【立正安国論と忍難弘通の歩み】(大白法・平成21年4月1日号)

 徳川十三代将軍家定の夫人であった天璋院篤姫と、本宗信仰との関わりについて、これまで語られることは少なかったが、この記念展では関係資料が集められている。
 篤姫関係で最も重要な資料は、第五十一世日英上人が造立された遠信坊板御本尊裏書(総本山蔵)である。
そこには嘉氷六(一八五三)年頃帰依した薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)公と、本宗信仰との関わりが記されている。

 斉彬公は養女篤姫を将軍家に輿入(こしいれ)れする願望を懐いていた。
その祈念を日英上人に願ったが、見事にこれが成就した。
そこで金子百両の御礼御供養が斉彬公より下賜)かし)された。
日英上人はこの御供養を元に、遠信坊を再々興したといういわれが、裏書きに記された内容である。

 間もなく斉彬公は薨去(こうきょ)するが、時は移り、日英上人が説法稿本『時々興記留』を記された万延元(一八六〇)年の頃、天璋院が大聖人の仏法を求める姿勢は切実で真剣なものがあった。
輿入れの後、間もなく夫君家定公を喪(うしな)った上、江戸城の炎上があった。
さらに安政の大獄、桜田門外の変と、世情の混乱も続いていた。

日英上人はこの年三月、天璋院より天下安穏の祈念をして欲しいとの願いを受けられた。
そこで、三月十四日より五十一日間、朝昼夜に分けて、日に十二時間の唱題を行いつつ祈念したところ、次第に世情も平穏になった。
そこで天璋院より懇(ねんご)ろなる御礼の御供養を賜ったというのが、『時々興起留』にうかがえる内容である。
天璋院の大石寺信仰を、時の御法主上人が証(あか)した史料である。

         ◇
 文久三(一八六三)年に、十四代将軍家茂が初めて入洛した際には、天璋院は母として、家茂の信心を励ましつつ送った書状も伝えられ(天璋院書状徳川家茂宛)、天璋院の信心の深まりがうかがえる。

 またこの頃、本宗に深く帰依していた人々として、斉彬公の大叔父に当たる八戸南部藩主信順(のぶゆき)公や、江戸薩摩藩邸大奥を取り仕切る小野嶋(おのしま)等もいて、天璋院の入信とその後の信心に、様々な形で影響を与えたであろう。
実際小野嶋は、天璋院と常泉寺におられた日英上人との間を、取り持つ役割を果たしていた。

 その後、天璋院は江戸城の無血開城に尽力したが、世上は明治維新を迎える。
それとともに天璋院も表舞台から去ることになった。
明治になってからは、信仰の動静をうかがう資料がこれまで見当たらないのが残念である。

 明治十六年十一月二十日、天璋院は四十九歳の生涯を終えたが、この時、第五十二世日霑上人が追悼の歌を詠(よ)んで手向(たむ)けられた。

  「雪霜に操たゆまぬ松か枝乃 あはれ玉 ちる志賀乃浦かせ 妙道」

 時代が変わってもなお宗門人の心に、天璋院の清廉(せいれん)な信仰の姿が灯となって、燃え続けていたことは確かであろう。



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