2:事と義の戒壇論を破折-2

◎更に日顕上人が、
浅井の妄論を破される


「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」で、浅井は以下に言う

阿部教学部長は猛々たけだけしく云う。
「(日寛上人の著述中に)本門戒壇本尊との名称を挙げて、そのおわしますところを義の戒壇と説かせられる文は一か処も存しない。いな、むしろ本門戒壇の本尊の処、義理の戒壇でないことを決し給うている」(悪書:1)
さらに云く「本門戒壇の本尊所住の処が、理の戒壇とか義の戒壇とおっしゃってる所は一ヶ所もないと思うんです。寛師のあの尨大の著書の中で、おそらく一ヶ所でもあったら教えていただきたい。まず絶対ないと私は思うんです」(大日蓮49年8月号)と。

では、御要望にしたがって明文を挙げよう。願くば守文の闇者たらずして理を貴ぶ明者たらんことを。
まず法華取要抄文段に云く「義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理・事の戒壇に当るなり。経に云く『当に知るべし、是の処は即ち是れ道場』とは是れなり。天台云く『仏其の中に住す、即ち是れ塔の義』等云々。故に当山は本門戒壇の霊地なり」と。
「当山」とは、本門戒壇の大御本尊まします大石寺のことである。この大石寺を指して「義理の戒壇」と明らかに仰せられているではないか。
また寿量品談義に云く「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、すでに本門戒壇の御本尊在まします上は、其の住処は即ち戒壇なり」と。
「事の戒壇は未だ無し」とした上で「其の住処は即ち戒壇」と仰せられるのは<義理(道理)において事の戒壇>という意である。なにゆえ義理・事の戒壇に当るのかといえば「本門戒壇の御本尊在まします上は」とある。文意全く取要抄文段と同じである。(中略)明文・白義あたかも天日のごとし。阿部教学部長、もっていかんとなす。(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む:平成二年・浅井昭衛著)


と、自分の頭では完璧だと思ったのだが、
日顕上人はその思い違いをバッサリ。


日寛上人は「取要抄文段」にて日寛上人の戒壇論を浅井昭衛はある一点を見落とした為に全く逆説に云々してしまう致命的なミスを致しましたので披露します。

浅井昭衛の言うところの「本迹の事・理と事中の事・理」という2品目をごっちゃに混ぜて開いた解釈に着目しなくてはなりません。
(寛尊は依義判文抄で)迹門の理の戒壇に対して、日蓮正宗の本門の御本尊のある場所を理の戒壇、別して義の戒壇とされ、戒壇の大御本尊のある場所を事の戒壇とのたて分けが一つとしてそれぞれ別の意味で仰せられています。
更に注意事項として「理」について事中の事・理に対し、理の戒壇との2種類の別々の意味があると前置きがあり、その名に迷う事の無いように理→義とされまた、義のみ名を要すると念を押されております。

ここに浅井昭衛は迷ったのであります。迹門の理の戒壇と相対しての本門の事の戒壇、日蓮大聖人の仏法は法体が事の一念三千ゆえの事中の事・理(義)と言う事に全く分野が違うにもかかわらず浅井昭衛は同等な意味合いを有しているものと思いこんで、その文意をごっちゃまぜて日蓮大聖人の仏法の事の一念三千の事中の事.理の中の義の戒壇を日蓮正宗の御本尊のあるところ、事の一念三千の法体である戒壇の大御本尊には事は元より備わっている道理である所を戒壇の大御本尊のある場所には広宣流布した時でしか事が備わらないような開き方で戒壇の大御本尊のある場所を義の戒壇として、日蓮正宗の御本尊のある場所を義の戒壇と同じとして日寛上人が仰せの意義を逆さまに捉える悩乱をしたのであります。

あ〜ぁ。やっぱりなぁ、浅井サン。得意満面で書いただけに、憐れですねぇ。







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