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天母山・天生原問題はこちら

妙信講破門以降、浅井氏は国立戒壇義や正本堂が宗祖御遺命の事の戒壇ではないと、激しく批判致しますが、この戒壇建立の地問題は、その傍証である天母山や天生が原、そして大坊棟札など一連の浅井氏の宗門批判の材料であります。

しかし、この手合いの話、実はもう何十年も前に達師を初めとして御宗門からも、また在家団体からも何度何度も指摘され、その度に浅井氏は閉口している話であります。
此処では浅井氏の文言それぞれに適切な批判文書を用意しました、赤文字部分をクリックすると、当ページの反論箇所にジャンプします。今回にあわせた新説もありますので、どうぞご活用下さい。


顕正新聞の第457号、平成元年一月二十五日号の浅井氏発言
『日寛上人以後の「天生原」説は要法寺日辰の影響』と云って片づけた以上、細井管長にとって、絶対にあってはならないのが、宗門上代の文証である。 そこで細井管長は「当国天母原に於て・・・」と記されている日興上人の「大坊棟札」を〝後世の偽作〟と云い放った。その理由を十ほど挙げているが、そのすべては例によってズサン極まる推量にすぎない。

その一々についてはいずれくわしく破折するが、一例を挙げれば、大坊棟札に「寄附」という用語のある事を取りあげ「鎌倉時代なら『寄進』と使うわけですね。これは『寄附』となっている。この点も変です」と偽作の理由の一つにしている。

だが、少しも「変」ではない。鎌倉時代に「寄附」という用語が通常使用されていたことは「大日本史料」等を見ればすぐわかる。
それよりも当の日興上人が「実相寺衆徒愁状」(歴代法主全書一)に「水田六町寄附せらるる所なり」とお書きになっておられるではないか。細井管長の論証なるものは、すべてこの調子である。

また、細井管長は日亨上人の御文を引いて、上人が大坊棟札を否定しているかのごとく云っているが、引用の御文を見る限り、少しも「偽作」などとは云っておられない。
上人はただ、棟札の書風について「御家流のやや豊かなるふう」と云われているだけである。これを以て細井管長は「御家流というのは、即ち徳川時代という意味です」などと短絡しているが、とんでもないことである。日亨上人は、日興上人の天賦の名筆の書風をかく表現されたのである。
かかる日亨上人の例は他にもある。日興上人直筆の安国論写本が玉沢妙法華寺に蔵されているが、この御写本の筆致について日亨上人は「玉沢のは、軟かな豊かな王朝末の写経様である」(立正安国論解題)と表現されている。細井管長の論法を以てすれば、この御写本もまた〝王朝末とは藤原時代です、だから偽作〟ということになるではないか。
さらに、細井管長が引いた日亨上人の御文は、例によって出典を隠しての切り文である。これでは日亨上人の文意は不明である。日開上人の「御宝蔵説法」における改ざん・歪曲の前例もすでにあれば、ぜひ出典を明らかにすべきである。

およそ本宗において、この「大坊棟札」を偽作などと云った先師がおられたであろうか。いずれの御法主も、棟札に示された日興上人の御意を拝承し、あるいは「丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つ可し」の御文を御宝蔵説法に引用しておられるではないか。
さらに六十五代日淳上人はこの「大坊棟札」を引用されて 「この元朝勤行とても、――二祖日興上人が、宗祖大聖人の御遺命を奉じて、国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つ可し』とあるのが、これであります」と。



浅井氏云わく:宗門上古の証拠

浅井氏がチカラを入れて力説するほど、達師は此の問題を重くは見ておられなかったと思います。

まず、問題となった「大坊棟札」であるが、この棟札の表には日興上人筆と云われる棟札本尊(偽書説あり)とされる本尊が復刻されている。 そして、裏書には

(裏書)

右大坊棟札 駿河国富士上野郷之内 大石ケ原一宇
本 尊 也 草創以地名号大石寺領主南条修理
      太夫平時光法号大行地所被寄附之
火不能焼水不能漂
本門戒壇之霊場日興日目等代々加修理丑とら之勤行
無怠慢可待廣宣流布国主被立此法時者
富国於天母原三堂並六万坊可為造営者也
自正應二年至三年成功
          日興日目
  正應四年三月十二日


と彫刻されている。

◎この棟札を、最初に偽書と断定されたのは、堀日亨上人である。
堀上人は御所持のノート(通称・堀ノートという)の中に、斯く断定されている。

棟札 正應四年己丑三月十二日 此小本尊ヲ模刻(薄肉彫)シテ薄キ松板二裏二御家流ノ稍豊ナル風ニテ薬研彫ニセルモ文句ハ全ク棟札ノ例ニアラス又表面ノ本尊モ略之本尊式ナルノミニテ又棟札ノ意味ナシ唯頭ヲヘニ切リテ縁ヲツケタルコトノミ棟札ラシ石田博士モ予ト同意見ナリ徳川時代ノモノ。

と記されている。つまり、形だけは棟札に似ているけれども、本尊も記される文句も、棟札の意味がなく、江戸時代の偽作であると、石田博士の意見を採り上げつつ断定されている。ただ、棟札には正応四年とだけあるのに、堀上人は「己丑」の干支を入れられているが、正応四年の干支は「辛卯」である。宗門上古と浅井氏は言うが、古文書の研究家でもあり、宗教的中立の立場の石田博士の客観的検証もあって、この棟札作成が江戸期のものであり、かつ興尊の名前を借りた偽作性は動かしがたい。

浅井氏云わく:日興上人の「大坊棟札」を〝後世の偽作〟

まず、浅井氏は棟札本尊の知識がないままに、この大坊棟札の真偽を論じているところに無理がある。堀上人も達師もこの大坊棟札の役割としての本尊については「形だけは棟札に似ているけれども、本尊も記される文句も、棟札の意味がなく(堀ノート)」と断定されている。達師も同様で「これは正応四年となってます。表は御本尊様で、これは論ずることはやめます。」と明らかに御本尊の体相に及ぶため、言及は避けられたが棟札本尊として論ずるほどの意味がない事を匂わせておられる。

宗祖は棟札本尊については「一、棟札の事承り候。書き候ひて此の伯耆公に進らせ候。此の経文は須達長者祇園精舎を造りき。然るに何なる因縁にやよりけん、 須達長者七度まで火災にあひ候時、長者此の由を仏に問ひ奉る(上野殿御返事)」と棟木・梁など建物内部の高所に取り付けて火災や水害から家屋を守る事を祈念した札(御本尊)である。それを伯耆公(興尊)に持って参らせると御妙判に見えます。

堀上人も達師も御相伝の上から、大坊棟札と称する板がその役割にないものと断じられ、此の一つを以て後は論ずる内容のものでない事が分かります。ただ、達師が十項目に分けて説明されたのは、御本尊の体相に立ち入ると相承の内容に及ぶ事になることで、敢えてそれを避けられ、別方向から此の偽作を論じられたものと拝します。

さらに棟札の役割から考えた場合に、大石寺の起工は正応二年十月大石が原にて(富士年表・石文)行われている。普通であれば上棟式はその際に行われて棟札はその際に上げられているはずである。しかし、此の棟札には正応四年の記述となっていて、棟札を上げるにしても起工して二年後、棟札本尊が有るなんて偽作の典型の例であろう。ちなみに大石寺は起工した翌年、正応三年十月十二日に完成(富士年表・石文)している。

浅井氏は「いま一つ付言すれば、もし大坊棟札が偽作だというなら、大石寺の歴史的な落慶の口がわからなくなってしまうが、それでもよいのか。『富士年表』にも、正応三年の項に『一〇・一二 大石寺建立(大坊棟札)』とあるように、記念すべき大石寺建立の日を特定する資料は大坊棟札しかないのである。これを偽作とは何事であろうか。」
と述べているが、高橋粛道師は容赦のない反論をされている

「大石寺では大坊棟札をたった一つの拠り所として十月十二日説を建てているわけでない。(中略)それよりも、大坊棟札のどこに十月十二日と書いてあるのか。書いていないのに、なぜ「落慶の日がわからなくなってしまう」というのか。ただ棟札の「正応二年より三年に至りて功成る」の部分を用いて出典としただけである。(高橋粛道師:日蓮正宗史の研究)

ちなみに浅井氏が勝手に持ち上げて頼みとする堀日亨上人は多くの著作の中でも大坊棟札に触れられる事はなかった。高橋粛道師は同著で「堀上人は『富士日興上人詳伝』、の中の「大石寺創立」《注・二四二頁》の項目の中で、「大坊棟札」を「正史料」にも「間接史料」にも紹介されず、全く歯牙に懸けられていない。(高橋粛道師:日蓮正宗史の研究)」ということである。



浅井氏云わく:その一々についてはいずれくわしく破折する

浅井氏は此の冒頭にて大坊棟札の真作を断言するも、何らの史実的信憑性を以て言及したものでなく、ただ達師の説を否定する事で真作である、という極めて消極な立証であります。此処について高橋粛道師は以下に批判されています。

顕正会は、日達上人のこれ以外の論証については、
「そのすべては例によってズサン極まる推量にすぎない。と悪口し、その一々についてはいずれくわしく破折する。」
と大見栄を張ったが、いまだに少しの反論もみられない。まもなく二年目(注:平成四年当時、そこから更に二十年経過)を迎えるというのに、反論を予告しておきながらできないでいる。(高橋粛道師:日蓮正宗史の研究)

結局、浅井氏も大坊棟札についての詳細は、有力な手がないまま放置なのでありましょう。平成二年にこの文書を発表して以来結局二十余年を過ぎたが、浅井氏からコレと言った文書が上がらないと云う事は達師へ反論不能という事でしょう



浅井氏云わく:鎌倉時代なら『寄進』と使うわけですね。これは『寄附』

浅井氏はわざわざ興尊の文書や鎌倉時代の大日本史料を上げて論証に及んでいますが、これも高橋粛道師の同書から引用してみます。

日達上人が「寄附」でなく「寄進」と言われたのは、宗祖滅後の南条家等の富士門流が一様に「寄進」という用語を使っているから、そういう意味で言われたと考える。日達上人は、鎌倉時代の日本語もしくは漢語に「寄附」という語がなかった、と断定されたわけではなく、富士門流の当時の使用例を問題にしたのである。そう言えば理解できるであろう。」(高橋粛道師:日蓮正宗史の研究)



浅井氏云わく:日亨上人の御文を引いて、上人が大坊棟札を否定しているかのごとく云っている

少なくとも大坊棟札の存在を知られた堀上人はわざわざ石田博士という方を通じて鑑定を依頼し、其の結果をご自身の堀ノートにまとめられている。そして達師はハッキリと偽作を打ち出されている。

現に堀上人は『富士日興上人詳伝』、の中の「大石寺創立」《注・二四二頁》の項目の中で、「大坊棟札」を「正史料」にも「間接史料」にも紹介されず、全く歯牙に懸けられていない。(高橋粛道師:日蓮正宗史の研究)



浅井氏云わく:「丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つ可し」の御文を御宝蔵説法に引用しておられる

達師は「丑寅勤行について、「日興跡条々事」に、「大石の寺は御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(法主全書一―九六)とありますね。それと同じようだけれど非常にイメージが違ってます。「日興跡条々事」は元徳二年でしょう。これよりも約四十年も前にこれがあったということになる。おかしいです。」と仰せであります。これら一連の動きの年表を時系列にまとめました、以下をご覧下さい

◎正応三年(1289)十月十二日 大石寺完成
◎正応三年十月十三日 譲座御本尊目師に授与(内付)
正應四年三月十二日(大坊棟札の日付)
◎永仁六年(1298)二月十五日 興尊重須に御影堂建立、移住
◎元徳(元弘二年)四年(1332)十一月十日、日興跡条々事、目師授与
◎元弘三年一月十三日 日興遺戒置文二十六箇条定む
◎元弘三年(正慶二年)二月七日 興尊入滅

正応三年十月十二日の大石寺完成の翌十三日、日興上人は譲座御本尊をしたためて日目上人に授与されました。この御本尊は日目上人に付嘱されることを内々に示された証しとして拝されています。特別に大幅であることの他に、花押と授与書きの位置が他の日興上人書写の御本尊にはないという特徴をもって顕されています。

 譲座御本尊が授与された後、日興上人による日目上人への正式な御付嘱は四十二年後、正慶元年(1332)11月の『日興跡条々』を授けられたことによって決せられます。この時「御手続御本尊」と称される正慶元年十一月三日お書き入れの御本尊も授与されています。

さてこの棟札には「自正應二年至三年成功」とあります。そして完了日が正應四年三月十二日と書されています。正応三年には大石寺が完成しているのに何故に棟札本尊が正応四年の記述になっているのでしょうか?。辻褄が合いませんね。そして浅井氏は「丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つ可し」と先師が説法で用いられている事を上げていますが、この文言は棟札に書されている文言より少ないですね。並べて比較してみます

◎「本門戒壇の霊場、日興日目等代々修理を加え、丑とらの勤行怠慢無く広宣流布を待つべし、国主この法を立てられるときは云々」(正應四年:大坊棟札の文言)
◎「大石の寺は御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を持つべきなり」(元徳四年:日興跡条々の事の文言)

達師は「”日興跡条々事”は元徳二年(元徳四年)でしょう。これよりも約四十年も前にこれがあったということになる。」と仰せです。

正応四年には内付は有ったと言えど、興尊が実質大石寺の貫首であったわけです。つまり広宣流布祈念の丑虎勤行は、主体としてその時の貫首が行うもので、正応四年の時点で遺戒のように、しかも興尊と目師の連名でこうした文言が残る事が不自然です。興尊が重須に退出されるのが正応三年から九年後です。つまり後住として目師に本尊内付されましたが、現実的には興尊が大導師として富士を管領されていたことは動かせません。

また日興跡条々の事では丑虎勤行と具体的には述べずに、勤行と一般的な行儀に変えてあります。目師への個人授与ですら口伝的内容は避けられているのに、あからさまに丑とらの勤行と明示する事はコレも不自然であります。達師はその当たりを「同じようだけれど非常にイメージが違ってます」と批判されています。丑とらも文字については寛尊が以下に御指南です。

問う、古より今に至るまで毎朝の行事、丑寅の刻み之れを勤む、其の謂われ如何。
答う、丑の終り寅の始めは即ち是れ陰陽生死の中間にして三世諸仏成道の時なり。是の故に世尊は明星出づるの時豁然として大悟し、吾が祖は子丑の刻み頚を刎ねられ魂魄佐渡に到る云云。(寛尊:当流行事抄)

達師は「それから丑寅ですね。昔は丑寅とはっきり書いたものです。」と指南されているとおり、寛尊もその用法で「丑虎」と富士の伝統で書されています。



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高橋粛道師の論書から:大坊棟札を偽書と断定されたのは、御先師日達上人である。やや長文であるが引用する。

それから、その次に、大石寺棟札の裏書きというのが出てきます。これは正応四年となってます。表は御本尊様で、これは論ずることはやめます。
「本門戒壇之霊場日興日目等代々加修理丑寅之勤行無怠慢可持広宣流布、国主被立此法時者当国於天母原三堂並六万坊可為造営者也」と、こうありますね。
「自正応二年至三年成功 正応四年三月十二日」と、こうなっている。

そのこっちに、また、「駿河国富士上野郷内大石原一宇草創以地名号大石寺 領主南条修理太夫平時
光法号大行之寄附也」こうなってますね。
これが一番古い書物に出てるということに言われるんですが、これもちょっと考えなければいけない。 これは第一、丑寅勤行について、「日興跡条々事」に、「大石の寺は御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を持つべきなり」(法主全書一巻九六)とありますね。
それと同じようだけれど非常にイメージが違ってます。「日興跡条々事」は元徳二年でしょう。これよりも約四十年も前にこれがあったということになる。おかしいです。とにかくまた、書く字もおかしいですね。この日興という字もおかしいでしょ。

日興上人は『日 皿+八』《注・興の文字表記出来ないので》とこうお書きになっているんですね。ところが、これにはもう一つ多い、一つ二つ三つ四つ五つ『日 皿+八』《注・皿の立てが五本》とこうなっている。

そういうところがおかしいし、また『日興日目等』という、この文句が少しおかしいですね。
もしお書きになるなら、自分が書くんだから、『日目』でいいんですよ。今の譲状と同じことです。「御堂と云い墓所と云い日日之れを管領し」だから、「日目等代々加修理」というのなら分かるけれども、自分の名前を『日興日目』と書く必要はない。

 それから丑寅ですね。昔は丑寅とはっきり書いたものです。これには『丑とら』と書いてある。これが徳川時代の特長。字もよく見れば、お家流といいますか、非常に字がなだらかに書かれている。
日興上人の字とは見られない。だから、それからいくと、この『当国』これもどうも信用できない。
もし、大石寺が正応三年十月十三日に完成したのなら、その時に棟札を入れるわけでしょ。

それから半年も後の正応四年三月十二目、これも、ちょっとおかしくなってきますね。
 それより、もっとおかしいのはこれです。「駿河国富士上野郷内大石原一宇草創以地名号大石寺」これはいいです。

 「領主南条修理太夫」南条さんが修理太夫という名称をいつもらったのか、おかしいですね。
それから「法号大行」これは法号となっている。もし、この時にそういう法号があったならば、南条さんはこの時三十三歳、三十三歳で法号大行なんていただくのはちょっと早すぎますね。

 「寄附也」これもおかしい。鎌倉時代なら「寄進」と使うわけですね。「寄進状」とか「寄進」、これは「寄附」となっている。この点も変です。
 今、この修理太夫ということは、よく調べれば、それは大昔からあるんですね。修理太夫という名称は、群書類従に出てきます。群書類従に寛平年間(寛平四年、八九二)ですから、この時代から四百年、五百年も前に、在原友子が修理太夫をもらっている。

 この時代では、南条さんの主人筋の北条さん、北条執権第十五代の北条貞顕ですら修理権太夫であったのですね。
それを家来すじの南条さんが修理太夫というのはおかしい話です。修理というのはお城を修繕する役、太夫はその長官。だから、まあ、この時分にはただ名称だけになったかも知れないけれど、それにしても、その長官という名前をもらうことはおかしいし、また、現に、その時代の北条時政の子・時房ですら修理権太夫となっている。『権』の字がついておる。そういう点からいっても、これは後から出来たものと思うのである。御伝土代ですら南条次郎左衛門時光、左衛門です。修理太夫という名前じゃない。父は南条七郎兵衛ということになってますね。

南条家の起こりと太夫について:平安時代末期、河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れ、平清盛によって伊豆国に流された源頼朝の配流地が伊豆国田方郡北条。その地方の狩野川を挟んで狭い左右両岸に北条氏の祖先の本拠地があった。対岸に四条氏で有名な江間氏の地域。支流柿沢川の南岸には南条時光氏の本家筋に当たる南条家の祖先が有ったとされる。

富士郡上野南条氏の本家は北条幕府時代の御内人の一人で、北条氏と同じく地名として伊豆国田方郡北条の南側に南条という地名があったとされ南条という苗字の起こりの地名であります。この伊豆南条を本家とすれば、遠く上野郷の地頭となった南条家は分家筋でも本家からほど遠い分家で事が分かります。達師が「家来すじの南条さんが修理太夫というのはおかしい話です」と仰せですが、本家伊豆南条からすれば御家人筋であっても、北条に使える身分の本家とは相当遠い分家の家筋という事がここからも見えます。

時光氏の父である南条七郎兵衛は通称でありますが、実名ではありません。当時の武士の名前の慣例である輩行仮名(はいこうけみょう)から考察すると、七郎とは仮名で基本的に七番目の子供を現します。御伝土代に出てくる南条次郎左衛門時光とは時光は実名で、仮名に当たる次郎は次男という意味。左衛門の名の起こりは衛護の役目を持ったと云う意味らしく、右衛門は右側の護衛筋という事だそうです。元は宮中の護衛武士の名残で、またこうした衛門とか太政大臣とかは官職と言って、本来は天皇からの賜り職であります。

後で出てくる『「大石寺明細誌」に「同二年己丑春 南条七郎修理太夫平時光の請に応じて』とありますが、ココでは七郎となっています。どちらが正しいかとなりますと堀上人の「富士日興上人詳伝」には南条兵衛七郎の次男にして七郎次郎時光と称したそうです。つまり父親が上野郷南条家七番目の子息で、その子供として次男に生まれたという歴史が名前から伺える訳です。ですから明細誌の南条七郎修理太夫平時光という七郎とは父親の七番目の子供であった事とゴッチャになっています。

さてこの修理太夫ですが、まず太夫とは官位の五位。この五位とは父または親の系統が一国の領主、つまり相模地方であれば相模守を承けていなければならず、南条家が上野郷を含む今で言う静岡方面の駿河守でなければならず、本家ですら伊豆守と任官された事もなく、上野南条家が駿河守とは歴史上でも見る事はありません。時光の父親である南条七郎兵衛の兵衛は兵衛丞がつけば六位相当の身分でありますが、北条御家人ですら生涯無官のものが多かったから、ここでも時光が五位の身分を称する事は有り得ません。延慶二年の譲り状(大石寺蔵)には時光は自書で左衛門尉時光となっています。つまり上野地頭相応の位であったことが確認されます。

傍証として当時の官位ですが、宗祖の時代を生きた御妙判でもお馴染みの北条時頼は寛元元年(1243)七月二十七日に、左近大夫将監に昇り、同二年三月六日には、従五位上に叙されました。その兄である北条経時は、従五位上の左近将監(さこんのしょうげん)に任官し、小侍所別当を経て、仁治三年(1242)六月、祖父泰時の死後を嗣いで幕府執権に就任し、やがて官位も正五位下武蔵守と昇っています。当時の執権の身分ですら、この有様ですから、官位についてのおおよそのイメージは掴んでもらえると思います。

達師は「修理というのはお城を修繕する役、太夫はその長官(中略)北条時政の子・時房ですら修理権太夫となっている」と言われているのはそうした歴史から南条家が北条本家の時房ですら権の太夫であったのに、正の太夫などは有り得ないと云われるとおりです。


その南条左衛門時光という名前は、延慶年間でも南条左衛門時光となっていて、大行などとは言っておりません。
南条修理太夫という名前はどこから出たかというと、私がちょっと調べたところが、大石寺明綿誌に出てきてますね。大石寺明細誌はずっと新しいですね。文政六年、日量上人がお書きになった「大石寺明細誌」に「同二年己丑春 南条七郎修理太夫平時光の請に応じて駿州富士郡上野郷に移る、今の下之坊なり」(富要五巻三二一)と、これは大石寺明細誌です。

さきほどの明細誌はいつかという問題はこれがいちばん古いんでしょ。日量上人の文政六年 (一八二三)だから、ずっと後のこと、徳川時代でもずっと後、今から百五十年前くらいにできております。だから、それからみると、あるいはもう少し古いというかも知れないけれど、とにかく徳川中期以後にこれが出来たと思います。
だから、ここにあるところの「天母原三堂並六万坊」という言葉は昔からあるもんじゃない。もっと後のものだということがわかります。
それから、法号大行という名前ですね。法号大行という名前はもっとずっと遅いですね。こんな正応四年の時分にはなかった。正和五牛に、初めて時光が大行といってます。
正和五年の南条さんの譲状に「沙弥大行」という名前が初めて出てきます。
だからずっとおそいことです。だから、この六万坊という話は昔のものではない、ということがわかるのであります。
その時は何条さんは五十八歳ですかね、正和の時は。少なくとも五十四歳か五十八歳です。
五十いくつかにならなければ自分の法号なんかもらうわけもないし、また自分でつけるわけもない。
それから、堀猊下もこれを論じておりました。私はこの文章から言いますけれど、堀猊下はこの字体から言っております。「この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊かなるふうにて薬研彫りにせるも文句は全く棟札の例にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみにて、又棟札の意味なし、ただ頭を角に切りて縁をつけたることのみ棟札らし」、このお家流というのは、すなわち徳川時代という意味です。「石田博士も予と同意見なり」、
石田博士というのは石田茂作さんのことです。石田茂作博士も同意見だ、徳川時代のものと、こうはっきり書いております。だからこれは信用することはできないと。(日達上人全集第二輯五巻三二九)

つまり要約すると、
一、丑寅勤行の記述が『日興跡条々事』より約四十年前にあるのはおかしい
二、興の字が日興上人正筆の字体と違う
三、日興日日等という文句はおかしい
四、「当国」も信用できない
五、棟札が大石寺完成より約半年後の年代になっているのはおかしい
六、時光殿の修理太夫の名称はおかしい
七、鎌倉時代の「寄附」という用語はおかしい
ハ、大行の法号も時期が早すぎる
九、堀上人の説を支持する

これらに対し顕正会は、棟札中に「天母原」の用語があるため、何としてでも真作説を主張したいところである。
興尊御在世中に天母原戒壇建立説があった、と立てたいからである。

◎天母原戒壇建立説や天生原についての詳細は別のページを設けています。 天母山・天生原関連は ココをクリックして下さい


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