浅井氏がチカラを入れて力説するほど、達師は此の問題を重くは見ておられなかったと思います。
まず、問題となった「大坊棟札」であるが、この棟札の表には日興上人筆と云われる棟札本尊(偽書説あり)とされる本尊が復刻されている。
そして、裏書には
(裏書)
右大坊棟札 駿河国富士上野郷之内 大石ケ原一宇
本 尊 也 草創以地名号大石寺領主南条修理
太夫平時光法号大行地所被寄附之
火不能焼水不能漂
本門戒壇之霊場日興日目等代々加修理丑とら之勤行
無怠慢可待廣宣流布国主被立此法時者
富国於天母原三堂並六万坊可為造営者也
自正應二年至三年成功
日興日目
正應四年三月十二日
と彫刻されている。
◎この棟札を、最初に偽書と断定されたのは、堀日亨上人である。
堀上人は御所持のノート(通称・堀ノートという)の中に、斯く断定されている。
棟札 正應四年己丑三月十二日 此小本尊ヲ模刻(薄肉彫)シテ薄キ松板二裏二御家流ノ稍豊ナル風ニテ薬研彫ニセルモ文句ハ全ク棟札ノ例ニアラス又表面ノ本尊モ略之本尊式ナルノミニテ又棟札ノ意味ナシ唯頭ヲヘニ切リテ縁ヲツケタルコトノミ棟札ラシ石田博士モ予ト同意見ナリ徳川時代ノモノ。
と記されている。つまり、形だけは棟札に似ているけれども、本尊も記される文句も、棟札の意味がなく、江戸時代の偽作であると、石田博士の意見を採り上げつつ断定されている。ただ、棟札には正応四年とだけあるのに、堀上人は「己丑」の干支を入れられているが、正応四年の干支は「辛卯」である。宗門上古と浅井氏は言うが、古文書の研究家でもあり、宗教的中立の立場の石田博士の客観的検証もあって、この棟札作成が江戸期のものであり、かつ興尊の名前を借りた偽作性は動かしがたい。
まず、浅井氏は棟札本尊の知識がないままに、この大坊棟札の真偽を論じているところに無理がある。堀上人も達師もこの大坊棟札の役割としての本尊については「形だけは棟札に似ているけれども、本尊も記される文句も、棟札の意味がなく(堀ノート)」と断定されている。達師も同様で「これは正応四年となってます。表は御本尊様で、これは論ずることはやめます。」と明らかに御本尊の体相に及ぶため、言及は避けられたが棟札本尊として論ずるほどの意味がない事を匂わせておられる。
宗祖は棟札本尊については「一、棟札の事承り候。書き候ひて此の伯耆公に進らせ候。此の経文は須達長者祇園精舎を造りき。然るに何なる因縁にやよりけん、
須達長者七度まで火災にあひ候時、長者此の由を仏に問ひ奉る(上野殿御返事)」と棟木・梁など建物内部の高所に取り付けて火災や水害から家屋を守る事を祈念した札(御本尊)である。それを伯耆公(興尊)に持って参らせると御妙判に見えます。
堀上人も達師も御相伝の上から、大坊棟札と称する板がその役割にないものと断じられ、此の一つを以て後は論ずる内容のものでない事が分かります。ただ、達師が十項目に分けて説明されたのは、御本尊の体相に立ち入ると相承の内容に及ぶ事になることで、敢えてそれを避けられ、別方向から此の偽作を論じられたものと拝します。
さらに棟札の役割から考えた場合に、大石寺の起工は正応二年十月大石が原にて(富士年表・石文)行われている。普通であれば上棟式はその際に行われて棟札はその際に上げられているはずである。しかし、此の棟札には正応四年の記述となっていて、棟札を上げるにしても起工して二年後、棟札本尊が有るなんて偽作の典型の例であろう。ちなみに大石寺は起工した翌年、正応三年十月十二日に完成(富士年表・石文)している。
浅井氏は「いま一つ付言すれば、もし大坊棟札が偽作だというなら、大石寺の歴史的な落慶の口がわからなくなってしまうが、それでもよいのか。『富士年表』にも、正応三年の項に『一〇・一二 大石寺建立(大坊棟札)』とあるように、記念すべき大石寺建立の日を特定する資料は大坊棟札しかないのである。これを偽作とは何事であろうか。」
と述べているが、高橋粛道師は容赦のない反論をされている
「大石寺では大坊棟札をたった一つの拠り所として十月十二日説を建てているわけでない。(中略)それよりも、大坊棟札のどこに十月十二日と書いてあるのか。書いていないのに、なぜ「落慶の日がわからなくなってしまう」というのか。ただ棟札の「正応二年より三年に至りて功成る」の部分を用いて出典としただけである。(高橋粛道師:日蓮正宗史の研究)
ちなみに浅井氏が勝手に持ち上げて頼みとする堀日亨上人は多くの著作の中でも大坊棟札に触れられる事はなかった。高橋粛道師は同著で「堀上人は『富士日興上人詳伝』、の中の「大石寺創立」《注・二四二頁》の項目の中で、「大坊棟札」を「正史料」にも「間接史料」にも紹介されず、全く歯牙に懸けられていない。(高橋粛道師:日蓮正宗史の研究)」ということである。
浅井氏は此の冒頭にて大坊棟札の真作を断言するも、何らの史実的信憑性を以て言及したものでなく、ただ達師の説を否定する事で真作である、という極めて消極な立証であります。此処について高橋粛道師は以下に批判されています。
顕正会は、日達上人のこれ以外の論証については、
「そのすべては例によってズサン極まる推量にすぎない。と悪口し、その一々についてはいずれくわしく破折する。」
と大見栄を張ったが、いまだに少しの反論もみられない。まもなく二年目(注:平成四年当時、そこから更に二十年経過)を迎えるというのに、反論を予告しておきながらできないでいる。(高橋粛道師:日蓮正宗史の研究)
結局、浅井氏も大坊棟札についての詳細は、有力な手がないまま放置なのでありましょう。平成二年にこの文書を発表して以来結局二十余年を過ぎたが、浅井氏からコレと言った文書が上がらないと云う事は達師へ反論不能という事でしょう
浅井氏はわざわざ興尊の文書や鎌倉時代の大日本史料を上げて論証に及んでいますが、これも高橋粛道師の同書から引用してみます。
日達上人が「寄附」でなく「寄進」と言われたのは、宗祖滅後の南条家等の富士門流が一様に「寄進」という用語を使っているから、そういう意味で言われたと考える。日達上人は、鎌倉時代の日本語もしくは漢語に「寄附」という語がなかった、と断定されたわけではなく、富士門流の当時の使用例を問題にしたのである。そう言えば理解できるであろう。」(高橋粛道師:日蓮正宗史の研究)
少なくとも大坊棟札の存在を知られた堀上人はわざわざ石田博士という方を通じて鑑定を依頼し、其の結果をご自身の堀ノートにまとめられている。そして達師はハッキリと偽作を打ち出されている。
現に堀上人は『富士日興上人詳伝』、の中の「大石寺創立」《注・二四二頁》の項目の中で、「大坊棟札」を「正史料」にも「間接史料」にも紹介されず、全く歯牙に懸けられていない。(高橋粛道師:日蓮正宗史の研究)
達師は「丑寅勤行について、「日興跡条々事」に、「大石の寺は御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(法主全書一―九六)とありますね。それと同じようだけれど非常にイメージが違ってます。「日興跡条々事」は元徳二年でしょう。これよりも約四十年も前にこれがあったということになる。おかしいです。」と仰せであります。これら一連の動きの年表を時系列にまとめました、以下をご覧下さい
◎正応三年(1289)十月十二日 大石寺完成
◎正応三年十月十三日 譲座御本尊目師に授与(内付)
正應四年三月十二日(大坊棟札の日付)
◎永仁六年(1298)二月十五日 興尊重須に御影堂建立、移住
◎元徳(元弘二年)四年(1332)十一月十日、日興跡条々事、目師授与
◎元弘三年一月十三日 日興遺戒置文二十六箇条定む
◎元弘三年(正慶二年)二月七日 興尊入滅
正応三年十月十二日の大石寺完成の翌十三日、日興上人は譲座御本尊をしたためて日目上人に授与されました。この御本尊は日目上人に付嘱されることを内々に示された証しとして拝されています。特別に大幅であることの他に、花押と授与書きの位置が他の日興上人書写の御本尊にはないという特徴をもって顕されています。
譲座御本尊が授与された後、日興上人による日目上人への正式な御付嘱は四十二年後、正慶元年(1332)11月の『日興跡条々』を授けられたことによって決せられます。この時「御手続御本尊」と称される正慶元年十一月三日お書き入れの御本尊も授与されています。
さてこの棟札には「自正應二年至三年成功」とあります。そして完了日が正應四年三月十二日と書されています。正応三年には大石寺が完成しているのに何故に棟札本尊が正応四年の記述になっているのでしょうか?。辻褄が合いませんね。そして浅井氏は「丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つ可し」と先師が説法で用いられている事を上げていますが、この文言は棟札に書されている文言より少ないですね。並べて比較してみます
◎「本門戒壇の霊場、日興日目等代々修理を加え、丑とらの勤行怠慢無く広宣流布を待つべし、国主この法を立てられるときは云々」(正應四年:大坊棟札の文言)
◎「大石の寺は御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を持つべきなり」(元徳四年:日興跡条々の事の文言)
達師は「”日興跡条々事”は元徳二年(元徳四年)でしょう。これよりも約四十年も前にこれがあったということになる。」と仰せです。
正応四年には内付は有ったと言えど、興尊が実質大石寺の貫首であったわけです。つまり広宣流布祈念の丑虎勤行は、主体としてその時の貫首が行うもので、正応四年の時点で遺戒のように、しかも興尊と目師の連名でこうした文言が残る事が不自然です。興尊が重須に退出されるのが正応三年から九年後です。つまり後住として目師に本尊内付されましたが、現実的には興尊が大導師として富士を管領されていたことは動かせません。
また日興跡条々の事では丑虎勤行と具体的には述べずに、勤行と一般的な行儀に変えてあります。目師への個人授与ですら口伝的内容は避けられているのに、あからさまに丑とらの勤行と明示する事はコレも不自然であります。達師はその当たりを「同じようだけれど非常にイメージが違ってます」と批判されています。丑とらも文字については寛尊が以下に御指南です。
問う、古より今に至るまで毎朝の行事、丑寅の刻み之れを勤む、其の謂われ如何。
答う、丑の終り寅の始めは即ち是れ陰陽生死の中間にして三世諸仏成道の時なり。是の故に世尊は明星出づるの時豁然として大悟し、吾が祖は子丑の刻み頚を刎ねられ魂魄佐渡に到る云云。(寛尊:当流行事抄)
達師は「それから丑寅ですね。昔は丑寅とはっきり書いたものです。」と指南されているとおり、寛尊もその用法で「丑虎」と富士の伝統で書されています。