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大坊棟札問題はクリック

顕正会が主張する天生原、もしくは天母山の検証ポイント

◎宗門上古に、御遺命として、また御遺命の地名として、天生原、もしくは天母山は存在したか?
◎誰が天生原、もしくは天母山の名と御遺命法義を言い出したか
◎要法寺と大石寺との天生原、もしくは天母山関連
◎富士の歴代上人の天生原、もしくは天母山肯定関連文書を検証する
◎この天生原、もしくは天母山関連のグダグダ難癖

かくて国民の過半数の六千万人が地涌の菩薩の魂にめざめ、 日蓮大聖人に南無し奉り、
戒壇建立を熱願する時、国会の議決、閣議決定そして天皇の詔勅も申し下され、
三大秘法抄に仰せのままの国立戒壇が、富士天生原に屹立するのである。 まさに六千万人の国民投票こそ、
国立戒壇建立の関所である。 この関所を見つめ、いよいよ本年から「御馬前の戦い」が始まる。勇躍歓喜して大聖人様に応え奉ろうではないか。


(平成二十四年 元旦の浅井氏の発言:顕正新聞)




◎誰が天生原、もしくは天母山の名と御遺命法義を
言い出したか?


「宗門上古に、法義(御遺命)として天母山は成立しませんでした、それでは富士に誰がこの法義を持ち込んだのか。を検証してみます

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それでは天生原について検証してみます。
まず、日蓮正宗の歴史に於いて、天生原という名称の初出は、富士宗学要集には左京日教の「類聚翰集私」に「東方に小国有り、唯大乗種姓の日本国の駿河富士郡大日蓮華山より本門の戒壇院立ちて、あまふ(天生)の原に六万坊立て・大法東よりすべきなり(富要二巻)と云う文が恐らく初めてかと思われます。同じく左京日教師は

◎天生が原に六万坊を立て法花本門の戒壇を立つべきなり(富要二巻)や
◎霊山浄土に似たらん最勝の地は南閻浮提第一の山・駿州富士郡の大日蓮華山・先師自然の名号有る山の麓・天生原に六万坊建立有るべし(富要二巻)
という文章が同時代に発見できます。

さてこの左京日教師、堀上人の研究に依れば、元は要法寺の僧侶で、本是院日叶ともいい、出雲出身。馬木の住本寺の大寺である安養寺で出家し、後に住持となる。年代不詳ながら師匠の上行院日広の代理で雲州本山・安養寺として申し状を呈している。文明十六年頃に左京阿日教と道号を改め、後さらに顕応坊日教と改めています。富士には文明十二年頃、有師の化風を慕って富士に改衣し、南条日住とともに鎮師をサポートしたが、その後重須に移りそこで亡くなったと云われています。尊門末流時代は明らかに天台風で富士に移って「穆作抄」では宗祖本仏を理解された後が伺えます。

左京日教から約80年後、要法寺の日辰が『御書抄・報恩抄下』を著し、「富士山に西南に当たりて山号は天生山と号す、此の上に本門寺の本堂御影堂を建立し、岩本坂に於いて仁王門を立て六万坊を建立し玉ふべき時」という説を為し、大きく「天生山に戒壇建立」という説を吹聴しました。しかし、その源は前述の日教にあり、これが「天生原に戒壇建立」「天母山戒壇説」の生まれた経緯なのですね。

日亨上人が、「この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)真面目な後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にもせよ、天生原の寸地に、いかに重畳して摩天楼にしても、六万の坊舎が建設せらるべきや」(富士日興上人詳伝二六八頁)とハッキリと六万塔の空疎な設定、京都からの法義の移流を否定されています。

広蔵院日辰は天文法華の乱の後、永禄元年富士方面に往詣した折りに、要法寺系で流布していた三大秘法抄に云われる富士戒壇(ただし造仏論)を西山や重須で吹聴し門下統合を唱えた、その際に戒壇地を富士山に求めるも、曼荼羅正意の大石寺の存在を無視するために、あえて大石寺正嫡を辰師没後に富士との交流が成り、相伝書の往来や本尊の交換と同時に天生原や天母山伝説が富士系に流伝してきた経緯があります。

五十二世日霑上人の興師略伝という明治十七年に出された書物には「上野の郷主南条七郎次郎時光の請いにより富士の上野に至り玉ふ時に、南条氏已に一坊舎を営み、師及び御弟子等、此処に住ませ奉る是即ち今の上條村の下の坊、是なり。この坊舎より遙かに二十余丁北の方に当たって、広々たる広野有り、大石の原と名ずく。師或る日御弟子等を率い、此処に遊び四方の風景を望み玉ふに実に無双の絶景、四神相応の勝地なれば将に本門戒壇の霊地とするに耐えたりとなし、此処に一宇を創立し広宣流布の時至るまで永く累地に移すべからずとて、その地名をば大石の寺と号し、宗祖出世の本懐本門戒壇の大御本尊並びに正御影及び造初の御影、御遺骨等を此処に安奉して御弟子等各々支坊を建立し、以て是を衛護し三時の勤行怠りなく日夜に行学精進し玉ふほどに(日興上人略伝)」

明治十六年の日霑上人出版物には天母山も天生原も出てきません。浅井氏が論ずる上古云々は思い違いではないかと推察されます。以上に対し、京都六角要法寺の今に残る文書類では、かなりの語句が散見されます。以下はその一端です。

要法寺文書に見る天母山(万坊が原)◎「富士山下の教線伸張には万難を排し門下の法子を激励された諸点に留意考察して、本門戒壇建立の境域は富士山を背景とする景勝優美なる裾野の地域である事は理在絶言さればこそ晩年興師に指名されしによりても聖旨の深遠なるを推し測られる、由て興師としては師命奉戴の責任上無際限に深山幽谷の身延の聖廟守護のみで能事是れ終れりと苟も安を貪らるる筈が無い、果然波木井の非行に因れる身延離山が直接動機となり彌々御遺命実現に一歩進めらるることとなり、本門戒壇建立予定地たるべき方向指定のため勝境を実測踏査せられたる結果(中略)永仁六年二月諸堂完成し「大日本富士山本門寺根源」と祝喜の扁額を掲げ未来国主信伏時の準備に擬せられた霊地が今の北山本山本門寺である。更に天母山の南方平原に宗都建設坊舎建立の地割を区画せられた其地は万坊が原の名を存せるにより考ふるも、経営準備のもたらせる雄図の一端をサコソと肯かれるではないか。(甲州の生める教傑・白蓮日興:富谷日震・大正十三年四月十三日発行)

日興上人略事蹟・富谷日震には◎「一、富士山麓の宗門経営:本門授戒の霊壇即ち本門大戒壇建立の基本経営を遂げ将来に備ふべき黄金境招来の基礎を打ち立てられんとせられたのが、宗都建設の雄図、大聖人の予断された霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇建立の前提である。而も登壇受戒者は人界のみならず大梵天帝釈等の天衆を来下して踏み給ふところ天人合一の平和境、換言すれば大本門寺建立境である。之が為には六万坊建立の坊舎地割を区画されたと伝わる万坊が原、天母山の地域選定に関する事蹟の如き、一つとして宗都建設の計画を事実的に地上に印せられた現証ならざるはない。(昭和七年三月一日発行)

こちらなら浅井氏の論拠に十分なります。六万坊も天母山なる名称も出ております。もしかすると浅井氏が言及する上古や本宗と云っているのは、本意は要法寺ではないかと錯覚するほど、実に豊富な文証が存します。

◎要法寺と大石寺との天生原、もしくは天母山関連
昭和四十五年六月二十八日の「天生原・天生山・六万坊の名称と本宗の関係についての一考察」から達師のご見解を伺う

達師:「で、なぜその時分ですね、寛師の前後において今言ったこういう言葉が、相伝だと間違えるほど、要法寺の法門がはいってきたかというと、もうほとんど御書もなにもみな日辰そのものの御書を使っておった。『富士年表』を見ればわかるとおりに。年表の一六八八年、元禄元年八月の項に、

大石寺什物京都要法寺日辰筆写の御書全部を京要法寺に寄す。(富士年表)

ちゃんと出ております。これは年表の方々がみな考えてお書きになった。この元禄の時代になって、今まで大石寺にあった要法寺系の本をいちおうみんな返してやった。要法寺じゃ無くなってしまった。代々偉い住職がみなこっちの住職として来ちゃったんだから、みな持ってきたらしい。だからそれほど要法寺の法門が本山へはいってきてるんです。今の紫宸殿の御本尊という名称もそうです。非常に法門が、純粋の富士の法門から抜けていってきた、ということを考えなければならない。

日寛上人よりも前の十五代日昌上人がさきほど申したとおりに、京都の要法寺から来ております。そのためにこの戒壇説というものが京都の要法寺から入ってきておる。十五世日昌上人、それから日就上人、日精上人、日盈上人、日舜上人、日典上人、日忍上人、日俊上人、日啓上人、これですね。すなわち日昌上人はさきほどの日辰について勉強した人です。それから日就上人は要法寺の系統から来た人で要法寺の日シュウの弟子。それから日精上人もやはり要法寺の日瑤の弟子。それから日盈上人、この方だけが比叡山系。それから日舜上人が要法寺で出家した人、のちに日精上人に就いた。日典上人が要法寺日恩の弟子。それから日忍上人が要法寺において出家した人。それから日俊上人が要法寺日詮の弟子。それから日啓上人が要法寺二十八代日祐の弟子。それから日永上人がはじめて本山、この上野の人。しかし日典上人について学んだ。要法寺系の日典上人について勉強してます。こういうふうになってきています。それから日宥上人、日寛上人となる。この辺からほとんど要法寺系統の法門がはいって来ちゃって、それでこの時に、今の六万坊とか天生原、天生山という説が伝わってきた。それが相伝となってきたということが明らかであります。」(日達上人:昭和四十五年六月二十八日 御説法)


◎富士の歴代上人の天生原、もしくは天母山肯定関連文書を検証する
浅井氏の上げる歴代上人の御発言に対し、否定的な見解の御歴代発言を併せて、その実意を検証する

大石寺では主師以降、15世日昌上人より23世日啓上人に至るまで、要法寺を出身とする御歴代上人が続き、この時期に日辰の『御書抄』をはじめ要法寺の文献の大半が大石寺へ移されました。こうした経緯によって、次第に要法寺の家風と尊門にあった「天生原(天母原)戒壇建立説」が大石寺大衆に入ってきたのは自然な事ですね。
したがって、「天母山戒壇説」は、もともと富士の古義にあったものではなく、尊門系の日教・日辰によって唱えられた説で有る事が理解できると思います。

富士でも交流・通用が続いた結果そういう考えが残って、後に「天生原、天母山」という名前が出てきたのであり、検証したように興尊の時代には大石が原近辺にそういう名称地もまた、古義も存在はしていません。浅井氏の上げた歴代上人の天生原以外に歴代の御文書を以て大石寺=戒壇建立地を検証してみます。

◎「戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし(三位日順師・本門心底抄)」

◎次に本門寺根源のこと、日蓮一大事の本尊有る処、寺中の根源なり。若し爾らば、板本尊の在す処、本門寺の根源なり。(第十八世・日精上人:家中抄)

◎当山は本門戒壇の霊地なり。またまた当に知るべし。広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。(第二十六世日寛上人:取要抄文段)

◎広宣流布の日は当山を以て多宝富士大日蓮華山本門寺と号す(三十一世日因上人・富士記)

◎「大聖人の御魂たる本門戒壇の御本尊在します所が即ち是れ道場にして常寂光浄土なり。然れば即ち今は此の多宝富士大日蓮華山大石寺、広布流布の時は本門寺と号す(第四十四世・日宣上人:文政五年の御説法)

◎師或る日御弟子等を率い、此処に遊び四方の風景を望み玉ふに実に無双の絶景、四神相応の勝地なれば将に本門戒壇の霊地とするに耐えたりとなし、此処に一宇を創立し広宣流布の時至るまで永く累地に移すべからずとて、その地名をば大石の寺と号し、宗祖出世の本懐本門戒壇の大御本尊並びに正御影及び造初の御影、御遺骨等を此処に安奉して御弟子等各々支坊を建立し、以て是を衛護し三時の勤行怠りなく日夜に行学精進し玉ふ(五十二世日霑上人の興師略伝)

◎「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり、本門戒壇建立の勝地は当地富士山なること疑いなし。また、その本堂に安置し奉る大御本尊は今、眼前にましますことなれば、この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、もしこの霊場に詣でん輩は無始の罪障、速やかに消滅し云々」(日開上人:御法蔵説法)

◎「第三に戒壇と申しますと大聖人の御本尊を受持致すことでありますが、大聖人の終窮究境の御化導は一閻浮提一同に本門の御本尊を信じ奉ることにありまして、その時に一同帰命の御本尊を安置し奉るところを本門の戒壇と仰せられたのは本抄に明らかなところであります(淳師・三大秘法抄拝読)


浅井氏が上げた歴代上人の天生原説は量師、隠師、そして応師です。各上人の御文書を検討してみます

◎「大石寺も未だ真実の本国土にあらず、天母山はこれ本国土なり、しかれども肝要の本尊未だ住し給わず、戒壇の地を富士の天生山に撰び置き板御本尊及戒壇堂の額御真筆在り、(第三十五世・日穏上人・五人所破抄一覧)依道林日宜写本加少訂但穏師原本遂不可得也。昭和九年秋 雪仙日亨判

この末文に日亨上人が注釈を設けられています、それによるとこの隠師の文書は正文書ではなく、写本だそうで道林日宜師という方の本に少し校訂を加えとあります。残念ながら大石寺にはこの隠師の正本は得る事ができず、とありますから史料としての精度は如何でしょうか。

◎「本門寺に掛け奉るべしとは、事の広布の時、天生原に掛け奉るべし」(第四十八世・日量上人)

◎「富士山の麓に天母ヶ原と申す曠広たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立ありて」(第五十六世日応上人)


量師も写本で正本はありませんが、隠師と量師もある時期の御歴代に残された古伝をお書き留めされたと云う見解が考えられると思います。応師の御発言ついても、淳師の御指南を引用してみたいと思います。

◎戒壇の場所でありますが三大秘法抄には霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立せよと仰せられてありまして、何処とも御指し示しがありませんが、二祖日興上人へは富士山に本門寺の戒壇を建てよと御遺附遊ばれてをります(日淳上人・日蓮大聖人の教義)

このように、淳師は「何処とも御指し示しがありません」と仰せであります。応師の後代の上人が斯く仰せと言うことは、伝承を置いて開山上人の御代に立ち返っての御指南かと思われます。そして開山上人に天母山や天生原云々という記述は先に検証したように見られなかったのであります。此処は純粋に、大石寺=戒壇建立地と拝するのが自然な着地かと思われます。浅井氏はかつてこの戒壇建立地について以下の様にその見解を述べていました

◎『日興上人は、身延を離山されてから、まず上人の養家河合の由比家に落着き、ついで上野の郷主・南条時光殿の招きをうけて下条にある南条家の持仏堂に移られた。この持仏堂が、実は現在の下之坊である。
下条より約半里ほど離れた北方に「大石が原」という茫々たる平原がある。後ろには富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。かくて、日興上人は弘安二年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場として地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号されたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始まりである』(顕正会機関誌「富士」13号(昭和39年8月23日発行)に掲載)


◎かつては浅井氏も大石寺その地が戒壇建立地であったと認めていた文書であります。ここにこの問題は決着した感があります。「広宣流布の根本道場として地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号されたのである。」コレが全てでありましょう。宗祖御遺命の富士とはそのまま大石寺の山号、つまり多宝富士大日蓮華山大石寺に現れているではありませんか。



それではこのパートの結論です。
天生原にしても天母山にしても、戒壇建立地として宗祖開山の文書類の中にも上古の時代にも見あたらず、有師以降のものであると言うことが確認できます。つまり浅井氏の宗門上代に、と云う説は成立しませんでした。


記紀において、アマテラスが禊をした時に読まれたという「筑紫の日向のたちばなの小戸のあおきがはら(日本書紀では橘の檍原)」この文中のあおきがはら、実は色んな呼び方があり、九州ではこど(河童)のあまき原(天生原)といって、天生原の字を当てる地域もあるそうです。
要法寺がある京都と云えば都の風習でこうした神式のお祓いの祝詞にも使われた言葉が時を経て要法寺から富士に伝わったのかも知れません。

◎宗門上古に、御遺命の地名として天生原、もしくは天母山は存在したか?

顕正新聞の第457号、平成元年一月二十五日号の浅井氏発言
『日寛上人以後の「天生原」説は要法寺日辰の影響』と云って片づけた以上、細井管長にとって、絶対にあってはならないのが、宗門上代の文証である。 そこで細井管長は「当国天母原に於て・・・」と記されている日興上人の「大坊棟札」を〝後世の偽作〟と云い放った。その理由を十ほど挙げているが、そのすべては例によってズサン極まる推量にすぎない。

◎なにやら浅井氏、「大坊棟札」をもって何とか上古、つまり興尊の時代から天生原が御遺命の嫡地にしたい魂胆見え見えですが、さてはてそーなんですかね。確かに御歴代には天生原が戒壇建立の土地という御指南がありますが、浅井が云うほど「歴代法主上人の御文はあまりにも赫々明々」なんて・・・実はそんなに頻出するモンではないんですね。ちょっと大坊棟札はあとで、先にコレ、こなしてしまいますよ。

興尊滅後16年後に、重須談所学頭でもあった、三位日順という方が書かれた「本門心底抄」ちゅうのに、こんな文章あります。

◎「戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし(本門心底抄)」

この文章、実は寛尊もお引きでして。「寛師抜書雑々集」には「相伝に云く富士山天生原において戒壇を建つ、岩本実相寺のところにおいて惣門を建つ云々。もし、然(し)かれば戒壇の方面自ら分明なり、何ぞ地形に従うベしといわんや更に検する」という御指南があります。これだけだと浅井センセー一派大ヨロコビ組になってしまいます。でもちゃんとオチがあります。

この後文に「もししかれば戒壇の方面自ら分明なり、何ぞ地形に従うべしといわんや更に検する(寛師抜書雑々集)」と、続いてるんですね。コレって先ほどの三位日順師の文章と似てますね。

◎「戒壇の方面は地形に随ふべし(本門心底抄)」
◎「何ぞ地形に従うべしといわんや(寛師抜書雑々集)」


そーなんです、これ実は寛尊がその真偽を検証されているんですね。日順師の「戒壇の方面は地形に随ふべし」の地形に随うという言葉の後には「国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし」とあって、これを見る限り興尊の仰せとか、無いですね。だって、「智臣大徳宜しく群議を成すべし」だから国主が帰伏して、建てるって時にはその時の智慧のある大臣とか、大石寺の大徳(お坊さんの別称ですけど、この場合は責任有る僧侶)会議して決めなさい。という意味ですね。

寛尊も相伝では、一往は天生原が戒壇建立の地であると聞いてますが、三位日順師の文書上はそうではないようだと。もし天生原が戒壇建立の地なら、戒壇の方面は決まっている(この場合は天生原)が、その場合は「岩本実相寺のところにおいて惣門を建つ云々」と聞いている事を書かれてます。岩本実相寺って、興尊がおられた天台系の大きなお寺なんですけど、後に日蓮法華宗に帰伏してるんですね(日蓮宗本山格寺院)。まぁ、そこが総門だ、というんですね。(どんだけ大きな境内なんでしょ)

でもね、ここが大事ですね。「何ぞ地形に従うべしといわんや更に検する」この何ぞの所は三位日順師が残した遺文の箇所ですね。そーなんです、寛尊はだったらなんで、地形に従う何て言葉が残っているんだ?と疑問符で、そこから「更に検する」とこりゃ検討の余地有り。とお遺しなんですね。

まぁ安直に書くと、興尊の時代の日順師が残したお書きモノ『本門心底抄』には「戒壇の方面は不明」とあります、いちおう天生原って伝わっているけど・・・??・・、ホントか??とりあえず、こりゃ再考だな(更に検する)、という事でしょうか。
なぜこんな風な展開になったか、といいますと、この「岩本実相寺のところにおいて惣門を建つ云々」ですね。これが似たような文書がありまして、それが寛尊が六巻抄でメタメタに破した広蔵院日辰サンなんですね。

◎要法寺日辰の「御書報恩抄下」に「富士山に西南に当たりて山号は天生山と号す、此の上に本門寺の本堂御影堂を建立し、岩本坂に於いて仁王門を立て六万坊を建立し玉ふべき時」

ここに、「岩本坂に於いて仁王門を立て」なんて言葉有りますね。仁王門ってまぁこの方、造像家でしたから、造像の宗派って門の所に仁王門建てるんですね、あの右と左が仁王さんで阿吽と云うヤツです。だから総門との違いはあれども、なんだかおかしいって、普通思いますよね。
まぁココだけの話、大石寺でもこの尊門造像関係はかなり書物が有るみたいで、広蔵院さんとか造像家のお書き物(写本)がかなり残っているそうです、他門研究されてたんですね。
ココまで来ますと、浅井サンが云った「御遺命の戒壇建立の地は天生原」・・・・、かなり眉唾っぽいですね。なんてたって、三位サンの文章とか寛尊の御指南とか、シカトですからね。



◎宗門に上古に、法義(御遺命)として、また地名として、それは存在したか?その検証:2

寛尊と寛尊著物に引用された三位日順師の文書は検証した、それでは宗祖、興尊が残された著作物にその御遺命の地名・法義はあったのかを検証する。

浅井氏云わく「細井管長にとって、絶対にあってはならないのが、宗門上代の文証である。」という箇所ですが、浅井氏はホントに宗祖や開山の文書を精査したのでしょうか?疑問です。

◎三大秘法抄に仰せのままの国立戒壇が、富士天生原に屹立する(平成二十四年元旦・顕正新聞)

上古に確かにあったというならば、御歴代等の途中人師をひとまず外して、一番の元に戻って宗祖はどういわれていたのか?また後嗣である興尊は戒壇御予定地をどう定められていたか?それを探れば解決する問題でありますね。明確な予定地・指定地が確定できなくとも、富士に移られてからの興尊の御弟子方の書物に何らかのご指示は見いだせるはずでありますね。コレを詳細に検証すれば、浅井氏の云っている事が正しいか、間違いかは即断できる訳であります。

まず宗祖並びに開山上人は戒壇の事について、御書物を検討してみます。

◎日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てられるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つベきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。(一期弘法付嘱書)

一期弘法付嘱書に於いては宗祖は「富士山に本門寺の戒壇」と記されただけで、何処という指示はなかったものと拝せます。それでは興尊です。

◎身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ、詮にて候え。(興尊・原殿御返事・正応元年戊子十二月十六日)

◎日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(日興跡条々事)
◎百六箇抄四十二:下種の弘通戒壇実勝の本迹、三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり。〈上行院は祖師堂云云弘通所は総じて院号なるべし云云〉(興尊:百六箇抄)
◎「四大菩薩同心して六万坊を建立せしめよ、何れの在処為りとも多宝富士山本門寺上行院と号す可き者なり時を待つ可きのみ云云」(興尊:百六箇抄)


残念ながら宗開両祖ともに、富士方面(富士山)と云うだけで具体的な地域名は見いだせませんね。
特に興尊の身延離山直後の「原殿御返事」では「いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて」とありますので、離山直後には確たる場所特定は無かったと思われます。それは、「何(いずく)の在処たりとも多宝富士山本門寺と号すべきなり」との御文証とも一致し、同じ文書の「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂」とあるくらいで、本門寺の地は富士山という漠然とした地域名のみです。

しかも、いま我々が見れる百六箇抄は<興尊→日尊>という相伝書ですので、もう少し、富士門流に近いものはあるでしょうか。

◎「戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし(三位日順・本門心底抄)」
◎「駿河国富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり、二には四神相応の勝地なり。」(富士一跡門徒存知事:新編一八七三頁)


いずれにしても、明確な指定地名ではないですね。
浅井氏が述べた三大秘法抄の御遺命の箇所とはどこでしょうか?「戒壇建立を熱願する時、国会の議決、閣議決定そして天皇の詔勅も申し下され」とありますから、三大秘法抄の以下の部分かと思われます。

「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下してLみ給うべき戒壇なり(三大秘法抄)」

しかし、この御妙判には明確な場所特定はございません。それを知ってか浅井氏は次のように強弁している

次に「場所」についての御指示は、「霊山浄土に似たらん最勝の地」である。
ここには地名の特定が略されているが、日興上人への御付嘱状を拝見すれば「富士山」たることは言を俟たない。さらに日興上人は広漠たる富士山麓の中には、南麓の「天生原」を戒壇建立の地と定めておられる。
天生原は大石寺の東方四キロに位置する昿々たる勝地である。ゆえに日興上人の「大石寺大坊棟札」には
「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」
記されている。ちなみに「三堂」とは、本門戒壇堂・日蓮大聖人御影堂・垂迹堂をいう。(日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ)


どうやら浅井氏の天生原の上古の存在根拠は「大石寺大坊棟札」のみのようである。その恣意的文書の箇所を指摘すると

◎日興上人は広漠たる富士山麓の中には、南麓の「天生原」を戒壇建立の地と定めておられる。
◎天生原は大石寺の東方四キロに位置する昿々たる勝地
◎ゆえに日興上人の「大石寺大坊棟札」には


これもかなり無理のある立論である、その依文が「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」とあって、この三堂について三堂を建立せよとされた大聖人・日興上人の御教示が、他に見られない。興尊が重州に御影堂を造立されたこと事実としても、三堂伽藍についてのご教示が、此の棟札と北山本門寺の「本門寺棟札」以外には見あたらない。 。

そして六万坊についても堀日亨上人は「『日興上人詳伝』に六万坊のことについて以下に仰せであります。

「六万坊の伝説、あまりにも空大すぎる。一閻浮提中心の仏都となりてもである。考うべきことなり。ある人は、いま現在の万坊が原をさして六万坊につきあわせるも、これはあまりにも狭少すぎて、一千坊すら建たざるべし。ただし、この伝説の根源となるべき古文献は、百六箇抄に挿入せられしもの等であろう。(詳伝二六七)

以上の検証でも、棟札の出てくる余地はないですね。それではもう少し歴代の時代を送って、どれ位まで富士山近辺が続くか見てみます。

◎日時師の御指南「本門寺の朽木書の御堂を大石に立て申す」
◎有師「大石は父の寺・重須は母の寺・父の大石は本尊堂・重須は御影堂・大石は本果妙・重須は本因妙・彼は勅願寺・此は祈願寺・彼は所開・此は能開・彼は所生・此は能生即本因本果本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり、開山置状に云く日目・日仙・日代は本門寺の大奉行中にも日代は日興が補処たり文、是は日興は母の得分にて御座すに依て日代には母の方を授け日目には父の方を授け給へり」(保田日要師新池抄聞書)」


此処に於いてハッキリ言えるのは、有師の代まで天母山や天生の文字すらないと云う事ですね。むしろ、時師の伝承として「本門寺の朽木書の御堂を大石に立て申す」とあり、また有師には「父の大石は本尊堂」とありますので、天生原や天母山を建立地が御遺命とかは無理がありますね。ここで、宗門上古には天生原や天母山という地名また、指定が無いと云う事が確認されつつあります。

浅井氏が懇切に指導も賜った第六十五世日淳上人は嗣法されたお立場から斯く仰せであります。

戒壇の場所でありますが三大秘法抄には霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立せよと仰せられてありまして、何処とも御指し示しがありませんが、二祖日興上人へは富士山に本門寺の戒壇を建てよと御遺附遊ばれてをります(日淳上人・日蓮大聖人の教義)

それでは上古にあった興尊の大本門寺構想と云われる文書に特定地があったか、を探ってみます。重須談所に居た日澄師や、弟の三位日順師等は

◎彼の本門寺に於ては先師・何の国・何の所とも之を定め置かれずと。爰に日興云く、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば駿河国・富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由・奏聞し畢んぬ、仍つて広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり。(日澄『富士一跡門徒存知の事』全集1607頁)

◎已来朝夕法華の学行を勤修し、昼夜本門寺の立つことを相待つの処に(貞和五年・本門心底抄)

◎大石寺は鎮護国家の本門寺の朽木書なる故に五節供等世の常の如し、重須は隠居所たる故に正月の松なども御門に立てたまはざるなり(左京日教:富要二巻)

天生原を持ち込んだ左京師がこういう論も述べていたとは驚きです、ちなみに此処に云う朽木書とは下絵の事で、今で云うなら設計図的な事でしょうか。

◎江戸時代の元禄二年(1689)の大石寺と北山の争論で北山からの訴状に
「本門寺は御影堂、大石寺は本堂の由、累年申し弘め愚人を惑わし候。此の段は往昔永正二年亥の六月二十六日、今川修理太夫親公、両寺の証文に御詮索成され理義分明の裁許の上に、御直筆の証文を本門寺に賜はり落着(富要九巻)

此処で云う本門寺とは事相の戒壇地ではなく、重須本門寺の事で重須僧侶が袈裟衣を色衣にしたことを大石寺が非難したことから、寺社奉行に訴えた文書ですが、ここにも「本門寺は御影堂、大石寺は本堂の由」とありますので、そうした古伝が本山近辺で当時有った物と思われます。

◎凡そ富士山本門寺建立の時は唯一箇寺なり、各別の寺と思ふべからず。今の上野・重須・妙蓮寺・東光寺・西山・久遠寺已上六箇寺之れ有り(中略)其の中に大石寺は本院、重須は奥の院、残り四箇寺は皆積学也。(精師:家中抄中)

興尊の伝記部分:下之坊に移り住し給へり。爰に北にあたりて原あり大石ケ原と名く、此の所に臨んで見給ふに景気余所に勝れて南北際涯なし東西に高山をみ、前には田子の海を呑み、後ろ富士野にいたる景明かに目に満ち、一空の皓月千里光を浮べて下化衆生の粧ひ眼前なり。無明煩悩の塵労悉くして上求菩提の気自ら成す、然る可き勝地なりと御覧して此に寺を建立し給ふ。広布の気を発する迄異地に移すべからずとて、所を以って寺に名けて大石を以って号を建て板本尊並びに御骨を此所に安置し給へり。((精師:家中抄・富要五巻一六四)

寛尊はこうした伝を踏まえて本門戒壇の本尊所在の所を本門寺と号すべし(寛尊:文底秘沈抄68頁)と教示を残されていますが、それではこの天母山や天生原は誰がいつ頃もたらしたのでしょうか。右ブロックに移ります。

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