3:そして正本堂問題を破折-2


◎正本堂の定義を論ずるなら、まず建立御供養の時代から検証2


(前頁の続き)
正本堂

以上を見れば明らかなように、誑惑といわれる正本堂に妙信講時代には全講員を煽って御供養したのである。また浅井親子も推進の指導をしていたのである。それについて浅井は以下のように弁明している。
「正本堂の御供養には妙信講も参加した。今日から見れば、なぜこれに参加したのか不思議に思う人もいようが、当時はまだ誑惑が顕著ではなかった。少なくとも、管長猊下は一言も正本堂を御遺命の事の戒壇などとは云われず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調し、供養の誠を捧げよと、宗門の全僧侶・信徒に呼びかけておられたのである。」(昭和六十一年発行の「富士」二百七十一号・「試練と忍従」)

◎上の「試練と忍従」で浅井が語った「管長猊下は・・もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調し、供養の誠を捧げよと」などは、破門されて十二年が経過した昭和六十一年の心境であります。先もって達師は昭和四十年二月十六日・第一回正本堂建設委員会に於いて席上、訓示された「委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えを申し上げておきたい・・・大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります」と、ちゃんと正本堂の戒壇たる法門上の意義付けを示され、更に「今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでこざいます。」(大日蓮 昭和四十年三月号十一頁)とその正本堂の当宗に於ける堂宇としての位置づけと、その時の布教状況、今後未来の指針までも御指南されている。これらを以て拝する時に、浅井は「建物であることだけを強調し、供養の誠を捧げよ」と言い捨てるとは何と達師の御意を無視した浅はかな言いぐさであろうか。

◎かつて彼はこういった「私共はこの猊下の御思召に同心し奉ってたとえ微力たりとも赤誠を奉りたい。先生は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか」(昭和四十年五月二十五日、妙信講総幹部会・浅井「富士」二十四号・浅井企画室長の指導)この感激の弁と昭和六十一年の彼の言説では天地雲泥の境涯の差がある。その憐れな心に大御本尊様にお目通りできず、久遠劫来の罪障消滅が叶わぬ罪科を見る思いである。

ある時は「管長猊下は一言も正本堂を御遺命の事の戒壇などとは云われず」といい、別の機会では「第六十六世細井日達管長は、仏法上絶対権威の立場にありながら、保身のため、ひたすら池田に諂うという状態であった。(誑惑の正本堂 崩壊す!!)」といい、ここでもうやっぱり悩乱ですね



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