日本の命運決する 未曾有の濁乱、未曾有の国難到来か】

講義の冒頭、浅井先生はこの特別講習会を開くゆえんについて、次のように述べられた。
 「大聖人は『仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし、体曲れば影ななめなり』と仰せられている。
 では、その『体』である仏法はどこにあるかといえば、世界の中には日本、日本の中には日蓮正宗・富士大石寺にのみある。
ゆえに大石寺の信心が曲がれば、日本は必ず傾くのである。
 いま宗門は御本仏の御遺命に背いて『国立戒壇建立』の宿願を捨ててしまい、この罰により、七百年来未曽有の自界叛逆(じかいほんぎゃく)で大混乱を呈している。
 正系門家のこの大混乱こそ、やがて日本が傾く前相であると、私は思っている。
 宗門の今日の事態は、決して突如として起きたものではない。
その遠因は近代宗門の歴史の中に見ることができる。また近代宗門の歴史を知るとき、仏法と国家の命運がいかに密接であるかが、よくわかる。
 ここに、今日の宗門・国家の深刻な事態を眼前にして、法のため、国のため、捨身の御奉公の決意を堅めるべく、本日この講習会を開いた次第である」と。
 以下、二時間にわたる講義の大要は次のごとくであった。


【日蓮正宗が唯一の正系門家である理由】

(1)本門戒壇の大御本尊ましますゆえに
(2)唯授一人の血脈相承ましますゆえに
(3)国立戒壇建立の御遺命堅持のゆえに


 身延派、顕本法華宗など、日蓮宗を名乗る諸派は多いが、日蓮大聖人の仏法を正しく受け継いだ正系門家は日蓮正宗以外になく、他はすべて似(に)て非(ひ)なる邪宗である。
 なぜ日蓮正宗だけが唯一の正系門家なのか。その理由は次の三つである。

 (1)本門戒壇の大御本尊ましますゆえに
 (2)唯授一人の血脈相承ましますゆえに
 (3)国立戒壇建立の御遺命堅持のゆえに


 (1)についていえば、本門戒壇の大御本尊は、御本仏日蓮大聖人が御自身のお覚(さと)りの全体を一幅に顕わされ、末法の全人類の成仏の法体として留め置かれた出世の本懐の大御本尊であって、御年五十八歳・弘安二年十月十二日の御図顕であられる。
 この出世の御本懐たる戒壇の大御本尊を信じない者は、何よりも御本仏に背くの輩である。

 (2)についていえば、かかる重大なる成仏の法体「戒壇の大御本尊」は、誰人に付嘱(ふぞく)され、今日まで護持されてきたか、ということである。
 仏法には必ず付嘱ということがある。もし付嘱がなければ、仏法は後世に伝わらない。
 ゆえに釈尊は上行菩薩に、天台大師は章安に、伝教大師は義真に、それぞれ仏法を付嘱している。このように仏法は唯一人に付嘱されるのである。末法の御本仏が、どうして下種の大法を付嘱されないわけがあろうか。
 では、日連大聖人は誰人に付嘱あそばしたのかといえば、多くの御弟子の中からただ日興上人一人を選び、法体たる本門戒壇の大御本尊を付嘱されている。これを「唯受一人(ゆいじゅいちにん)の血脈相承(けちみゃくそうじょう)」という。
 この唯授一人の血脈相承は、日興上人から日目上人、日目上人から日道上人、さらに日行上人・日時上人・日阿上人・日影上人・日有上人等と、一器(いっき)水を一器にうつすごとくに伝えられ、今日に至っている。

 (3)についていえば、大聖人は広宣流布の時、国立戒壇を建立してその戒壇堂に本門戒壇の大御本尊を安置し奉ることを御遺命された。
 この御遺命こそ、戒壇の大御本尊の命用(みょうゆう)により、日本を、世界を、仏国土と化するという、大聖人の究極の大願であられる。
 御在世には未だ広宣流布の時いたらず、よってこの一大事を日興上人に御遺命されたのである。
以来七百年、日蓮正宗は一日としてこの御遺命を忘れることなく、国立戒壇建立を唯一の宿願として戦ってきたのである。
 以上が、日蓮正宗が正しいという三つの理由である。もし邪宗日蓮宗と法論をするようなときには、この三つを、しっかりと肝に納めて法論するように。この三つは、日蓮正宗以外にはない。だから唯一の正系門家というのである。
その文証を次に示す。

 【文証】
 まず第一の文証は「一期弘法付嘱書(いちごぐほうふぞくしょ」である。
 「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闇梨(びゃくれんあじゃり)日興に之(これ)を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ・事の戒法と謂(い)うは是れなり・就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
 弘安五年壬午九月 日 日蓮 在御判  血脈(けちみゃく)の次第日蓮 日興


 短かい御文であるが、この中に、日蓮正宗が唯一の正系門家たる三つの理由が、端的に示されている。
 まず「日蓮一期(いちご)の弘法(ぐほう)」とは、御本仏・日蓮大聖人の一期の大事・出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊の御事である。

 「白蓮阿闇梨日興に付嘱す」とは、唯授一人の血脈付嘱が示されている。この付嘱のゆえに、日興上人は「本門弘通の大導師」すなわち三大秘法広宣流布の大導師となられたのである。
また末文の「血脈の次第日蓮 日興」の金文こそ血脈相承の重大な文証である。
 「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とは、まさしく国立戒壇建立の御遺命である。――以上、「一期弘法付嘱書」に三つの理由はまさに顕然ではないか。
 
 文証の第二は、日興上人から日目上人への付嘱書たる「日興跡条々事(あとじょうじょうのこと」である。
 「日興が身に宛(あ)て給わる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝(そうでん)す。本門寺に懸(か)け奉るべし」

 まず「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊」とは、弘安二年十月十二日に御図顕あそぱされた本門戒壇の大御本尊の御事。
 次に「日目に之を相伝す」とは、日興上人から日目上人への唯授一人の血脈相承。
 また「本門寺に懸(か)け奉るべし」とは、広宣流布の暁の「富士山本門寺」すなわち国立戒壇に戒壇の大御本尊を安置し奉るべし、との御遺命である。
 この短い御付嘱状の一文にも、三つは顕然として顕われている。実にこの三つこそ、下種仏法の命(いのち)なのである。

【不相伝日蓮宗 は悉く邪宗】

 日蓮正宗以外の不相伝日蓮宗は、名は日蓮宗と名乗っていても、ことごとく大聖人に背き奉る似て非なる邪宗である。
その邪宗である理由は、前に挙げた三つに背くゆえであるが、いま具(つぶ)さにこれを挙げれば
 
(1)釈迦を本仏と仰ぎ、大聖人を「僧宝(そうぽう)」と下している。
(2)本尊には釈迦仏を立て、あるいは雑乱勧請(ぞうらんかんじょう)をしている。――雑乱勧請とは、鬼子母神・竜・稲荷(いなり)などをやたらと祀(まつ)ることである。身延派などはみんなこれをやっている。
(3)日興上人への血脈付嘱を否定し、国立戒壇の御遺命を無視している。
 これらを見れば、不相伝日蓮宗が、ことごとく大聖人に背く師敵対の邪宗であることが、よくわかるであろう。

【日興上人の御遺誠】

 第二祖・日興上人は、正系門家・日進正宗が広宣流布・国立戒壇の御遺命を達成するための用心として、御入滅のひと月前に二十六箇条の御遺誠を遺(のこ)し給うた。

 そのうちの肝要の六箇条を《判読不可能》「富士の立義、聊も先師の御弘通に遣する事」この一条は、富士大石寺のみが、日蓮大聖人の仏法を正しく伝えている唯一の正系であることの宣示である。
すなわち大石寺に伝えられる仏法以外に成仏の大法はない、ということである。

「五人の立義、一々に先師の御弘通に遣する事」
 この一条は、富士大石寺以外の門流はことごとく大聖人の御弘通に背いていることを明確にされている。
「五人」とは日昭・日朗・日向・日頂・日持の五人。
大聖人門下の上首六人のうち、日興上人を除くこの五人は、大聖人滅後たちまちにして本尊・修行等を改変し、大聖人に背いてしまった。
 ゆえに日興上人は後世のために、富士大石寺以外の他門流はことごとく無得道であると、ここに宣告されているのである。

 「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通(ずいりきぐつう)を致すべき事」
 この一条は、御遺命実現への御命令である。広宣流布・国立戒壇建立の御遺命を受けているのは日興上人の門流・富士大石寺の一門だけである。
よって、日興上人は門下に、この御命令を下されている。
「謗法(ほうぼう)と同座(どうざ)すべからず、与同罪(よどうざい)を恐るべき事」これは謗法厳禁(ほうぼうげんきん)の御命令である。
「謗法と同座すべからず」とは、謗法を呵責する心もなく、同じ仏教だからといって念仏・真言・禅宗などの邪宗と共に平和祈願をやったり、あるいは同じ日蓮宗だからといって一緒に宗教運動などをしてはいけないという誠めである。
「与同罪」とは、謗法に与同(よどう)《味方》をする罪である。
たとえ自分は謗法法をしなくても、仏法を破壊する謗法者を見て、その謗法を責めもせず黙認することは、その罪、謗法者と同じことになる。これを与同罪という。

 大聖人は秋元抄に
 「譬えば、我は謀叛(むほん)を発(おこ)さねども、謀叛の者を知りて国主にも申さねば、与同罪は彼(か)の謀叛の者の如し」と仰せられている。

 このように、仏法を破壊する者を見ながら、その謗法を責める心もなく同座することは、与同罪となる。
念仏・真言・禅等の諸宗は、同じ仏教の一派ではない、釈尊・法華経に背く仏敵なのである。
また不相伝日蓮宗諸派は、同じ大聖人門下ではない、大聖人・戒壇の大御本尊に背く仏敵なのである。

 民部日向(みんぶにこう)は権カにへつらい、真言等の謗法者と肩を並べて国家安泰の祈祷をやった。
日興上人はこれを厳しく誠め給うておられる。

 また邪宗日蓮宗の坊主どもと、同じ日蓮門下だからといってさまざまな運動をやることは、正系門家においては絶対に許されない。
昭和四十四年に学会が宗門にやらせた「聖人展(しょうにんてん)」、あるいは昭和四十七年正本堂にキリスト神父を招いて世界平和祈願をしたことなどは、まさにこの謗法同座・与同罪当たる。

時の貫首(かんず)たりと雖(いえど)も仏法に相違(そうい)して己義(こぎ)を構えば、之を用うべからざる事
 この一条は、大聖人の仏法を守るためにはかくあるべしとの御命令である。
たとえ時の貫首(かんず)《法主・管長》であっても、大聖人の仏法に背くことを《判読不可》その己義を絶対に用いてはいけない、と仰せられる。
仏法を守るためには、日興上人はこのように厳格であられた。
 これは、法主であっても仏法上の誤りを犯すことがある、ということを前提にしての御誠めである。正法には魔障がつきものだからである。

 ゆえにもし時の法主に仏法上の誤りがあったなら、諌めなくてはいけない。
それが大聖人への忠誠であり、また貫主への忠義となる。
 昭和四十年代、時の法主の言葉として大事の御遺命が破壊されんとしたとき、この違法を諌めたのは顕正会だけであった。
顕正会は、日興上人のこの一条の御遺誠を守ったのである。
「衆議(しゅうぎ)たりと雖も仏法に相違あらば、貫首(かんず)之(これ)を摧(くだ)くべき事」

 これは、時の法主に対し、日興上人が下された仏法守護の御命令である。
もし日蓮正宗の中で、数の力を以て仏法相違のことを押し通そうとする者あれば、貫首は断固としてこれを打ち砕かねばならないと仰せられる。
 創価学会が数の力を頼んで、国立戒壇の放棄を迫り、正本堂の誑惑を認めさせようとしたとき、法主は敢然とこれを打ち砕かなければいけなかった。
 ところが時の法主は、打ち砕くどころか学会の金力・権力にへつらって、御遺命破壊に与同してしまった。
このことが、今日の重大なる事態を招いてしまったのである。
 まことに日興上人の御遺誠は正系門家・日蓮正宗の憲法だある。
この御遺誠が破られるとき、日蓮正宗の信心は曲がり、国家にもその影響を及ぼすのである。


【近代宗門の歴史】
【(1)幕末から明治の宗門 日霑上人の捨身の国諌・護法】

 徳川幕府の末期から明治維新にかけては、日本の歴史における大変動期であったが、このとき宗門に出現されたのが、大英師・第五十二世・日霑上人であられた。

 【幕府へ諌状】

 日霑上人は、おりからの天変地夭・内憂外患をごらんになり、幕府に対し敢然と諌暁に立たれた。
 万延二年二月一日、上人は大石寺より江戸に下られ、小石川水道橋において幕府の寺社行(じしゃぶぎょう)・青山大膳を待ち受けて直訴された。
不穏な社会状勢で殺気立つ当時の権力者を諌めることは、文字どおり一死を賭しての決死行であった。

 直ちに不審の者として三日間拘留(こうりゅう)されたのち取り調べがあったが、日霑上人は奉行所において堂々と諌状の趣きを説明され、同月二十六日、大石寺に帰山されている。
 その諌状に云く
  「早く諸宗の僧侶と勝負を公然に決し、速かに邪宗を対治(たいじ)して正法を立つるにあらざれば天災弥(いよい)よ増長し、自界他国(じかいたこく)の兵災亦(ひょうざいま)た計(はか)り難(がた)き者か。
日霑不肖(ふしょう)と雖(いえど)も仏弟子の一分たる、殊(こと)に天恩を蒙(こうむ)り是の大災を見て之を申さずば、頗る(すこぶる)る不忠の至り、且(か)つ仏法中怨(ぶっぽうちゅうおん)の呵責(かしゃく)将未脱(のが)れ難し。
故に身命を顧みず権威(けんい)を犯(おか)し奉る。是れ併(しかしなが)ら身の為に之を申さず、偏(ひと)えに天下泰平・国土安穏を祈り奉らん為、粗(ほ)ぼ梗概(こうがん)を仰ぐ所なり。誠惶誠恐(せいこうせいきょう)言上仍(よ)って件(くだん)の如(ごと)し

 まことに一死を賭しての御決意は行間いあふれているのではないか。涙の出るような国諌状である。

  「早く諸宗の僧侶と勝負を公前に決し、速かに邪宗を対治して正法を立てよ」と。―日本国中の諸宗と公場対決して正邪を決すべしと仰せられるので中途半端な教学、陰弁慶(かげべんけい)ではこれはいえない。
よほどの確信、そして捨身の御決意なくして、どうしてこの御言葉が言えようか。
 さらに云く、"もしこの事を言わなければ不忠の者となり、大聖人に背く罪は将来のがれ難い"よって「身命を顧みず権威(けんい)を犯し奉る」と。
 この御精神は、まさに大聖人・日興上人・日目上人の御心のままであり、ただただ頭が下がるものである。

 【明治政府への上書】

 明治六年には、明治新政府の行政上の都合から、各宗派に対し統合についての大政官布告(だじょうかんふこく)」が出た。
そして大石寺に対しては、身延を総本山としてその下に入れ、との命令が下った。

 明治新政府は法治国家の体裁はとっているが、今日の柔らかな政府とは違って、有無(うむ)をいわせぬ恐ろしい独裁権力である。
 この国家権力に対し、日霑上人は正系門家を守るため、敢然と一書を認(したた)められた。
 「焉(なん)ぞ、正(しょう)を持って邪(じゃ)に屈(くっ)し是(ぜ)を持って非(ひ)に合轄(ごうかつ)せらるるの理あらん。是れ実に臣等痛哭(しんとうつうこく)、設(たと)戮(りく)を蒙(こうむ)るとも奉命(ほうめい)に耐(た)えざる処(こころ)なり。・・・
・・・彼(か)の門葉(もんよう)の強大なるを以て、我をして屈せしめ、彼に所轄(しょかつ)たらしめんとならば、臣等むしろ服を更(か)え、道路に餓死(うえしに)する事ありとも、敢(あえ)て奉命(ほうめい)に耐(た)えざる処(ところ)なり。

願くは寛大の哀隣(あいりん)を垂(た)れさせられ、明(あきら)かに其(そ)邪正(じゃしょう)を決し、而(しょう)して後(のち)其の処置(しょち)を給わらん事を」
 身延と大石寺において、法の邪正を決することもなく、ただ強大なる身延の下に大石寺は付くべしということならば、「たとえ戮(りく)を蒙るとも奉命(ほうめい)に耐(た)えざるところ」「服を更(か)え道路に餓死することありとも奉命に耐えざるところ」と必死の思いをこめて繰り返されている。

 まことに、唯一の正系門家を守らんとの御気魂は師子王のごとくである。
 この日霑上人の御気魂がついに通り、さしもの独裁権力の明治政府も身廷への合轄(ごうかつ)を強行することなく、ここに大石寺の清流は厳然と守られたのであった。
 この日霑上人の御振舞がいかに偉大なものであるかは、次の大正時代以後の宗門と比べてみるとき、実感としてわかる。
 まさにその後の宗門と比べるから霑尊の偉大さがわかり、霑尊と比べるからその後の宗門の腐敗・堕落がわかるのである。


(2)大正時代の宗門
【僧侶の妻帯 始まる】

 広宣流布が近づいてくると、魔はいよいよ正系門家を狙い、広宣流布を妨げようとする。
 明治以前と以後の宗門において、僧侶の気風に大きな違いをもたらした最大の要因は、私は僧侶の妻帯にあったと思う。

 宗門においては、日霑上人はもちろんのこと、第五十五世・日布上人までは聖僧であられた。
私が日布上人について、しばしば「行体堅固の聖僧」と申し上げてきたのは、この意である。
 だが、次の代から、さまざまな乱れが出始め、次の五十七代の日正上人の時になると、なんと邪宗日蓮宗各派と手を結び、忌(いま)わしき謗法与同をするまでに至る。
さて、僧侶の妻帯について大聖人はどう仰せられているか。

 「尤(もっと)も比丘(びく)と成っては権宗(ごんしゅう)の人すら尚然るべし、況んや正法の行人(ぎょうにん)をや。たとえ権宗の時の妻子なりとも、かかる大難に遇(あ)はん時は振捨(ふりす)て正法を弘通すべき処(ところ)に、地体(じたい)よりの聖人尤(しょうにんもっと)も吉(よ)し、尤も吉し」(最蓮房御返事)

 これは、佐渡御流罪中の大聖人に弟子入りした天台僧・最蓮房への御指南である。
 ―出家となるにおいては、権宗(念仏・真言)の者ですらなお妻子などは持たない、いわんや正法を弘通する僧においておや。たとえ権宗のときに帯(たい)した妻子であろうとも、正法を弘通する時には振り捨てて御奉公すべきところ、もとからの聖僧であることは、まことに吉(よ)いことである――と仰せられている。
 また日興上人は「先師が如く、予が化儀(けぎ)も聖僧たるべし」(日興聖人遺誡置文)

―先師大聖人のごとく、自分の行躰(ぎょうたい)もまた聖僧である―と仰せられ、出家の妻帯を禁じておられる。
 いまは坊さんが女房を持つのは当り前のようになっているが、堀日亨(にちこう)上人は「自分はいまの状態は一時の変体(へんたい)と見ておる」(富士日興上人詳伝)といわれている。
つまり出家の妻帯は、広布前夜の一時期の変態現象であって、これが常態であるべきはずはないのである。
 本宗において、明治の末から大正にかけて、この"一時の変態現象"に宗門が覆われ、同時に、信心が崩れてきたのである。
これも広布が近づくにつれての、魔障のゆえであろう。

 【謗法与同】

 【(1)門下統合問題】

 第五十七世・阿部日正上人のとき、身延派日蓮宗・顕本法華宗などの六宗と日進正宗が、互いに手を取り合って布教しよう、そのために統合しようじゃないか―という機運が持ち上がった。
 これを仕掛けたのは、当時「教傑(きょうけつ)」などといわれていた国柱会(こくちゅうかい)の田中知学と顕本法華宗の本多日生(にっしょう)である。

 二人は前々から、二つのこ泡を実現しようと「黙契約(こくけい)」を結んでいた。
その一つがこの「門下統合」、もう一つが「立正大師の諡号宣下(しこうせんげ)」であった。
 この二人の謗法の野心家が企(たくら)んだプランに、あろうことか本宗の日正上人が乗ってしまったのである。
これこそ謗法与同そのものと言わねばならない。
 田中・本多は、ともに戒壇の大御本尊を誹謗する大謗法者である。
この二人について簡単に説明しておく。

田中知学はもと身延派の僧侶であったが、在家となって蓮華会を作り、のちに国柱会を作った。
いわゆる口八丁・手八丁のやり手で、法門もなかなか立つ。
 この者、明治十五年に日霑上人と筆戦を交えている。これが有名な「横浜問答」である。田中は霑尊に完全に破折され、回答不能となるや姿をくらまし、それから日蓮正宗の教義を必死に学び、自宗の教義に盗み入れたのである。

 どのように法義を盗んだかといえば、大石寺の戒壇の大御本尊に対抗して、「佐渡始顕(しけん)の本尊」などという偽本尊をかつぎ出し、なんとこう言い出した。「国立戒壇尊定の時、此の御本尊を奉遷(ほうせん)す」「閻浮同帰(えんぶどうき)の戒壇本尊とすべし」(宗門の維新)と。

これでは本心の戒壇の大御本尊の真似(まね)そのものではないか。
 また彼は「護国曼荼羅(ごこくまんだら)」と称する偽本尊をもかつぎ出している。これは天皇にへつらう魂胆(こんたん)から言葉たくみに宣伝したものであるが、この「護国曼荼羅」なるものは、弘安四年五月十五日の聖筆などと彼は言うが、一目でわかる真っ赤な偽物である。

 このように偽本尊を立てた田中は大石寺を敵視し、「邪統興門(じゃとうこうもん)悪義撲滅(ぼくめつ)「興門は仏法に非ず」などのスローガンを立て、盛んに日興上人門流の正嫡・大石寺を誹謗した。
 そして本多日生が明治三十四年三月に本家と法論するに至ったときには、田中は前以て本多に「大石寺派は奸毒(かんどく)・譎詐(きつさ)至らざるか陋劣(ろうれつ)の徒である」等と″忠告″の書を送っている。

 一方、本多日生は顕本法華宗の管長であり、田中と同じくなかなかのやり手で、前述のごとく、明治三十四年三月には、本宗に法諭を申し入れ、日正上人(当時・阿部慈照と名乗る)と法論をしている。
この法論の両者の記録を見るに、未だ決着は付いてない。論戦の途中で暴漢が壇上に現れて本多の発言を封じ、ために場内騒然、警官により解散させられたというのがその結末である。
しかもその後、顕本法華宗の側からは、本宗に対し、執拗に法論の再開を追っている。

 このように田中・本多の二人は、まさに法敵・仏敵である。
ところがこの法敵と、大正三年、日正上人は手を取り合って門下の統合を議し、協力しているのである。
 さて、統合問題がどうして起きてきたかというと、当時は自由主義・赤化(せきか)思想(共産思想)が社会に流行(はやり)り、天皇中心の国家主義を″健全思想″とする政府は、この対策に頭を悩ませていた。
 田中智学・本多日生は、この機に乗じて、いわゆる「日蓮主義」を売りこんだ。
彼等は″御用宗教家″だったのである。

 彼等は「日蓮上人こそ、日本国体の開顕者、国家主義者、そして天皇陛下の無二の大忠臣である」などと摧尊入卑(さいそんにゅうひ)して、軍人・政治家・実業家などに宣伝し、社会の上層部と交わりを深めていった。
そしてその一方、社会の要請に応えるという口実で、「日蓮門下統合」という野心を実現せんとしたのであった。
 先にも述べたように、この「統合」は本多がプランを立て、田中が応援し、身延派管長の小泉日慈、日蓮正宗の日正上人、そして顕本法華宗の本多日生の三人が発起人となり、「連合布教」という名目のもと、進められたものである。

 本多日生はそのいきさつを、次のように述べている。
  「この統合の計画をいたしましたのは、本年(大正三年)の十月二十二日であります。
小泉管長と阿部管長(日正上人)と私の三人の間で、まず今日の気運を逸しないように統合をやろうじゃないかという相談をいたしました。
いずれも意見が一致いたしましたから、三人が統合を促すところの意見書を作りまして、これを他の教団に発送いたしたのであります」かくて、大正三年十一月八日、池上本門寺に七教団の管長が集り、「日蓮門下各教団の統合帰一の実現を期し」「対外布教を一致して行う」などの宣言書・決議書に連署した。

そしてこの館長会議に引き続いて、池上本門寺で「大懇親会」なるものが開かれたが、その模様を伝える当時の報道記事によれば「各派の名僧智識、紅・紫とりどりの服装にて入場、席定まるや一同宗歌を合唱し、阿部管長(日正上人)、七管長を代表して『水魚の思いをなし……』と挨拶」と伝えている。

 緋(ひ)の衣(ころも)や紫の袈裟(けさ)を着けた邪宗の坊主と平然と同座し、「水魚の思いをなし」とは、いったいどういうことなのか。
まさに「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」との日興上人の厳誡を犯すものではないか。
 この統合問題はそのうちにウヤムヤになってしまった。
こんなものは、初めから出来るわけがない。もし統合帰一ができるとすれば、日霑上人の仰せのごとく、公前に勝負を決し、邪が正に帰伏する以外にはあり得ないのだ。
しかるに、日正上人は正系門家の正嫡でありながら、邪宗日蓮宗の仏敵・法敵と手を結ぶという謗法与同をしてしまったのである。


(2)「立正大師」問題

 このような不純な統合問題の延長が、大正十一年の「立正大師」諡号(しごう)宣下問題であった。これは、《判読不能》各教団が共に天皇に奉請し「大正大師」の諡号(しごう)を宣下(せんげ)してもらおうという計画である。
 これも本多の発案、田中の賛成で事が進められた。
本多はまず「日蓮崇拝者」といわれる政治家・軍人を廻わって協力を要請したのち、各派管長を歴訪して賛意を取り付けた。

 その宮内庁への請願書に云く
  「日蓮聖人は、熱誠なる勤皇愛国の国士なり
 「北条氏の迫害に逢うて断頭場に臨むも、なお立正の主張と勤皇の大義を絶叫してやまず
「今や我が国情は人心の向上を促し、思想の健全を期するより緊要なるはなし。この時に当りて、思想界の先覚者・勤皇の国士たる日蓮聖人に対し、その徳を表彰せらるるにあらば・・・」と。
 日蓮大聖人は久蓮元初の自受用身、末法下種の主・師・親、全人類を現当二世にお救い下さる御本仏であられる。
しかるに″勤王愛国の国士たる日蓮聖人に、国家の思想健全を期するため、大師号を下さい″と請願をしたのである。
しかも未だ帰依もせぬ天皇に対してである。

 まさに「日蓮を用いぬるとも、悪(あ)しく敬わぱ国亡ぶべし」のお叱りに当たる。
 だが、この請願書に、身延派など六教団の管長と共に、日正上人も署名をしている。
 大正十一年十月十三日、七人の管長は自動車に分乗して宮内省へ赴き、うやうやしく「立正大師」の宣下書(せんげしょ)を押し頂いてきた。

 さらにその帰途、一行は水交社(すいこうしゃ)に立ち寄り、宣下書の奉戴式(ほうたいしき)をやった。
式場には各宗の管長ならびに請願に賛同した政治家・軍人が列席し、まず身延の管長・磯野日筵(にちえん)の発声で自我偈(じがけ)・唱題が一同して行われている。
そして祝辞の最後には日正上人が挨拶をしているのである。
 謗法同座、与同罪、まさにここに極まれりというべきである。
 唯一の正系門家の信心がここまで濁れば、国家に影響のないはずはない。
 果せるかなこの翌年(大正十二年)、関東大震災が起き、これを破局の号鐘として、日本は戦争の泥沼にはまりこんでいったのである。

 日正上人御自身もまた、この「立正大師」の謗法与同直後から悪病に犯され、十ケ月のちの大正十二年八月十八日、すなわち関東大震災の十四日前に遷化(せんげ)されている。
 近代宗門の歴史を大観するに、どうやらこのあたりがプラックホールのように思われる。
日正上人のこの謗法与同の結果、その後の宗門は日柱上人追い落し事件や相次ぐ管長選挙などで、大いに乱れる。

【日柱上人 追い落し事件】

 「日柱上人追い落し」という忌わしい事件も、その源は、日正上人から日柱上人への付嘱の形式が、必ずしも第三者の眼に明らかでなかったことに起因している。
ために日柱上人は僧侶間で軽く見られ、加えて柱師御自身の性格も相俟(あいま)って、一山の僧侶が日柱上人に背き、ついに総本山から追い出すという事件が起きてしまったのである。

 ついでに言っておくが、創価学会は阿部日顕管長憎しのあまり、父君の第六十世・日開上人をも貶(おとし)めんと、日柱上人追い落しの黒幕は日開上人だった」などと中傷をしているが、これはとんでもないウソ・捏造(ねつぞう)である。
 この事件を策謀した黒幕は、総務(現在の総監)であった有元広賀(大慈院日仁)と宗会議長の小笠原慈聞、それと水谷秀道(後の隆師《りゅうし》)であったことは、宗史の示す事実である。

日開上人の●●に、どうしても一言しておかなければならない。
上人は正直・篤実、そして極めて謙譲の御性格であられ、派閥を作り政争を事とするそこらの悪侶とは、全く類を異にする御方であられた。
 このことは私が敢えていうまでもない。
先師の筆記に示されているから紹介しておく。

 第六十五世・日日淳人は「日開上人は性来非常に謙譲な御方であって、むしろ謙譲すぎられると一般から言われていた方である。
この上人が、何んで日亨(にちこう)上人の地位を奪いうかがうという事をなし得たであろうか」と仰せられている。
これは安永弁哲(身延派僧侶)が、小笠原慈聞か流した情報をもとに日開上人を誹謗したことに対する反論である。

ちなみに、日柱上人は五十八世、日亨上人は五十九世、日開上人は六十世である。
「日亨上人の地位を奪いうかがう」などの悪口も捏造(ねつぞう)、いわんや日柱上人の事件においておやである。
 また細井管長も、日開上人の御徳については次のように讃嘆している。
「上人は資性篤実(しせいとくじつ)謹厳至誠(きんげんしせい)の方で、法主上人の命は、ただこれ、かしこみ従うという人であった。……上人は七十一歳で蓮葉庵(れんようあん)御遷化(ごせんげ)になられた。七日間座棺(ざかん)して居間に安置せられてあったが、柔和なお顔、端正な目鼻立ちは少しも形を変えず、まことに仏身の相貌を私共に示された如くであった」と。
 これらの文証でよくわかるであろう。

学会の日開上人に対する悪罵中傷は、ことごとく謀略・感情から発するもので、これは大きな罪障となる。
 日柱上人追い落しという悪夢のごとき事件も、その源は先代に発し、そのスキに乗じて有元・小笠原等の魔侶が跳梁(ちょうりょう)して事件に至ったこと、仏法の上から、よくよく見つめなければいけない。


【(3)戦時中の宗門】
【時局便乗坊主の跳梁】


 日柱上人追い落しに暗躍した有元広賀(こうが)・小笠原慈聞(じもん)の二人は、大正十五年と昭和三年に行われた管長選挙において、いかんなくその悪党ぶりを発揮する。

 管長選挙などということは、本来血脈相承を命とする本家にはなじまない。
しかし二度だけ行われた。そしてこの選挙により、宗門はいよいよ乱れを増すのである。
 一方国家においては、昭和六年に満州事変、同十二年に日中戦争と、底知れぬ戦火の泥沼にはまりこんでいく。
軍部は国民を総動員するために思想を統一しようとした。

 その思想とは、天皇を中心とした国家主義である。
天皇は現人神(あらびとかみ)とされ、したがって皇室の祖たる天照太神は、なにものにも
勝る国神とされた。つまり当時の日本は、国家神道を国教とした軍国主義国家だったのである。
 本宗僧侶の中で、この時局に便乗して、軍部・致府にへつらって大聖人の御心を曲げる者が次々と出た。
その代表格が有元・小笠原の二人であった。

 【有元広賀の便乗】
 有元広賀が当時どのようなことを言っていたかを、ちょっと紹介しておこう。
 軍国主義のもとでは「日の丸」の国旗は軍国日本の象徴であったが、彼は時勢におもねて「国旗は死を以て防衛すべき」などと、しきりと叫んだ。
 これが本宗僧侶の言うことであろうか。
仏法を命をかけて守れ、というならわかる。
彼は"国旗のために死ね"(爆笑)といったのである。

 そして自ら住職を務める品川の妙光寺の境内に「国旗台」を作り、わざわざ文部大臣の代理の下村宗教局長を招いて、国旗祭なるものをやっている。
 この男、小笠原と手を組んで時の法主・日開上人に敵対し、自ら管長たらんと、あらゆる術策を弄して日開上人を悩ませまいらせた。
 彼は昭和十一年に狭心症で死んだが、その臨終は、苦悶のあま生爪(なまつめ)をはがしたと伝えられている。

 【小笠原慈聞の便乗】

 小笠原は有元以上の悪党だった。この男は本家の僧侶でありながら、軍人あるいは身延派僧侶などと交(まじわ)て「水魚会」というグループを作り、あたかも田中智学・本多日生がやったような、いわゆる「日蓮主義」の宣伝を盛んにやった。
いわゆる名利の強い目立ち屋といえよう。

 彼が唱えた「神本仏迹論」という邪義は、あまりにも有名だ。
 「天照太神は遠く古く、釈尊は近く新しい。新しい釈尊が、古い皇太神(こうだいじん)の本地とは、論理的にも受け取りがたい」と。
天照太神・八幡大菩薩等の法華経守護の善神が、教主釈尊の垂迹であることは、御書のいたるところに御指南下されている。

 しかるに小笠原は、時勢にへつらって、神は本地、仏が垂迹と、邪義を唱えたのである。
 時の法主は第六十二代日恭(にっきょう)上人。
上人はもちろん小笠原の邪義を許さなかった。
しかし小笠原は「水魚会」などを通じて、軍部を背景にしていたから、一筋縄ではいかなかった。
 昭和十六年は日米開戦の年である。

この頃、軍部の思想統制は一段と厳しさを増し、「非常時」であるから宗教界も国民総動員の新体制に即応せよということが、新聞等で盛んにいわれた。
 小笠原は、この機に乗じて日蓮正宗を身延と合同させ、その見返りとして、自ら「大石寺の貫主」になろうと、大それた野心を燃やしたのである。
 この策謀の舞台は、軍人・身延派の坊主どもと結成し、小笠原がその中心メンバーとなっていた「水魚会」であった。

【僧俗護法会議】

 昭和十六年三月十日、総本山の御影堂(御影堂)において、僧俗護法会議が聞かれた。
軍部・政府の圧力で、日蓮宗諸派はすでに一斉に身延への合同を受け容れた。
そこで本祭はどうするかということを決める会議であった。

 本宗僧侶の中には、小笠原のような師子身中の虫がいる。
また時局便乗の腰抜け坊主も大勢いた。
 しかし列席の信徒は全員が絶対反対。
また御当職の日恭上人、さらに御隠尊(ごいんそん)の日亨上人・日開上人も絶対反対であられた。
かくて、本家は身延への合同を拒否した。

 もし拒否すれば、単独の宗制は認可されないという噂も当時流れていたが、捨身の決意あるところ、御本尊の御守護を頂いたのであろう、同月三十一日に日蓮正宗宗制が単独で認可された。
 野望を遂げるため、小笠原は日恭上人を「不敬罪」で告発し、特高警察に逮捕させようとしたこともある。
宗門はこの小笠原を擯斥処分に付している。
 だが、単独宗制の認可を受けた宗門ではあったが、その後、臆病と保身のため、軍部に迎合してなし崩しに大聖人の御精神に背くことを重ねるようになる。

 【御書発禁】

 昭和十六年八月二十四日、宗務院は御書発禁と垂迹説(すいじゃくせつ)に関する件について通達を出した。
 大聖人の御書を発禁するとは重大である。その理由を宗務院はこう言う。
 「宗祖日蓮大聖人の御書は鎌倉時代の国情の下に御述作遊ばされしため、現下の社会の状勢においては却(かえ)って宗祖大聖人の尊皇護国(そんのうごこく)の御精神を誤解する者あるに鑑み・・・・」と。
 また「垂迹説に関する件」とは、本宗本来の「本地垂迹」の法門を捨て、小笠原の神本仏迹を暗に認めたものである。
 宗門は軍部の威を恐れて、大聖人の御精神をふみにじってしまったのである。

 【御金言の削除】

 軍部への迎合はさらに続く。
御書発禁の翌月、宗務院教学部は、発行御書(祖文纂要(さんよう)の中の要文十四ヶ所について、「削除し、法話・講演等に引用せざること」との通達を出した。
 この指定十四ヶ所の中に、あの「聖人知三世事」の「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」も含まれていたのであった。
 この御金言を削除することは、まさに大聖人が御本仏にてましますことを否定するものではないか。
宗門はこの時点で、国家神道に完全に屈伏し、大聖人の御境界を軽ろしめたのであった。
かくして昭和十七年十月十日には、"神嘗祭(かんなめさい)の日には伊勢神宮を遙拝(ようはい)すること"との通達が、宗務院より出されるに至った。
宗門自ら、謗法の神社遥拝を信徒に奨励したわけである。

【大石寺書院への 神棚祀りこみ】

 昭和十九年十二月、大石寺の客殿および書院が軍に徴用され農工隊の宿舎となった。
 そして翌二十年六月十六日、農工隊によって大きな神棚が書院に祀(まつり)りこまれた。
 書院は戒壇の大御本尊まします御宝蔵のすぐそばにある。

そこに謗法の神礼が祀りこまれたのである。農工隊がしたことで大石寺は関係ないとは断じていえない。
 「法を壊(やぶ)る者を見て責めざる者は仏法の中の怨(あだ)なり」(滝泉寺申状)と大聖人は仰せられてる。
 軍部の大違法を見て諫めなければ、同罪となるのである。日霑上人の師子王の御気魄がいかに偉大なものであったか、ここに至ってよくよくわかるであろう。

 私は日恭上人のお人柄はよく知っている。温厚でまことによきお人柄であられた。
しかし、大石寺が謗法で蹂躙(じゅうりん)されるのを見て黙認したことは、人柄のいかんにかかわらず、仏法上大きな矢となった。
 恐ろしいことに、神棚を祀(まつ)りこんだその翌日、原因不明の火事が夜中に起き、謗法で穢(けが)された客殿・書院、さらに六壷(むつぼ)・大奥など五百余坪が炎上した。そして痛恨の至り・・・日恭上人は火中で御遷化をされたのであった。
 正系門家なるがゆえに、この罰が一山に現れたのである。
 大石寺にこの悲劇が起きて、国家が安穏であるべき道理はない。やがて日本も原爆の投下を受け、始めて敗戦の憂き目を見たのであった。

【今日の問題】


 軍部にへつらって大罰を受けた軍門は、広宣流布への確信も失い、死身弘法に立つ僧侶もいなかった。
 このとき、在家家の中から敢然と折伏の火の手が上がった。これが創価学会の弘通である。
 大聖人の御法魂まします正系門家なるゆえ、僧侶が堕落している時には在家が大道念を起こして立つ。これが本宗の有難いところである。
私は創価学会の弘通の功を、誰よりも認めている。

 だが、正法には必ず魔障がある。広宣流布を妨げようとする魔は、今度は学会を狙ったのである。
 最蓮房御返事には「第六天の魔王、智者の身に入りて正師を邪師となし、善師を悪師となす、経に『悪鬼(あっき)入其身(にゅうごしん)』とは是れなり。日蓮智者に非(あら)ずと雖(いえ)も、第六天の魔王我が身に入らんとするに兼ねての用心深ければ身によせつけず」と。

 第六天の魔王は、第三代会長の池田大作を狙った。彼は慢心して「兼ねての用心」が深くなかったので、第六天の魔王にたぶらかされ、本心を失ってしまった。
 その結果、御本仏の御遺命であり、本宗七百年の宿願であった国立戒壇建立の重大事は、外敵の力によってではなく、内部から放棄されることになった。
さぞや第六天の魔王、高笑いをしたことであろう。池田の御遺命破壊。池田大作の自語相違を見よ。未だ本心があるときには、こう言っていた。

 「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」と。
 立派な正論である。ところが魔が入ると、言うことがこのように変わる。
 「国立戒壇は御書にはない。猊下が、正本堂が本門戒壇であると断定された」
 白が黒に変わり、天が地に変わり、東が西に変わるほどの見えずいた誑惑ではないか。
 だが、この誑惑が、通ってしまった。どうしてかといえば、時の法主がその権威を以て助けたからである。
第六十六世・細井日達管長は、自ら教義孝改変して池田を助けてやったのである。細井管長は曽ては自らこう述べていた。
「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」と。

 この正論を「国立戒壇というのは本宗の教義ではない」と言い放りて、御本仏究極の大願を蹂躙(じゅうりん)してしまったのである。
 また当時宗務肺教学部長であった阿部日顕管長も、二冊の悪書を著わして御遺命破壊に協力した。
 宗門は、大正時代・戦時中には外部の権力にへつらって謗法与同をし、今度は魔の入った大檀越(おおだんのつ)にへつらりて、大聖人に背き奉ったのであった。


【未曽有の大抗争起こる】

 御本仏の御遺命を破壊して、罰の出ないはずはない。
あれほど一枚岩のごとく見えた宗門と学会の間には、いつのまにか疑心暗鬼(ぎしんあんき)が生じ、大抗争が始まったのである。

 池田は阿部管長を猊座(げいざ)から引きずり降そうとし、阿部管長は池田を除名処分にした。
この抗争は前々から言うように、まさに「デスマッチ」なのである。
 破門された学会そして池田は、今や本宗の血脈を否定し、戒壇の大御本尊の御名さえ経本から削除してしまった。
国立戒壇の御遺命はすでに前々から捨てている。

 この講義の一番最初に私が述べた本家の正しい理由の三つを、池田はことごとく破ってしまったのである。
 ところが、このような大謗法の池田に阿部管長はいま追いつめられ、窮地に立っている。
 そのゆえは、御遺命を守るべき立場が池田よりも重いにもかかわらず、御遺命を守らなかった罰なのである。
 いま僧侶の叛逆が盛んであるが、この自界叛逆は日柱上人の事件よりも、さらに深刻になると思われる。
日桂上人のときは僧侶だけの争い。これは背後に学会が付いている。学会に与(くみ)するする僧侶がやがて半数を超えたら、いったいどうなるであろうか。

 前々からいうごとく、阿部管長の救われる道は一つしかない。―戒壇の大御本尊を早く誑惑・不浄の正本堂より奉安殿に遷(うつ)し奉り、国立戒壇の御遺命を明らかにする以外にはない。
大御本尊の御守護を頂かなければ、阿部管長は学会の強大の前に、身の亡ぶを待つのみである。

  【日本の命運】

 大聖人は「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、体曲れぱ影ななめなり」
 また
  「仏法の滅・不滅は叡山(えいざん)にあるべし、叡山の仏法滅せるかのゆえに、異国我が朝をほろぼさんとす」と仰せられている。
像法時代の仏法の住処は伝教大師の叡山(えいざん)、末法における三大秘法の住処は富士大石寺。ゆえに大石寺の信心の清濁によって、日本の命運はきまるのである。
  このことの先例は、これまで述べてきた大正時代の宗門と関東大震災、戦時中の宗門と日本の敗戦でよくわかるであろう。

  さて、大正時代ならびに戦時中は、宗門に謗法与同はあったが、未だ御本仏究極の本願たる御遺命の破壊はなかった。
 今度はこの大禍(だいか)より、日本は傾くのである。
仏法上の未曾有の大禍により、未曾有の国難が到来するものと思われる。
見よ! 首都圏を襲う巨大地震は刻々と迫りつつあるではないか。

 また私は前々から「北東アジアは世界で最も危険な地域となる」と言い続けてきたが、北朝鮮は核兵器を運ぶミサイルをすでに完成し、中国は北東アジアの制空権を狙って最新鋭の攻撃型空母をソ連より購入せんとし、それに反発するアジア諸国は一斉に軍事力を増強しつつある。
まさしく北東アジアは、世界で最も危険な地域になりつつあるではないか。

 恐るべき他国侵逼(しんぴつ)は決して他人事ではない。
立正安国論の「其(そ)の時、何んが為(せ)んや」の御金言を思わずにはいられない。
 だが、大聖人様は仰せられる。
 「諌臣(かんしん)国に在(あ)れば則(すなわ)ち其の国正しく、争子(そうし)家に在れば則ち其の家直(なお)し」と。
 顕正会は国に在っては諌臣、宗門に在っては争子の御奉公をしなりれぱいけない。
諌める者があれば、国は亡びず、家門は曲がらないのである。
 正本堂の誑惑においても、もし顕正会が諌めなかったら、すでに昭和四十七年の時点で御遺命は完全に破壊されていたに違いない。

またもし顕正会が阿部管長を諫めていなかいたら、平成二年に大石寺は「本門寺」と改称されていたであろう。
 諌臣・争子の御奉公がいかに重大か。
そしてそれを為す資格ある者は、顕正会以外にはあるべくもないのである。
 国立戒壇のゆえに解散処分を受けた顕正会が、いま三十万にならんとしている。
この不思議こそ、国立戒壇は必ず実現するの瑞相である。
三十万、百万は、争子・諌臣の御奉公において重要な節である。
 九月・十月・十一月の法戦を以て、みごと三十万達成を成しとげ、大聖人様への御奉公を貫こうではないか。
       (大拍手)





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