フェイク 第80号 (発行=1998.11.3)

大石寺で遊ぶ無任所教師に一筋の光明
 「大御本尊を正本堂から奉安殿に御遷座すれば顕正寺を御供養する」と広言していた浅井昭衛
外れた! 「完結」の暁には復帰できる、との浅い読み

 「御遺命守護完結のその日には、この顕正寺は時の御法主上人猊下に御供養申し上げる、お遷えし申し上げるということになっております」(「顕正新聞」第一〇三号)――昭和五十三年三月五日、埼玉県和光市に完成した顕正寺の落成入仏式で妙信講(昭和五十七年十月に「顕正会」と改称)の浅井昭衛が断言したことである(参考資料?を参照)。

 赴任する寺がなく、大石寺にゴロゴロしている無任所教師にとって、この二十年前の浅井の発言は一筋の光明といえよう。

 この「御遺命守護完結」とは浅井の口癖にもなっているが、特に、顕正寺が落成する前年の昭和五十二年五月ニ十九日に行われた第十九回妙信講総会で浅井は次のように解説していた。

 「完結の姿とは、大聖人の御法魂たる戒壇の大御本尊を、汚れた正本堂より元の清らかなる奉安殿に御遷座申し上げることでございます」(「顕正新聞」第84号)。

 つまり、大御本尊を正本堂から奉安殿に遷座することが浅井の言う「御遺命守護完結」なのである(参考資料?を参照)。

 ということは、今年四月五日、日顕が夕闇に紛れてコッソリと遷座したことで、浅井の「御遺命守護」は「完結」した筈であり、したがって、顕正寺は速やかに日顕に御供養すべきである。

 唯、浅井はこの「御遺命守護完結」は第七百御遠忌の昭和五十六年までを目標にすると誓っていた。その思惑が大外れしたところが、いかにも地震予知をいつも外しているナマズ教祖の浅井らしくて面白い。

 こうして浅井が言っていた昭和五十六年までの四年六ヶ月の「御奉公」は全くの水泡に帰したことになる。面子丸漬れとなった浅井は、会員をつなぎ止めておくための手段として、日顕に対し建白書などを提出、「御遺命守護」を訴え続けたのであるが、浅井目身、日顕が大御本尊を本当に遷座するとは考えてもいなかった。だから「完結」の暁には「顕正寺を御供養する」と言い放っていたのである。

 ところが、この浅井の主張とは何ら関係ない次元で遷座の陰謀が進められていた。唯々“学会憎し”の怨念から日顕が今年春、独断で急きょ遷座したのだ。この暴挙を誰よりも喜んだのが浅井であった。そこで、四月十日に「御遺命守護完結奉告式」、九月二日には「還御を祝し奉る記念大会」を行い、浅井は己の祈りと諌暁によって「遷座」がなされたかのように言葉巧みに会員を騙して得意満面。狂喜の余り、二十年前に「顕正寺を御供養する」と発言したことなど、ケロッと忘れているかのようだ。

 浅井に洗脳されて、奉告式や大会に黒い喪服姿で集った哀れな会員は、浅井のウソ八百の話に涙を流し、今は「一千万達成」に狂奔させられている。

 冒頭に紹介した通り、こんな会合を開く暇があったらサッサと顕正寺を「御法主上人猊下」(仏罰により悪性腫瘍で九月二十八日に入院、完治していないが宗内の動揺を静めるため十月ニ十八日朝、無理に退院した日顕のこと)に御供養申し上げるべきなのである。早くしないと、折角、遷座を強行した日顕に御供養する時期を逸することも危惧される。

 浅井よ、「完結のその日に御供養」と言っていたにらかかわらず、「完結」から半年も過ぎたのに顕正寺を御供養しないのは、惜しくなったのか!

 今ならまだ間に合う、早々に御供養してはどうか!

 もし、浅井が顕正寺を日顕に御供養しないならば、顕正会員は浅井のウソつき体質に気付き、今後、決して信じてはならない。

 浅井の話がいい加減なことの一例が顕正寺の初代住職・八木直道(大石寺主任理事・八木信瑩の養父)に関する発言である。入仏式の際、浅井は「八木尊師の御恩を忘れません」「八木御尊師に指一本ささせないで守る決意でおります」と語っていた。

 八木は平成七年九月に死去したが、浅井は今年春、八木を指して死人に鞭打つように「信心の崩れた法師の皮を着たる畜生」などと罵倒した二枚舌の男だ。

 この浅井が遷座の暁には宗門に復帰できるとの己の浅い読みが外れたことを、会員にどう説明するのか楽しみだ。呵々!

浅井昭衛よ、御遷座を強行した日顕に顕正寺をサッサと御供養してはどうだ早く実行しないと「猊下」は退院したといっても重病だから手遅れになるぞ
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