フェイク 第599号 (発行=2005.04.21)
日顕は逃げ、若手坊主の名で反撃
浅井と日顕、共に学会資料を使って対決
「浅井は正本堂の意義に賛同、御供養に参加した」


 顕正会の浅井昭衛が日顕に創価新報など学会系文書の情報を元に、「身延与同」「大御本尊偽物発言」など日顕の謗法等について三点にわたり「対決」を申し入れていたが、日顕は対決を回避。卑怯にも他の坊主に反論を書かせた。

 日顕と対決などと威勢のいい浅井も、実は、直接対決を巧妙に避けている。それは対決の場所を実在しない「大石寺大客殿」とし、聴衆人員を「双方各二千五百名」と明記していたことからも分かる。顕正会の狂った者達の登山を、宗門がこれほど多く許可する筈がない。浅井は、そのことを見越したうえで日顕に果し状を突きつけたのである。

 こんな見え透いた芝居も見抜けない顕正会員だから、浅井に洗脳されるのだ。

 一方、日顕は教学部長当時の昭和四十七年、浅井との正本堂の意義に関する話し合いから逃げて有馬温泉に潜んでいた。今回も教学部の水島公正(能安寺)や原田輝道(了性坊)らに「青年僧侶邪義破折班」と名乗らせて、法華講の機関紙「大白法」で反撃させている。

 さて、この破折班は、浅井に対し「痴れ者」「老いさらばえてなお生き地獄を彷徨(さまよ)う」等と、坊主の文章とは思えない汚い言葉で罵り、「三途の旅路の杖」にせよ、と書いている。だが、これらの言葉は皮肉にも、そのまま日顕にも当てはまるから滑稽だ。

 日顕の代理の坊主共は、顕正会(元妙信講)が昭和四十九年八月に解散処分に付され、浅井も同年十一月に除名処分になっていた経緯を述べた後、浅井もかつては正本堂の意義に賛同していたことを顕正会の機関誌「冨士」から指摘しながら、浅井を追い詰めている。

 まず、正本堂建立の御供養が行われる直前、浅井が「すでに広宣流布の時はきております」(「冨士」昭和四十年八月号)と発言していた事実を挙げ、浅井が正本堂の意義に賛同し御供養を奨励していた言葉(同昭和四十年七月号)を紹介。その文を浅井が「顕正会『試練と忍従』の歴史」(同昭和六十一年八月号)に転載するに当たり「戒旦の大御本尊が奉安殿よりお出まし遊ばされる……この宗門全体の重大なる慶事に」等の都合の悪い箇所を削除していた手口も指摘している。

 そして@浅井が「正本堂御供養に対し、今回その志をめでられて猊下より袱紗を賜った」(同昭和四十四年九月号)と嬉しそうに発表していたこと、

 A後で御供養に参加したことが都合悪くなった浅井は「当時はまだ誑惑が顕著ではなかった」(同昭和六十一年八月号)と苦しい弁解をしていたこと、

 Bしかし、それ以前に浅井は「昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において同上人(日達)は、正本堂が御遺命の戒壇に当たる旨の説法をされた」(同昭和五十二年八月号)と述べていた矛盾を鋭く突いている。

 坊主にしては上出来だが、実は、これは彼らが調べて書いたものではない。日顕も、妙観講の大草一男も、こんな視点から浅井の矛盾を批判したことは一度もなかった。

 学会男子部が浅井の自語相違、矛盾点を調査し、作成した「顕正会破折資料」を坊主共が勝手に盗用したのだ。坊主にしろ、浅井にしろ、盗人猛々しい奴らだ。
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