【妙信講初代講頭先生第十三回忌法要より】(平成8年4月27日)
【強盛の信心で顕正会の基礎を築く「御本尊の功徳は絶対」身で示さる】 

本日は、妙信講初代講頭先生の第十三回忌に当たり、報恩謝得のため、ここに四十五万顕正会を代表とする総班長・支隊長以上の幹部一千五百余名が参列し、第十三回忌法要を厳修させて頂いた次第であります。

 皆様には、報恩の真心を持って、はるばる全国から参集・列席されましたこと、心より有り難く思うものであります。
 ここに十三回忌を迎え、心に思い浮かぶままに、その幾つかを述べさせて頂きたいと思っております。
 初代講頭先生は明治三十七年、愛知県西尾の農家に生まれました。「甚兵衛」という名前は、曾祖父の名を、父が付けてくれたのだそうです。

 曾祖父は、三河の国の三つの郡を束(たば)ねるほどの大庄屋であったそうですが、次の代に福運が切れたのか家運が傾いちゃった。
そしてその次の代が、先生の父親で「藤四郎」といった。

この人はなかなか事業的才腕のある人で、粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)してさまざまな事業をを起こした。
この父親が、家運復興の願いをこめて、我が子に「甚兵衛」という名前を付けたということであります。
 しかしこの父親は講頭先生が三歳の時に亡くなり、先生は母親の手ひとつで育てられたのです。
 十九歳になった講頭先生は、東京に出て何とか身を立てようと、上京しました。
釈尊は「十九出家」というが、ことらは十九で家をでたのです(爆笑)。

 そしてひとりで悪戦苦闘する中に、日蓮大聖人の仏法に縁をすることができた。
大正十五年のことであります。
二十二歳のときでしから、今の男子部と同じような年代ですね。
 いまの顕正会では組織があるから、入信すれば先輩がいろいろと励まし、教えてくれる。ところが当時は組織などない。
しかも折伏してくれた人が、その直後に遠方に行ってしまって、音信不通になってしまった。
 普通なら、そのまま信心を忘れてしまっても当然です。
しかし先生は宿縁が深かったのでしょう。御本尊様だけは最初から純真に信じ、一人で勤行に励んでいたそうです。

【勤行怠けると怖い夢・・・】

しかし一人信心の悲しさですね。誰も励ましてくれないから、ときには仕事の忙しさに紛れて、つい勤行を怠けてしまうことがある。
 一回怠けると二回・三回と続けて怠けてしまう。組織があれば、そういう時に班長が来てくれる。「勤行をやっているかい」と。

しかし一人信心だから誰も励ましてくれない。そこで四回・五回と怠けてしまうのです。
 そうすると、必ず夜夢を見るのだそうです。それも怖い夢を・・・・。
冷や汗びっしょりになって、その朝からまた一生懸命お題目を唱えた(爆笑)。

その「怖い夢」というのは何かというと、"借金取り"なんです(大爆笑)。
上京して数年間、なんとか身を立てようと焦ってるうちに、借金だけ作っちゃったのでしょう。
この借金取りがくるのが一番怖かった。その怖い人が、勤行を怠けると必ず夢に出てきた(爆笑)。

 そういうようなことが何回かあって、もう勤行だけは絶対に怠けてはいけないのだ、と心魂(しんこん)に徹して、以来、一度も怠けたことがないと、よく云っておりました。
御書には、帝釈は野干(やかん)(狐)を師匠とし、雪山童子は鬼神を師匠とし、とあるが借金取りが師匠というのは聞いたことがない。(爆笑)

 もっとも開目抄には「この人即時(そくじ)に夜夢の中に羅刹(らせつ)の像(かたち)を見て、心中怖畏(ふい)す・・・・寤(さ)め已(おわ)って即菩提(ぼだい)の心を発(おこ)す」という御文もあるから、夢で信心を起こすこともあるのです。
すべては宿縁なんでしょうね。

以来、純真な信心が始まり、父は真剣に仏法を学び始めた。そして折伏にも立った。
 父は決して学問があったわけではない。しかし私は覚えておりますが、真剣に御書を読んでましたね。
持っていた御書全集、当時は霊艮閣(りょうごんかく)版のものですが、手垢(あか)で黒くなっていた。
ことに立正安国論のところが黒く汚れておりました。


【戦時中の苦難】

 そして昭和十七年、わずか数十名の同志を率いて妙信講を創立した。
総本山・第六十二世・日恭上人の時で、上人の認可を頂いて、当時は「東京妙信講」といっておりました。

 昭和十七年といえば、太平洋戦争が始まったその翌年です。
当時、日蓮大聖人の仏法を持つということが、どれほど大変なことか。
まして折伏弘通することが、どれほど困難なことであったか、今では想像もつかないことです。

 どうしてかというと、戦時中は、国中が軍国主義一色になっていた。
そして国家神道といって、伊勢神宮を中心とする神道が日本の国教、国家の宗教になっていた。
伊勢神宮は皇室の祖先の天照太神を祀っている。
ゆえに伊勢神宮に手を合わせなければ「非国民」――日本国民ではない――という時代だったのです。

 だから、どの家にも伊勢神宮の神札が地域を通じて配られ、それを祀ることを強要された。
もしこのことを拒否すれば「非国民」であり、村八分にされてしまうのです。

 それだけではない。当時は思想統制が厳しく、常に特高(とっこう)警察が目を光らせて、治安維持法の「不敬罪」という罪名で、誰でも拘引(こういん)することができた、拷問(ごうもん)することができた、という時代だったのです。
 そのような中で、自分が神札を受けないだけではなく、入信する者にも「その神棚を取り払いなさい」という折伏が、どれほど難しく困難であったか、想像を絶する。

それほどの決定心(けつじょうしん)を以て入信する人は、本当に稀にしかいなかった。
 初代講頭先生は、このような状況下で、数十名の講員を人ひとり回っては信心を励まし、大地を這(は)うような弘通をされていったのです。

 当時はひどい食料不足でした。芋でも何でも、口に入れるものがあれば結構。
東京の人は農家に直接に買い出しに行った。しかしお金では買うことができない。物物交換です。
そこで多くの主婦はタンスの中から晴れ着を一枚づつ待ち出しては、畑で芋と交換する。こんなことをして食いつないでいたのです。
本当に、飢餓寸前の状態でしたね。

 私は覚えておりますが、当時講頭先生は、わずかな土地を耕して小麦を作っていた。
近所で、ある貧しい子だくさんの人が入信した。
その人は町内でも軽んじられていた人であったが、謗法を捨ててお題目を唱えるようになった。
しかし貧しく子供は多い。
すると、せっかく一年かけて作った小麦を、父は惜しげもなく、その人に分け与えておりました。
 博愛とか慈善とか、父はそんなキザなことをする人ではない。
これは、国中が神道一辺倒の中で、かりそめにも御本尊様を信ずるという、その信心が嬉しかったに違いない。

 戦争も末期になると、これも今では想像できないことですが、毎日のように空襲警報が鳴った。
まず警戒警報のサイレンが「ブーーッ」と鳴り、やがて敵機が近づくと、空襲警報が鳴った。
 敵機というのはボーイングB29という高性能の爆撃機で、一万メートルの上空から日本を爆撃した。
これが定期便のように、毎晩深夜に来たのです。

 このような空襲が連続した状況下でも、妙信講においては御講(おこう)、今でいう座談会を開くことを絶やさなかった。で、その御講の通知というのを、私は謄写版(とうしゃばん)で作らされた。
よく覚えておりますが、その文章というのがいつもきまっていた、日時と場所のあとに必ず「万障繰り合わせて御出席下さい」とあった。
いつもいつも同じ文句なので、私は″たまには変えたりどうか″(爆笑)と、子供心にも思った(爆笑)。
  
【御本尊だけを……】

 空襲がいよいよ激しくなると、父は私に何度も何度も云いました。
  「もし留守中に、空襲で家が焼けるようなことがあったら、御本尊様だけを持って逃げるように」と。
 当時は、若い男子はみんな兵隊に取られ、中年以上の男性は「警防団」という地域の自警組織に組みこまれ、空襲があればみんな駆り出されたのです。
父もこの警防団で、空襲のたびに家を留守にせざるを得なかった。
そこで、留守中のことを心配していたのであります。

 父は昭和八年に、総本山第六十代・日開(にちかい)上人から、常住板御本尊を頂戴しておりました。
「この御本尊に万一の事があったら……」と、それが常に念頭にあったのでしょう。
 小学生の私に、何度も「火が回ってきたら、このお板の御本尊を御厨子(おずし)ごと真綿(まわた)でくるみ、風呂敷で背中に背負ってご避難申し上げろ」と何度も念を押した。

 仏壇の下の引き出しには、いつも大きな真綿と風呂敷が、用意されておりました。
 私もそのことあるを想定し、いざとなったら「こうすればいいのだ」ということを、年中頭に置いていた。
 父は「御本尊様だけお出しすればいいんだ。あとは何も出す必要はない」と、これもまた、くどいほど言った。
「金庫を出せ」とは一言も言わなかった(爆笑)。もっともそんなものはなかった(大爆笑)。
 そういうことで「いざといったら御本尊様だけ……」ということが、私の脳裏に染み込んでおりました。

 【三月十日の大空襲】

 そして昭和二十年三月十日の夜、最大規模の空襲があった。
B29の大編隊は焼夷弾(しょういだん)を雨のごとく降らし、東京全体が火の海となったのです。
このとき、一夜にして都民十数万人が焼け死んだのです。
関東大震災と同じような死者が出たのですから、たいへんなことでした。

 この日も、空襲警報と同時に父は警防団で家を留守にしなければならなかった。
このとき私は十三歳でした。家の近所のソバ屋の軒先にも焼夷爆弾が落ち、もうダメかと恩ったら、幸いにもこれは消された。
火事というのは、全東京を焼け尽くすほどの大火になると、もうどこへ逃げていいのかわかりない。
そしてその火力の凄さというのは、想像を絶すうものがあるのです。

 当時、家は文京区の音羽通りにあった。この音羽通りというのは、護国寺から江戸川橋までの約一キロ。
その江戸川の両岸は、空襲に備えて、ずうっと「間引疎開」(まびきそかい)で家が壊わされ、数百メートルの防火地帯になっていた。
 ところが、向う岸の火が、川を乗り越えてこちらに移るのです。熱風の凄さですね。
こちら側の家が自然と熱せられて、一定の温度に達するとパッと発火してしまう。
 このようにして、音羽通りは江戸川橋のほうからどんどん燃えてきた。
その延焼の早さは、消防車も逃げるのが間に合わないほどだった。もうウチも焼けると思った。

 私は一人で〃いよいよ御本尊様を真綿でおくるみしなければ……〃と思っていた。
そのとき、父が帰ってまいりました。そして最後に御本尊様に向って二人でお題目を唱えたこと、覚えております。
 ところが、もうそばまで来てると思った火が、なかなか来ない。見に行ったところ、江戸川橋のほうから近づいてきた火が、途中で風向きが変わって、山のほうに行っちゃったのです。
 山の上には鳩山さんの家がある。風向きが変わったおかげでうちは助かったが(笑)、鳩山さんの家は焼けちゃった(爆笑)。
 鳩山さんというのは、鳩山一郎さんです。総理大臣までやった人で、その孫がいまの鳩山由紀夫さん、そのおじいちゃんの一郎さんの家が焼けちゃったのです。
だから今でも私はテレビなどで「鳩山さん」と聞くたびに、〃悪いことをしちゃったなあ〃 (大爆笑)という思いが湧く。

 このとき、焼け野原となった東京を、昭和天皇も視察されましたね。それほどひどかったのです。
 しかし音羽の一角は焼け残った。焼け残ったおかげで、父は事業を戦後大いに伸ぱすことができたのであります。
 父はこのことを、「本当に御守護を頂いた」と、たびたび云っておりました。父は御本尊の御利益を、理論よりも肌身で体験した人です。
そのたびに「有り難い」「有り難い」と言っておりました。

 【寺院法華講に】

 戦後、妙信講の折伏はぐんぐん伸びました。たしか二千所帯ぐらいまでいったと思っております。
 そして昭和三十年、妙信講が所属していた末寺の住職から話があった。
その寺には、妙信講のほかに幾つもの小さな講中があって、住職がそれらを指導していたが全く伸びない。

妙信講だけがぐんぐん伸びていたのですが――住職が父に云った。
  「浅井さん、妙信講はぐんぐん伸びて結構だが、他の講は、一向に伸びない。
どうか○○寺法華講ということで、ひとまとめにして指導してくれませんか」と。父には大いに躊躇(ちゅうちょ)があった。
しかし「末寺単位で大同団結することが広宣流布のためになるなら……」ということで、ついに意を決して妙信講を発展的に解散した。

これが昭和三十年でした。そして父は末寺法華講の講頭に就任したわけであります。
 ところが、一年・二年経ってそこに見たものは何かというと、広宣流布を忘れた僧侶の、腐敗堕落の姿でありました。
所詮、寺の法華講とは、このような職業僧侶の、生活を助けるための檀家組織だったのです。

 日寛上人は「無道心の者は仏法を渡世の具とする」と仰せられているが、広宣流布のことは少しも思わず、我が身のために際限もなく供養を貪り取る、このような僧侶についていて、果して広宣流布の御奉公が叶うのか。
 ここに"伺としても新しい妙信講を結成し、大聖人様に御奉公をしなければいけない"という決意がなされたのであります。

【新妙信講の発足】

しかし末寺の住職は、妙信講の新しい発足には断固反対。その住職は宗門の有力者で、宗務役僧でもあった。
この住職が「断固阻止する」という以上は、妙信講の新発足は叶うとも見えず、私たちは悲壮な決意をしていた。
 だがそのとき、時の法主・第六十五世日淳上人が、このことをお知りになったのです。

 日淳上人というお方は、御登座が昭和三十一年、そして三十四年に御遷化。わずか三年有余の御在職だったのですが、まことに英邁(えいまい)なお方であられた。
あの創価学会・二代会長の戸田城聖氏も、この日淳上人にだけは、一目も二目も置いていたほどです。
 この日淳上人が、父の信心を前々からよく御存知であられた。
そして妙信店の御奉公の精神を御理解下さり、末寺住職の反対を押し切って、異例の承認をして下さったのであります。

 総本山で行われた認承式のとき、日淳上人はこう仰せられた。
  「法華講というのは、寺の檀家をいうのではない。熱原の法華講を鑑とするものである。妙信講は戦う法華講となって御奉公してほしい」と。

 かくて昭和三十二年八月三日、生まれ変わった新しい妙信講が発足したのです。苦難を承知で馳せ参じた講員は三百六十名。これが現在の顕正会の発足でありました。
   このとき、父は五十三歳、私は二十五歳。この発足より、私は父を守って事実上妙信店の指揮を執りました。
この発足集会において私は「法華経に勝る兵法なし」という題一で講演をした。−−妙信店は小手先の小細工等は一切用いない、ただ「信心」の二字でいくんだ、大聖人様の御目のみを恐れて進むのだ――この決意を述べたのであります。

【新生・妙信講には重大使命 御本仏の御遺命を守り奉る】

さて、この新しい妙信講の発足には、重大な使命があった。それは、正系門家の中で、御遺命を守護すべき使命でありました。
 妙信講発足の二年後、あの英邁なる日淳上人が御遷化された。昭和三十四年十一月十七日でした。

この報を妙信講の指導教師・松本日仁能化から電話で受けたとき、私は心臓が止まりそうになった。
 どういてかというと、それまで、日淳上人が御相承あそばしたということは一度も耳にしていない。ゆえに「御相承はどうなったのか」という心配。

もう一つは、宗門の中で妙信講のことを理解して下さったただ一人のお方の御遷化です。「いったいこれから妙信講はどうなるのか」という憂いでした。
しかし日淳上人は、御遷化の数時間前に、細井日達上人に御相承をあそばされておりました。
 またその翌年には、創価学会においても二代戸田会長が亡くなり、昭和三十五年五月、池田大作が三代会長に就任した。

ここに、宗門は細井館長、学会は池田大作という体制になり、正系門家は重大な転機を迎えたのであります。
 細井日達館長は日淳上人と違って、強大な学会にへつらった。
 池田は細井館長の「法主」としての権威を利用して、まず宗門全信徒を創価学会の統制下に置くことを企てた。
法華講連合会は池田の手先となって、この統制に協力した。ここに妙信講は、長く暗い「試練と忍従」の時代を迎えたのでした。

 やがて池田は法華講の総講頭となり、宗門統制の実権を掌握した。
これより御遺命の破壊が始まった。すなわち「国立戒壇」の放棄と、正本堂の誑惑が始まったのであります。
 政治野心を懐く池田大作にとって、世間に抵触のある「国立戒壇」は邪魔になったのです。
そこでこれを放棄することを彼は考えた。しかし口で「捨てる」といっただけでは世間を騙せない。
そこで「正本堂こそ御遺命の戒壇だ」という誑惑を企(くわだ)てたわけであります。

【仏法相違の己義】

しかし、時の法主さえこれを認めなければ、こんな大それたことができるはずがない。だが、細井日達館長はこれを許してしまった。
 日淳上人なら、断じてお許しになるはずがなかった。日淳上人は、あの戸田会長が創価学会で客殿を建立寄進したいと申し出て、「客殿建立」という名目で全学会員から供養を集めたにもかかわらず、「大講堂にしてほしい」と変更させるだけの御見識があった。

 これは、創価学会と宗門の関係について、日淳上人には深いお考えがあったのでしょう。
そして学会も、日淳上人の御見識の前には、黙ってそれに随っておりました。
 ところが細井館長は池田大作の金力に諂(へつら)い、池田のこの大それた悪事を許しただけではなく、自らも日蓮正宗の「法主」という立場で公然と「国立戒壇」を否定し、「正本堂こそ大聖人の御遺命の戒壇だ」というようになったのです。

 もし、これに異を唱えるならば「法主」に背くことになる。宗門においては「法主」の権威は絶対です。誰が背けましょうか。
 かくして宗門全僧侶は正本堂を御遺命の戒壇と認め、無智の信徒は「猊下様がおっしゃることなのだから」と、それを信じた。
ここに、御本仏日蓮大聖人の一期(いちご)の御遺命は、まさに破壊されんとしたのであります。

【たばかりを見抜く】

このとき、父と私は悩み切った。池田大作が御遺命に背いたのであれば、何も悩むことはない、直ちに破折すればいい。しかし時の「法主」がこれに加担し、自ら重大な違背をされているのです。
 しかも細井館長は説法のたびに、「御相承に云く」という論法をしばしば用いた。そして前後の文を省略し、さまざまな切り文を引用したのです。

「御相承」は一般僧侶・信徒の知るべかざるところだから「御相承に云く」と云われれば、黙らざるを得ない。そして細井館長は「本門戒壇の深義は、法主以外には知り得ないので」というような態度で、説法を繰り返したのであります。

 私は思い悩みました。寝ても覚めても、頭にあるのはこの事だけ。
 その頃、家族がみんな寝静まると、父と二人で毎晩遅くまで、声をひそめて「これは一体どうしたことか」と語り合った。「法主」にかかわることであるから、家族にも聞かせたくなかった。信心に障(さわ)るからです。
 しかし、悩みに悩み抜いたとき、「御相承に云く」という文の出所も、そのたばかりも、自然とすべてを見抜くことができた。まさに大聖人様が教えて下さったのであります。

 そして、本門戒壇の御聖意は、三大秘法抄・御付嘱状をよくよく拝し、さらに日寛上人の御指南を拝すれば明々了々。まさに「天晴れぬれば地明らかなり」の思いでありました。
 同時に、大聖人様の御遺命が耳秦に響いたのを覚えております。
「むしろ身命を喪(うしな)うとも教を匿(かく)さざれ」また「法を壊(やぶ)る者を見て責(せ)めざる者を、仏法の怨(あだ)なり」また日興上人は「時の貫首(かんず)たりと雖も、仏法に相違して己義を構えれば、之(これ)を用うべからざる事」と。

 もし法主の権威を恐れ、また妙信講を潰されるのを恐れて、大事の御遺命破壊を黙って見ているならば、大聖人様に大不忠となる――この思いが、胸の奥に涌然(ゆうぜん)と湧き上がってきました。

【諌暁書】

 私は昭和四十五年の秋から思いを一筆に混め、翌四十五年三月に諌暁書を書き上げた。これがすなわち「正本堂に就(つ)き宗務御当局に糺(ただ)し訴う」の一書であります。
 私はこの書を書き上げて、何より、すぐ父のところへ持って行った。

 この時の父の顔が忘れられない。まことに晴れやかな顔をして「昭衛、よくできたなぁ、これこそ大聖人様への御奉公だ」と。何度もこう言って、喜んでくれました。

 これから、連々たる諌暁に次ぐ諌暁の戦いが、始まったわけであります。
その間、宗門役僧、あるいは学会首脳部との論判があるたびに、父は老いの身に鞭(むち)打って同席し、立ち会ってくれました。

 池田大作はあらゆる手段を用いて、この諌暁を押さえようとした。あるいは宗務役僧を使って解散処分をちらつかせて威嚇したり、あるいは「法主」の権威で押させようと細井館長を私に会わせたりした。
 ところが細井館長は、私に会えば「妙信講が正しい」と言わざるを得なくなり、また池田にあえば「学会が正しい」という。

【解散処分】

苛(い)ら立った池田大作は、ついに細井館長に迫って、妙信講に解散処分を下さしめた。妙信講を日蓮正宗から抹殺(まっさつ)しようとしたのです。

 しかし解散処分にも屈せぬ妙信講を見て、池田はこの本部会館に御安置の御本尊様さえ、裁判にかけて奪おうとした。
また「法主」の名前で全講員に手紙をよこし、「妙信講は謗法だから、早く離れてこちらに来なさい」といってきたり、あるいは宗門僧侶を動員して妙信講宅を回らせて組織を壊そうとした。
さらに卑劣なイヤガラセ・謀略が、悪徳弁護士・山崎正友を中心に繰り広げられた。しかし妙信講は、微動もしなかった。

 この弾圧の嵐の中で、私は「いまこそ、遙拝勤行で折伏を進めよう」と全講員に訴えた。
これより大地を這(は)うような折伏が始まったのであります。
そしてこの死身弘法の中に、不思議にも妙信講には、御在世のごとき信心が蘇ってきたのであります。

【「顕正会」と改称】

昭和五十七年十月、妙信講は名も「日蓮正宗顕正会」と改めた。すなわち、日蓮正宗を代表して一国に御遺命の正義を顕す唯一の団体であれば、「日蓮正宗顕正会」と名乗ったわけであります。
 まことに不思議に思うことは、いったん解体された妙信講は昭和三十二年八月、新しく生まれ変わって前進を開始した。この妙信講には、正系門家の中で御遺命を守り奉るという使命があった。
 また解散処分を受けて「顕正会」と名を改めたこの仏弟子の集団には、一国に御遺命の正義を顕すべき大使命があったのであります。

【立派な臨終】

父は、妙信講が「顕正会」と名を改め、力強く前進する姿を見て、心から喜んでくれた。
そしてその二年後、安詳(あんじょう)として臨終を迎えました。
 まことに立派な臨終でしたね。

 数ヶ月前からだんだん体力が衰えてまいりました。ことに足が弱ってきた。家の仏間は二階にある。階下に寝ていた父は、勤行のたびに二階に上がってくるのですが、だんだんとそれがたいへんになってきました。
 手すりにつかまって、一段一段と、わずかな階段を喘(あえ)ぎながら上がってくるのです。上がる体力も尽きちゃって、もう声が出ない。勤行の後ろについて、ずーっと手を合わせているだけでした。

 私はそのような姿を見て、「下の部屋で勤行をすれば・・・」と何度も勧めた。ところが父は「いや、上がれるうちは怠けたら申し訳ない」といって勤行を続けました。
 そして昭和五十九年四月二十七日の午後七時、ちょうど今ごろの時期ですね。薪(たきぎ)尽きて火の滅するがごとく、安らかに息を引き取りました。時に八十歳でありました。

 その臨終の相は、生前痩せていた頬が嘘のようにふっくらとし、御金言のごとく、色白く、柔らかく、軽く、そして半口(はんく)の唇には赤味がさし、まさに赤白端正(せきびゃくたんしょう)、なんともいえぬ柔和な、良き相でありました。
 この善相を目の当たりにしたとき、私は父と別れた悲しみよりも、"何と有難い御本尊様か"と、涙がこみ上げてまいりました。

【御本尊は絶対】

 私は父と生涯一度も離れたことがなかった。一日も離れたことがなかった。
 この初代講頭先生が、身をもって私に教えてくれたことは、ただ一つ「この御本尊様の功徳は絶対である」ということであります。
 そして七回忌は、平成二年四月に行われました。忘れもしません、このとき御宝前に供えることができた大事な一冊の書があった。

 それが「正本堂の誑惑を破して懺悔精算を求む」という、阿部館長にあてた諌暁書でした。
 阿部館長は学会の走狗(そうく)となって、邪智をめぐらして「国立戒壇の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書を書いた。
その内容はひどいものです。まさに御遺命を破壊する悪書です。

たとえば「『勅宣並に御教書』とは建築許可証にすぎない」などといって三大秘法抄を歪曲(わいきょく)し、正本堂の誑惑を助けてるのです。
 私は、この誑惑の根を断たねばと、前々から思っていたが、平成二年はちょうど「本門寺改称」の陰謀実現の年であった。
そしてその年の四月がちょうど初代講頭先生の七回忌。
この七回忌に、その諌暁書を書き上げることができて、一冊を御宝前にお供えしたのであります。

 この諌暁書によって、阿部館長は衝撃を受けたのです。
大聖人の御眼を恐れずに書いた邪義が、いま完膚(かんぷ)なきまでに粉砕され、恐ろしくなったのでしょう。それ以後、池田と二人三脚に、足並みが乱れてきた。
池田はこれを見て、阿部館長の裏切りと思った。そして二人の間に疑心暗鬼(ぎしんあんき)が生じ、やがて抗争が始まり、そしてついに正本堂の誑惑が、物の見事に崩れたというわけであります。

【一国諌暁の御奉公】

そしていま十三回忌を迎え、顕正会はいよいよ一国諌暁の御奉公に立たんとしております。
昨年の総幹部会でも話しましたが、御遺命のゆえに死罪に等しい解散処分を受けた顕正会が大聖人様の御守護により、いまや宗門全部の信徒を集めたよりも大きな団体になってしまったのです。
しかも宗門の法華講連合会などは、異体異心の烏合の衆、こちらは御遺命を奉ずる鉄石の異体同心。また彼らは老人ばかりの檀家組織、ことらは若き情熱に燃える仏弟子の集団であります。

 今や名実共に、顕正会は日蓮正宗を代表とする団体となった。いや、富士大石寺門下を代表して、一国に御遺命の正義を顕す団体となったのであります。
 この一国諌暁の御奉公こそ、顕正会三十九年の歴史において最も重大なる大聖人様への御奉公であります。
 私は昨年、十二畳ほどの小さな持仏堂(じぶつどう)、仏間を作りました。これは大地震に備えてです。
戦時中、父から「この御本尊様だけは何をさておいても・・・」と言われてきた。

もし私の代に万一のことがあったら申し訳がないとの思いから、完全な耐震・耐火蔵のような持仏堂を造った。
私はこの御本尊様こそ、顕正会の源流だと思っております。
 そして昨年五月、その持仏堂に御遍座申し上げ、改めて御本尊の脇書を拝見し授与の日付は「昭和八年六月 大吉日」と記されている。――今から六十三年前であります。

 このとき、私の胸にこみ上げてきた思いがある。
 それは、――この六十三年を十一回繰り返し遡(さかのぼれば)れば、大聖人様の御在世に着くではないか。
七百年などというと遠い昔のように思うが、御在世は、つい昨日のごとくだ。その御在世に、
日本国は大慈大悲の御本仏の御頸(おんくび)を刎(は)ね奉ったのである。この身の震えるような大罪、日本
人はすべてこれを知らない、忘れている。この大罪、いかで現当に逃れようか。ゆえに御在世にはあの大蒙古の責めがあった。

そして日興上人・日目上人は、大聖人様の御心のままに、身命を捨ててこの事を知らせるべく国家を諌暁あそばされた。ところが今、悠然として一国が大聖人の仏法を捨てているだけではない、これを諫めるべき立場の正系門家が、国立戒壇の御遺命を捨て、誑惑の正本堂に戒壇の大御本尊様を居(す)え奉る不敬を続けている。
大聖人の御法魂を辱め奉る、これより甚だしきはない。ゆえにいま、天変地夭(てんぺんちよう)はしきりと起き、他国侵逼の影が日本に迫ってきているのである――との思いでありました。

 ここにいま、顕正会は大聖人様の御命令を感じて、一国諌暁の大事な御奉公に立たんとしているのであります。
こんなに有り難い御奉公はない。これほどの功徳はない。
大主任様は報恩抄に「されば花は根にかへり、真味(しんみ)は土(ど)にとどまる」と。
もししからば、顕正会のこの御奉公の功徳は、ことごとく初代講頭先生の御身に集まるのであります。
さればこの御奉公を以て、顕正会の基礎を築いて下さった初代講頭先生に対する、我ら(以下判読不能)とさせて頂こうではありませんか。(大拍手)


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