【内得信仰に誇りを持て】
(四月度班長会の指導より)
(顕正新聞・昭和53年4月15日号)
【信心決定までは内得信仰こそ本来の姿 日興上人の仰せに拝する本宗の伝統】
「日蓮正宗 妙信講 講頭 浅井昭衛」
本年に入って妙信講の折伏の前進はまことに力強い。ことにこの四月は空前の大折伏がいま行われています。
【けなげな内得信仰の人々】
しかも内得信仰の人々が強盛な信心に立ち折伏を行じている姿は何とも頼もしく有り難い思いであります。
庶務部で調べたところ、現在の折伏成果の約四割は、内得信仰の人が紹介者となり行っているとのことです。
また内得信仰で班長になっている人はすでに多数、女子部では区長の重責まで担(にな)っている人が二人いるそうです。
このような内得信仰の人がけなげに、純粋強盛な信心に立っている姿は、妙信講以外には絶対に見られないと私は思っております。
これ妙信講に、いま御在世の熱烈にして厳格な信心が、脈々と流れている証拠であります。
思えば妙信講は国立戒壇の正義を守ったがゆえに解散処分を受けた。そして学会・宗務当局は妙信講を憎み抹殺せんと、本部会館の御本尊を裁判で奪おうとし、さらに一方では妙信講の折伏が進まぬようにと、末寺で御型木御本尊を下付することを卑劣にも禁止した。
しかし信心は形式ではありません、そんなことで妙信講の前進を阻(はば)むことができましょうか。
【弾圧の嵐の中で折伏の大号令】
よって私は、あの解散の嵐吹きすさぶ中で、断固として"さあ折伏を行じよう!折伏の功徳でこの弾圧を乗りこえ、御遺命守護の大仏事を果さん"と大号令を発した。
真面目に折伏する者に御本尊を下付しないのは下付しない方が悪い。だがそれを理由に折伏を行じなければこちらの罪となる。
たとえ御本尊は頂けなくとも、内得信仰でよいのではないか。大石寺にまします戒壇の大御本尊を遙拝(ようはい)して勤行すればよい。いや安易に御本尊を頂いて怠けている者より、むしろこのけなげな信心にこそ大功徳があると私は確信するがゆえに"さあ、折伏をしよう!"と号令を発したのであります。
それから三年、いま内得信仰の人達の熱烈な信心と、功徳に歓喜している姿を見て、何とも有難い思いでいっぱいであります。
五万鉄石の大法華講衆の成るか成らぬかは、いつにかかってこの一事にある。すなわち内得信仰の人々の信心の決定と成長にかかっているのであります。
【勤行の指導を徹底せよ】
どうか班長の皆さんは、内得信仰人々に対して、とりわけ勤行の指導を徹底して頂きたい。何事も始めが肝心です。まず本部会館で入信勤行が終わったら、その場で勤行のやり方をきちんと教えて下さい。
"わが家で、数珠(じゅず)とお経本を持って富士大石寺の方に向い、方便品と自我偈(じがげ)を読み、お題目を約百遍、五分ぐらい、真剣に唱えなさい"と。
信心に距離(きょり)はない。そばで拝もうと、遠く離れて拝もうとも、功徳に差がありましょうか、要は信心です。「ただ心こそ大切なれ」です。
信心っだにあれば必ず大聖人様に通ずる、戒壇の大御本尊に通ずるのであります。
そして一週間にいっぺんぐらいは、本部会館に来て、大御本尊を心ゆくまで拝むようにと勧(すす)めて下さい。
【日寛上人の御指南】
大事なことだから、もういっぺん繰り返します。
御本尊の御前で唱えるお題目も、御本尊のない所で遙拝して唱えるお題目も、功徳に全く変わりはないのです。共に御本尊を信じ唱えるがゆえに「本門の題目」であります。
このことについて二十六代の日寛上人は「まさしく本尊に向かって妙法を唱え奉るは即ちこれ読(どく)なり。本尊に向かわずして妙名を唱うるは即ちこれ誦(じゅ)なり」とはっきり仰せです。
御本尊に向かって唱える題目をなぜ「読(どく)」というかといえば、御本尊の中央の南妙法蓮華経を見て唱えるゆえです。したがって御本尊のましまさぬ所で唱える題目は「誦(じゅ)」です。
しかし「読」も「誦」も御本尊を信じ唱えるゆえに共に本門の題目、全く功徳に変わりはない。この日寛上人の御指南こそ、内得信仰の修行の文証であります。
【熱原の法華講衆こそ 妙信講の鑑】
さらに内得信仰の歴史上の現証を尋ねれば、あの熱原の法華講衆の人々は皆内得信仰だったではないか。あの方々は入信なお日浅く、貧しき農民であり、一人一人が未だ御本尊を頂ける状況ではなかったに違いない。
しかし日興上人の御教導のもと、不惜身命の信心に立ち、身延山におわする日蓮大聖人を信じ切り日夜真剣にお題目を唱えていたのです。
そしてその大信心はついに本門戒壇の大御本尊の願主として、大聖人様に御印可を給わるほどの大仏事をなしとげたのです。
この熱原の方々こそ、いま妙信講のお手本です。妙信講も五万になる時、内得信仰であの大仏事をなし、妙信講が同じく内得信仰で御遺命守護の御奉公ができぬわけがありましょうか。
【日興上人の厳格な教え】
さらに史実を尋ねるならば、宗門の上代では、信心決定まで内得信仰が当たり前の姿であったのです。
日興上人の「富士一跡門徒存知事」というお書き物を拝すれば、「一、御筆の本尊を以て形木に彫(ほ)り《み》不信の輩に授与して軽賤する由諸方に其の聞え有り、いわゆる《所謂》日向・日頂・日春等なり。
日興が弟子分に於ては、在家出家の中に、或は身命を捨て、或は疵(きず)を被り、若は又在所を追い放たれし一分信心の有る輩に、忝(かたじけな)くも書写し奉り、之を授与する者なり。」と仰せであります。
(注・《》内は、原文を記載。 これは、省略された部分です→)《本尊人数等又追放人等、頸切られ、死を致す人等。》
すなわち、大聖人滅後、五老僧等は御本尊を軽く扱い、大聖人の御直筆の御本尊を模刻(もこく)して、型木に彫(ほ)り、印刷して、信心もない輩にこれを授与していた。
そもそも御本尊を印刷すること自体当時においては不敬、また不信の輩に授与することはさらに軽残心罪となる。
よって日興上人はこれを厳しく誠められたのです。
そして、日興上人の門下においては、在家出家を問わず、こ心仏法のゆえに或いは身命を捨て、あるいは疵(きず)を受け、あるいは処を追われるなどの迫害を受けるほど熱烈な信心ら者にして、始めて日興上人が戒壇の御本尊を書写遊ばして授与する心であると仰せられる。
この仰せを拝しても、日蓮正宗上代においては、今日のようないわゆる御型木本尊はなかったのであります。御本尊といえば日興上人以下御歴代の御法主が、相承の心血をかたぶけて、戒壇の大御本尊を書写遊ばした、いわゆる常住御本尊心ことを指すのです。
そしてこの御本尊は「或は身命を捨て、或は疵を被り、若しは又在所を追い放たれし」というような大信心の者に始めて授与される。
信心修行の始めにではなく、不惜身命の強信に酬いて授与された。
よって常住御本尊の脇書の人名は、その人の即身成仏を示すものと本宗ではいわれております。
さて、しからば、かかる御本尊を授与されるまではどうやって信心修行していたかといえば内得信心です。
未だ御本尊は授与されずとも、熱烈に信じお題目を唱える。こら厳格な風儀が日蓮正宗の伝統の姿であったのです。
【富士門流伝統の姿を知れ】
しかし近年になって、信徒が全国的に増えてきたのと、かつ御在世を遠ざかるにつれ、内得信仰で厳格な信心を貫くことが難しくなってきたので、止むなく、御型木御本尊を信心決定までの間、仮りに貸与するという制度ができたのです。
このことについて五十九世堀日亨上人は
「近年各地方の信徒心倍増にともない、そ心信仰程度の決定を試練するある期間の勝境に、仮本尊(御型木本尊)を祀(まつ)ることあるは止むを得ぬ暫時の方便であって、本項(富士跡門徒存知事の所引の一条)の制規に触れるも心ではない」 (富士日興上人詳伝)と解説されております。
「近年」というのは明治の来頃か大正か、はっきりとはわかりませんが、いずれにしても御型木御本尊という制度は、近年の信徒の状況に基いて為された「止むを得ぬ暫時の方便」であって、決して日進正宗の昔からの姿ではなかった。
むしろ、常住御本尊のお下げ渡しまでは、内得信仰を貫くことが、富士門流本来の、伝統的姿勢であったわけであります。
【内得信仰に誇りを持て】
しかしこれを為すには、御在世のごとく熱烈な信仰の息吹きと、指導の徹底がなければ為し得ない。いま妙信講は解散の弾圧を機に、計らずも大聖人・日興上人の御時代の厳格な信心を求められているのであります。
私はこの意味で、現在妙信講で内得信仰心修行が熱烈に貫かれていることに、深く強い誇りを感じております。
そして御遺命守護完結の暁には、この御奉公を以って、班長以上心幹部で強盛心慢心を貫いてきた人に、常住御本尊のお下げ渡しが頂けるよう、私は妙信講の講頭として、必ず時の御法主上人に御願い申し上げる所存であります。
それまで、内得信仰に誇りを以って進んで頂きたい。
妙信講こそ日興上人が示された常住御本尊授与の資格たる、法の為には身を惜まぬ信心を、御遺命守護の御奉公の中にひたすら実践すべきであります。
以上。